まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

ルーツ

2013-03-27 | 暮らし

叔父が亡くなった。母の弟だ。2月の終わりに会ったときは、自分で風呂へも入り、声は小さいが、わたしの体を心配してくれて、病状について話をしていたが、先日、酸素マスクをして、意識が薄れていく中で辛そうだったので、声をかけずに母の後ろで見守るだけだった。母が、叔父に静かに話しかけているのを聞いていて涙が出た。先に逝ったらいかんやろ・・と。母は82歳。叔父は73歳。

斎場で、従弟達6人でテーブルを囲んで話をした。母は8人兄弟で、わたしには従弟全部を認識できない。今回、テーブルを囲んだときに、従弟と話をして改めて、血縁というものはすごいと思った。何年も会わないが、何故か懐かしい面々なのである。小さいときに、お盆に集まった遠い記憶。何といっても、祖父母が同じなのだから(当たり前だが)、不思議な気持ちだ。本家の従姉は2年前にお父さんを亡くしている。伯父も酒のみだったという話。棟梁だった叔父も酒を呑んだらしい。「おじいちゃんも、90を過ぎても、茶碗酒だったよねぇ。」と、みんなで納得する。

母方は、鳥越の山奥の出なのだが、通夜の席で、白峰村の林西寺の住職のお話で、やんごとなきルーツを改めて聞いた。1300年前に、藤原氏が都から落ち延びてきたという、平家の落ち武者ではないということが、明らかになった。

従弟たちが、自分の名前で苦労した話を聞いて、盛り上がってしまった。ちなみに、「十佐近」(じゅうさこん)と、いうのが、母方の名前だ。「とさちか」とか、呼ばれて、なかなか読んでもらえなかったり、試験の時にマークシートに入りきらなかったり、極めつけは、野球の試合でバッターボックスに立った時に、「5番 ライト トサキン君」と、呼ばれて、打つ前から空振りの気持ちになったとか。こんな場で、がはがは笑っていてもいいのだろうかと思いながらも、棟梁である叔父の話を従弟兄弟がたくさん語ってくれた。こうやって、みんなで思い出を語るのが、供養なんだなあと思った。

別れはつらいが、私たちは生きていかなくてはならない。


西遊記

2013-03-26 | 読書

孫に「孫悟空」の話をしてあげようと思ったが、あまりにも曖昧模糊としているので、図書館で子供向けの本を借りた。借りてから気づいた。内容があなどれないのである。おまけに、全10巻。

文も素晴らしいし、絵もうまい。理論社、文「斉藤洋」、絵「広瀬 弦」。私の方が引き込まれてしまった。第3巻「水の巻」では、ついに「般若心経」が、全文出てきた。孫悟空は、八戒に内容を尋ねられると「そこいらにあるものは、あるように見えるけれども、ほんとうはないんだってことさ。」と、一言。玄奘三蔵も「そのとおりだ」と、いうくだり。

孫はこの4月で1年生になる。わたしが、読んでいるのを手に取って、2巻読み終えてしまった。

わたしが、話すまでもない。しかし、彼が髪の毛を抜く真似をして、口でふぅっと、吹くジェスチャーをしたら、びびっと反応しなくてはならない。悟空が増えた様子をみせると、次は「この馬は、あの竜が食った馬になった馬だ」とか、結構おもしろい言い回しを、やはり口にする。そして、ふたりだけで笑っている。

ふたりでブーム状態だ。しかし、わたしは、小学1年生のレベルということか。いや、この本は大人でも楽しめる。前に、童話や本は、子供だましでは子供は喜ばないと聞いたことがある。絵本も、大人が感心するような絵や文章は、子供の反応も良いのだ。

現在、3巻目。あまり先に進むと、孫に叱られるので、ふたりでポストイットを張り付けて、同じような進度で読むが、うーーん。先に進みたい。でも、あまり先に進むと、登場人物の名があまりに難しいので、ぱっと言われても飛んでしまう。拓塔李天皇とか、霊吉菩薩とか、烏巣禅師とか、読み仮名がないと読めないではないか。

子供というのは、柔らかい頭だと思う。平気で読んでいく。適当に読み飛ばしていくのかと思えば、いきなり、たくとうりてんのうは、前にもでてたねーーと、言う。問いかけるな。1巻読むと、1巻消えていく。年齢を重ねると、名前のファイルがぎっしりになるので、そうそう新しい名前はファイルに収まっていかないのだ。と、言い訳をする。が、これはほんとらしい。

脳科学者が言っていた。いつ、どの本で言っていたかは忘れた。年を重ねると、自分の都合の良い情報のみを選んでしまうようだ。


第35回加賀市武道館開設記念

2013-03-18 | 弓道

友達とか、仲間とかはいいものだ。身体を悪くしてから、本当に多くの人に声をかけてもらい、励まされた。

弓道の仲間とは、殆ど行き来もしていなかったが、この加賀の大会で受付をしていると、「部会に見えなくてさびしかったよーー」とか、誰かと思ったら・・・とか、あちこちで「久しぶり」「どうや・・」と言われた。

なんとか、この日のために試合に出られるようになったが、やはり、満足いくはずもなく、矢は体力のない身体から体力のない姿で的を避けて飛んでいく。

県連の会長からも励ましの言葉をいただく。35回目の記念大会に出ることができたこと。また、運営の仕事をやり終えられて良かった。

久しぶりに疲れた。3階までの道場を行ったり来たりし、自分の体を運ぶのも大変なのに、荷物を持って運ぶのはなかなかだ。

試合の途中で友達から、ポストに「毛生え薬を入れといたから」と、電話があった。嬉しかった。育毛剤と言わず毛生え薬というところがまたいい。わたしが、試合に来ているというと、「よかった。よかった。試合に出られるほど元気になったんやね」と、言ってくれた。同級生は心がほっとする。ほんとうにありがたく、早速、風呂上りに塗ったら、朝にはふさふさに毛が生えた夢を見た。

正夢だ。鏡を見ると、眉毛も髪の毛も、まるで散歩の途中のつくしのように、日々伸びて行くような気がする。

 

 


石谷家

2013-03-15 | 旅行

前日、三朝温泉で一泊し、夜には三味線や踊りを見て、その後、浴衣のままで川べりを歩いて、川に降りて足湯にまでつかった。日中は、24℃だったのにこの日は、最低気温6℃まで下がった。身体かついていけない。H先輩がつまらないダジャレを言うので、それも加えて寒くついていけない。しかし、先輩は敬わなくてはならない。つまらないだじゃれには、つまらないだじゃれで返すほかはない。

軒下には杉玉や、杉で作ったふくろうなどが飾ってある家が多い。

また、このあたりは立派な白壁の家が多い。その白壁も、どこの家もしみひとつなく、真っ白だ。瓦もしゃちほこがくっついている。

ついつい5千円で杉玉を買った。家内安全。何十年も持つと言われた。軒下に飾る前に家の中で、杉のいいにおいを満喫する。


鳥取砂丘へ

2013-03-15 | 弓道

弓仲間で、鳥取砂丘へ行ってきた。寒くて、砂丘へ降りる二人乗りのリフトに乗っていると、鼻水がでそうだった。二人乗りリフトは過去に苦い経験がある。スキーへ行ったとき、リフトから降り颯爽に坂を滑り降りたが、一緒に腰かけていた旦那がいなかった。リフトが急停止され、旦那はリフト降り場の下の網に引っ掛かっていた。助け出されてひとこと。「突き飛ばされた」と、誰に???わたしは、身に覚えがない。とにかく、スキーへ行くといろいろとハプニングが起きたが、今回も実は出発前にハプニングは起きていた。それは、本人の了解を得てから語ることにしよう。

傘をふたりでさして、足元にも雨除けで傘をあてた。まるで、ラブラブな夫婦のようではないか。背に腹は代えられない。何が背か腹か。だんなの腹はでかい。砂丘では、海の見えるところまですたすた歩いたが、だんなは息を切らしていた。自分の体重移動が苦しいのだと思う。わたしは、体力はなくなったが、体重も減ったので、歩くことは軽い。遅い旦那を心配し振り返ったら尻餅をついてしまった。砂丘に足跡と尻跡を残した。

強風のため、飛びそうなのは傘ではなく、ウイッグである。CMに使えるなあと旦那は言う。「強風でも飛ばないウイッグ。」


脳にとっての自由とは何か

2013-03-14 | 弓道

脳には妙なクセがある。

無意識と意識について。これは、日頃、弓を引いていて特に思う脳と身体についての謎に迫るのではないかと思える。

まず、自由意思は脳から生まれないという。自分の意志と思っていたことは、実は反射であるという。

「ヒトは自分自身に無自覚であるという事実に無自覚である」らしい。正しい反射をしてくれるか否かは、本人が過去にどれほどよい経験をしてきているかに依存する。「よく生きる」ということは「よい経験をする」ことだと考える。すると「よい癖」がでる。「頭がよい」ということは、「反射が的確であること」と解釈する。その場に応じて適切な行動ができること。苦境に立たされても、適切な決断で、上手に切り抜けることができる。コミュニケーションの場では、瞬時の判断で適切な発言や気遣いがてきること。そのような人を頭の良い人という。

ここで、池谷先生は、人の成長は「反射力を鍛えること」という一点に集約されると言われる。そして、反射を的確なものにするためには、よい経験をすること。悪い反射癖が身についてしまうと、なかなか元へ戻せない。

そこで、例えばテニスやゴルフで・・と、脳の作動原理としては、身体運動と直感はともに手続き記憶という同じプロセスであるという。

で、結論は、わたしの場合、すっかり悪癖が身についてしまった状態となり、ここしばらく休んでいたために、それが抜けていればよいが、どうも、悪い環境を身につけてしまったことが、半年やそこらでは抜けないと思う。

ここから、自由意思と思っていた自分の脳が、無自覚であるということにつながり、わたしの「あれから、ん十年」積み重ねたことは、マイナスの稽古だったのではないかと思われる。

恐怖に陥りながら、次の章へ読み進むのであった・・・・。

 


脳には妙なクセがある

2013-03-11 | 読書

脳科学者の池谷裕二氏の著書。「脳には妙なクセがある」を、読んだ。

読みながら、脳の働きと弓道との因果関係を検証してみた。

恋をすると脳の処理能力が上がる!?

損得抜きで相手に尽くそうとする気持ち。特定の異性に対してすべてを犠牲にしても後悔しないという熱い思い。恋愛は盲目性を生み、この盲目性が原動力となって、意外な勇気、あるいは無謀を与えてくれる。脳の処理能力は、身体的には具体例がないが、判断する時間があがるらしい。また、やる気やモチベーションに関わる脳深部が活性化する。

では、弓道との因果関係があるのかというと、この「尽くして求めず」と、言う言葉が、常日頃弓道人には求められること。尽くせば求めてしまう。恋も、尽くして成就したいではないか。問題は脳の働きなのだが、尽くして求めてしまう心が的から遠ざかるのである。本当に尽くして求めずという心境になるにはどうしたらよいのか。尽くさず求めるという問題外の考えも浮かぶのである。棚からぼた餅、濡れ手で粟を掲げて生きていることの軽薄さ。尽くして求めずなので、的中がなくても当然なのか。いや、的があるのに中てなくては。この葛藤は、愛すべきか、否かということか。熱い恋をしなくては。いや、今更・・

脳は妙に人目を気にする!

社会的認知を「自分と同種の生物に対する行動を支える情報処理過程」と定義している。定義の例として、行動の「抑制」と定義する研究者もいる。それは、「一人の時に出来る行為が、人前で出来なかったとすれば、それは社会的認知だ」というもの。

では、人目を気にして、いつものようにできないというのは、社会的認知なのか。平常心で臨めというのは、人前でも平気でおならをしろということか。あぁ。やはりできない。人前で弓を引くと、他人に謙虚になり的中も謙虚になるのだ。

 

 


久々の稽古

2013-03-08 | 弓道

8月の県体以来、加賀市の道場へ行けなかったが、暖かくなったので、初めて弓を担いで道場へ向かった。

加賀市の道場は3階にあるので、階段を上る時点で息があがる。シルバー川柳みたいなものだ。「目には蚊 耳には蝉を 飼っている」というのがあった。「階段で 足が上がらず 息上がる」と、できた!と、喜んでいる場合ではない。

あづちに水を撒いていると、知らない顔ぶれが何人かみえる。新しく入った教室の人たちだ。浦島太郎のようなものだ。

みんなが、「おおっ。大丈夫か。」と、声をかけてくれる。友達のも〇ちゃんに作ってもらったストレッチのメニューを、無理しない程度に1か月続けていたお蔭か、なんとか引けるようになったが、頬付がつかない。いや、それは前から付いていないだろう。と、指摘される。4本ほどしたら、前のびくの癖が出た。前の癖が出たということは、復帰した証拠だと笑われる。髪に弦がかすったので、来週の試合にかつらが飛んだら失の処理はどうするかと、心温かい仲間たちが、あーじゃこーじゃと考えてくれる。Tさんが「わたしが、どたっ!と、ころんであげるわ。みんなの気をそらして、その間に失の処理をすればいいやろ。」と、それを受けてだんなが「矢道に飛んだら誰が取りにいくか・・」と、夫婦漫才ではないか。

数本しか引かなかったが、笑ってばかりで、心地よく疲れた。たぶん、厳しい弓の道には程遠いが、「まあ今日はこのくらいにしておいてやるか。」と、早々に道具をしまって皆のお手並みを拝見。半年留守にしている間に、みんな非常にうまくなっているということはない。相変わらずの様子に、弓の道は厳しいと思った。しかし、少しずつ良くなっているのだろう。どこかで、力を発揮するに違いない。わたしは、最悪の事態を避けるよう努力しなくてはならない。

 


啓蟄(すごもりのむしとをひらく)

2013-03-05 | 暮らし

昨日は啓蟄。朝、散歩をしていたら土筆が顔を出していた。

さて、人間も啓蟄となるとなんとなく行動を起こしたくなるもの。

冬でも関係なく飲み会という行動は常にあるが、だんながその飲み会で遅くなった。啓蟄とはいえ、夜に帰るにはまだ寒い。いつもなら、車なのでコートは着ないが、こういう時は、帰りにあちこち歩く段取りがあるらしく、久々に黒いコートを着ていった。

翌朝、車は金沢なので再びそのコートを着てのたまう。「長い間、このコートを着ていて気付かなかった・・・」襟が二重になっていて、寒いときはベルトがついていて、襟を立てたまま固定できる。おまけに、ベストが内側についていて、ファスナーをしめるとコートの前ボタンをはずしたままでもいける。なかなかいいコートではあるが・・何か違う。

どうも、誰かのコートを着てきたらしい。先に帰ったので誰かは困ったに違いない。なんのへんてつもないただの黒いコートが残ったわけだ。

おまけに、そのコートを着てタクシーに乗らず、加賀温泉駅から我が家まで歩いてきた。さぞ暖かく快適であったろう。持ち主には申し訳ない。

啓蟄ならぬ軽薄 すごもりのあるじあいかわらず コートのまえをひらく