まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

蜘蛛の糸

2021-09-28 | 暮らし
市議会議員選挙が始まりにぎやかになってきた。
わたしも町内の選挙事務所に通い、後援会の仕事をしながら、お祭りみたいだと思いつつ、そのお祭りにのっかっている。
投票日が仕事なので、今日は婆さまと期日前選挙に行った。
ハガキに名前が書いてあるのに、まだ名前を書かされた。
ついでに、婆さまのハガキにも代筆で名前を書いた。
「投票の名前は書けるんですか?」と、聞かれた。
「書けます。」と、言うと不審そうだったが、耳が遠いので、どこに何を書くのかを説明するのに時間がかかるので代筆したのだった。

さて、衝立の所へ行って名前を書こうとしたら、あわや投票用紙に自分の名前を書きそうになった。いくつも自分の名前を書いたのと、書こうとする人のヘンが同じだったため、おっとっと・・・。

無事、すませて帰る。
さて、一体お釈迦様はどなたを助けるでしょう。

先日、実家で朝顔が空中に浮いていた。
支えの棒もないのに。
それは、蜘蛛の糸に絡まって伸びていたのだった。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を、思い出した。
「ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちをひとりでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。・・・・」
お釈迦様は静かな極楽で暇を持て余していたのだろう。
蓮池の水晶のような水面の下の地獄の様子を覗いていたわけね。
怖い話ではないか。残酷な様子を覗いているなどとは。
蜘蛛の糸で地獄のみんなが助かるわけではないのに、お釈迦様はぬか喜びをさせたわけだ。
いや、お釈迦様は試してみたかったのだろう。
いつだって、いろんな場面でわたしたちは試されている。
それを観るにつけ、お釈迦様はため息をおつきになる。

それにつけても、この朝顔はどこまで伸びるのか、蜘蛛の糸はいつまで耐えられるのか。
蜘蛛の糸に託している朝顔を、わたしたちは面白がっている。
季節外れの朝顔の哀しさ。


月見団子

2021-09-21 | 暮らし
今年の中秋の名月は、8年ぶりに満月だという。
今まで中秋の名月は満月なのだと思っていた。

じゃがいも餅で月見団子を飾る。
実家の栗を渋皮ごと唐揚げにして飾り、おかずになる一品を。


じゃがいもを茹でて、片栗粉と塩を混ぜてつぶし、蒸した後、薄いたれに転がして出来上がり。
これで二人分。

レトロモードでもう一枚。
ちなみに器は作家さんの湯のみ茶碗に皿を載せてみた。


この団子はお茶よりお酒の方が合いそうだ。
そして、盃に写る名月を飲み干したいものだ。
一体いつになったら友達と食事ができるのだろう。

夕方、とんでもないほど大きな月を東の空に見た。
稽古の帰りに道場の玄関から、みんなで見上げた。
今日も元気でありがとう。なんとなく月に言った。



横山大観の「中秋の月」の色紙。




糸瓜忌 (へちまき)

2021-09-20 | 暮らし
昨日、9月19日は正岡子規の亡くなった日だ。
正岡子規は明治35年9月19日の午前1時頃永眠。
その12時間前に書いた絶筆の3句

糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとゝひのへちまの水もとらざりき (明治35年)

へちま水は痰を切る効果があり、十五夜に取る水がよいとされていた。
子規庵の庭にもあったへちま。
自分の死後まで客観視するという強靭な精神力に感服。

わたしは2012年9月20日に癌の手術をした。
病院の窓から見る雲をみて、下手な俳句をよんでいた。
その時に義妹からもらった本が「子規に学ぶ俳句365日」だ。
子規が詠んだ句を作った日に合わせて並べてある。

そして、9月20日は

海原や何の苦もなく上る月(明治21年)

肩の力が抜けるような、ほっとする句だと思う。
するすると海の上に上っていく月が見えてくる。
弓もこんな風に引けたらいいのに。
するすると引いて、どっかーーんと満月に到達。

子規が35年の生涯で成した業績。
さて、健康なわたしはまだ何かをしなくてはならない。
プレバトを観て夏井先生の添削に感心しても、俳句のセンスはないので、まずは満月を眺めて考える。
そうだ月見団子を飾るところから始めよう。







おでん日和

2021-09-19 | 弓道
暑い暑いと思っていたのに、明け方に半袖が寒くなってきた。
稲はすっかり刈り取られた。


買い物に行くと、おでんと鍋の材料がずらっと並んでいる。
入り口には、おせち料理とクリスマスのパンフレットが並べてあった。
そうなると、この秋はじめてのおでんを作りたくなる。

全日本弓道選手権大会があった。ライブで観ることが出来て石川県の代表の応援をしていた。男子5位、女子4位を獲得した。素晴らしい活躍である。
しかし、なんだか物足らない。何故だろうと考えた。
やはり、出場人数がしぼられて20人というのは寂しい。
精鋭揃いなのかもしれないが、いろいろな人の可能性を含めて、多い方が盛り上がる気がする。そして、多い中から勝ち上がるのが醍醐味だ。
もうひとつは、弓道は静かに競技するのだが、ため息や、拍手や、感動の声が聞こえると盛り上がるだろう。
選手たちは緊張で、まわりが盛り上がろうが関係ないか。
ひたすら緊張の中で、粛々と弓を引いているのが弓道競技である。
しかし、すごい選手は会に入って微動だにしない、切れ味のいい離れ。
おおいに真似をして稽古をしなくてはならない。
良いイメージを浮かべて。

おでんのネタが的に見えてくる。
牛筋の串は矢である。
鍋の中で稽古してもなあ。




再び沈没 商品券

2021-09-18 | 暮らし
土曜に市民会館は9時から、アビオは10時から再度販売するという商品券。
娘と一緒に買いに行くことにした。チラシには「感染防止のため、販売時間前に各販売所にお並びいただくのはお控えください」とあるけれど、1時間前には行こうと決めた。
そして、土曜の朝、体育館前から渋滞。
土曜出勤の時に同じ道路を8時過ぎに通るが、こんな渋滞はしない。
反対車線からもどんどん来るということは、市役所の前までは行けないだろう。
すぐに、体育館に車を停めて歩くと、前からどんどん人が帰ってきて「もうダメなんですって・・」と、口々に言う。
それでも取りあえず言ってみる。
「6時の時点で100人並んでいて終了しました。」
何時なら間に合ったのだろう。
6時では薄暗いだろう。怖い。
一応アビオへ行って、すぐ娘を降ろしてから、駐車場に車を停めようとするが、駐車場はいっぱいである。
ようやく隅の方に停めて傘をさして娘の所へ行くとちょっとの間に、最後尾の看板が後ろにずれていた。
アビオの入り口から駅の方へ列が続き、cocosの前まで続いてからまだ駐車場内をくねくね。これはダメだろうなと思ったが、係の人が来るまではみんなでブイブイ言いながら待っていたが、8時半についに、「無理です」との勧告を受けた。この後、整理券を配ったとか。そうしないとアビオへ買い物に来る人は車を停められないだろう。
めずらしく、加賀市内は渋滞になり、結局このてんやわんやを1時間体験しただけだった。
どれだけ用意をしたのか、「1日2冊まで購入できるようになりました」とのふれこみなので、7月に配布された購入引換券のハガキで、毎日2冊購入できるシステムとあれば、年末に向かい多くの人が殺到するのは目に見えている。
若いお母さんが子供を連れて並んでいるのを見たらいとおしくなった。
しかし、加賀市は元気である。このコロナ下でこの凄まじい移動と長蛇の列にもめげず。おまけに雨。
これが台風でも並んだだろうか。
「4人家族なら24000円お得!」の広告。
この世知辛い世の中、市民としていただけるものは頂こう。
そして、このてんやわんや劇は30分で終止符を打った。
みんなお金は大好きだ。
今日の俳句「長月の 蜜に群がり 蜜となる」川柳か。

結果、9月13日から9月30日までの販売期間とあったのは、9月13日午前と、9月18日販売開始1時間前には売り切れとなった。
こうなると、次にこういうのが出たら夜中からテントを張って並ぶ人が出てくるかもしれない。
たとえ「皆様に行きわたる数はあります」と、書かれていても、もはや信用できない
これは今後の加賀市民の人生に大いに影響する出来事だ。
どんな場合でも早くから並ぼうと意欲に燃えるか、初めから諦めるかである。

中途半端な私のような者がいちばん損をする。時間の損であった。
ちなみに、友人は7時でギリギリGETしたそうだ。でかした祝杯だ!
自分のことのように嬉しい。さっそくお茶に誘われないか胸がときめく。

余談
後で分かったことだが、頼まれてひとりで15枚とかのハガキを持っている人がいたとか。その時点で30枚。
これはいかんな。
余談の余談
午後になっても、係の人が「販売終了」の看板を持って立っていたらしい。
一番の被害者はこの人たちかも。みんなの不満を一挙に聞いて、上の人の策の尻ぬぐいだよね。



幻のかがやき商品券

2021-09-14 | 暮らし
列を作るのはよくないといいつつ、ワクチンを打ちたい人が長蛇の列だった。
都会は大変だな、統制が取れないのだなと思っていたら、どうも都会だけではなく身近に長蛇の列が・・とのこと。
田舎の事だから、都会の長蛇にはかなわないが、とにかく加賀市が出した「かがやき商品券」が、あっという間に売り切れたそうだ。
市民にハガキを配っておいて、その数量分の商品券を用意していないということだ。目論見が外れたのだろう。


何を隠そう、わたしも購入したくて火曜日に買いに行く予定だった。
しかし、月曜の午前中でどこの郵便局も売り切れとの情報が入った。
スマホでも販売状況を見ることが出来るのである。
5000円で8000円分の商品券で、一人2冊購入できるとあれば、ちょいとアルバイトがてらに並びたいよね。
わたしはこれでマキタの掃除機と、バッテリーを買うつもりで注文していたが残念なことだった。
こんなことなら、バッテリーはネットで買えばよかった。
後で気づいた。ネットの方がすごく安かった。
なにかをあてにしないことだと思いつつも、土曜にアビオと市民会館で売り出すとの情報が入った。
娘と、早めに並びに行こうか・・・と、相談した。
4人家族なら「24000円お得!」と、チラシにあるではないか。
行かない手はない。
どうなるのだろう。
また売り切れとなったらいやだな。
それに、台風が来そうな日に長蛇の列もいやだな。
近所の奥さんは「並ぶのいややし止めたわ」と、言っていた。
月曜は年配の人の長蛇の列で、土曜は若い人の列だろう。
行くなら椅子を持っていかねばならない。
GETするには気力と体力がいる。




歌の力

2021-09-13 | 暮らし
米津玄師の「Lemon」と、フジファブリックの「若者のすべて」が、令和4年度の高等学校用の音楽の教科書に掲載されることを知った。
Lemonが主題歌だったドラマ「アンナチュラル」を、欠かさず観ていた。
今迄聴いたことのない旋律の、優しく悲しい曲だと思った。
教科書!!
わたしたちの音楽の教科書には紙風船(赤い鳥)の「翼をください」と、マイク真木の「バラが咲いた」だった。

オリンピックの開会式で「イマジン」が流れた時、娘たちに「高校の体育祭で流した曲やわ」と、いうと「いいぜー」であった。
娘達は「昴」だったか?と、言うと「違う気がする、加山雄三も歌っていた」
「あ~サライね」そうそう・・なぜか歌の話しになるとみんな盛り上がる。

そういえば、体育祭の時イマジンの他に、PYGの「花・太陽・雨」も流れていた。ショーケンとジュリーだ。まさしく私たちの青春だった。
ショーケンは亡くなり、ジュリーはひげもじゃのじいちゃんになった。

「若者のすべて」を、しみじみ聴いた。驚くほどしみじみする。
セカオワやYOASOBIや、ゆずも好ましいが、誰も私の意見を聞いてはいない。
どれも、孫や娘が口ずさんでいて知ることとなった歌だ。

職場のmさんは、嵐と言えば「嵐勘十郎」と、言う年代だ。

親子で共通の曲をいいねーと言える間はいい。
しかし、最近の歌はやたら歌詞が長い気がする。
それって、ついていけなくなってきたのだろうか。
昔は、ラップやダンスは日本人には似合わないと思っていたが、今や若者はみんなリズム感があって凄く似合うし上手だと思うようになってきた。

歌には力がある。心に寄り添ってくるものもある。
その歌を歌うと、あの頃のことが思い浮かぶというもの。
ゆずの「雨のち晴レルヤ」は、朝ドラの「ごちそうさん」の主題歌だ。
雨のち晴れるや~という希望に向かう気力が出る歌だ。
おまけに、間奏にドボルザークの「新世界より」が挿入される壮大さだ。
その頃、わたしは癌治療のため仕事を辞めた。
それで、kenを保育園へ送迎するのが唯一の楽しみだった。
ちょうど娘達が家を建てるために8人で一緒に暮らしていた楽しい時期だった。わたしの髪が少し伸びてウイッグをかぶらずに送っていくと、保育園の先生が玄関で「あら~、ken君のおばあちゃん、思い切ったぜ~」と、ベリーショートにしたのだと思って声をかけた時、kenはわたしの太ももにしがみついた。たぶん、普通ではないことを知っていて、わたしをかばったのだと思うのだ。
毛が生えていない時に、風呂から上がると「ばぁば~、早く毛のある帽子をかぶりなさい」と、言っていたし。
保育園へ行く途中「♪突然、偶然、それとも必然、♪~~あめのち はれるや」
私と一緒に、回らない口で歌いながら、手をつないで行った彼も今日で13歳になった。身長もはるかに高くなって、わたしを見下ろすようになった。

余談
今日は奮発して芝楽の寿司をプレゼント。
「とーちゃん、〇〇やら〇〇より豪勢や!!」と、回転ずしの名前をあげていた。「あたりまえやろ。格が違うやろ」と、親子の会話が微笑ましい。








目指すもの

2021-09-08 | 弓道
今日、知り合いの方から郵便が届いた。
弓を引く95歳の女性の写真が載っている新聞のコピーが同封されていた。
素晴らしい。60才過ぎてから弓道を始めて錬士五段まで取られたそうだ。
残念ながらお亡くなりになっていた。

さて、わたしは不甲斐なくも何年も続けて、どうも才能がないのではないか。
だんだん下手になってきているのではないかと考え出した。
昨日は、若い時からの弓を全部張ってみて、若い頃16キロを引いていたことに驚く。
14キロは今の弓の前に引いていた。
結局、今引いているのは殿が最後に病気で弓が引けなくなって、13キロを買った物を引いている。
わたしの為に買ったのではないかと思えるくらいしっくりと合ったのだが、どうもここへきて、どうも弓や矢のせいにしようとしている自分がいた。
このところ熱心に稽古をしているので、しっかり引けるようになってきたと思ったが、大間違いだった。

今日、午後に雨が降ったので草むしりもできず、道場へ行って一人で稽古した。
あまり動画を撮りたくないのだが、ひとりなのでチェックがてらスマホで自分の射を撮った。そして愕然とした。
高校生の審査をして、分かったようなことを言っていた自分が恥ずかしい。
まず、足踏みが狭い。いつの間に、こんなに狭くなっていたのだろうと。
おまけに、右足先がやや広い。
残心がかっこ悪い。弓が前に倒れるのは、上押しが強いからだと思っていたが違う。押手が弓と直角になっていないのだ。
五重十文字だ、角見だ、と、こねくり回していたが、基本の基本で狂っている。それが、出来ていると思っていたことの怖さ。
先輩や先生に指摘されていて、修正していたつもりだったが、悪い癖はすぐに戻る。
恐ろしいことに、もう少しまともに引いていると思っていたのだ。
これでは、相撲なら角番である。

確認してすぐに消去した。何回も観たらもっと下手になりそうだ。
とにかく、足踏みからやり直し、目指すは95歳まで元気に弓が引けるか。



秋の草

2021-09-07 | 山歩き
草が伸びるのが早く、刈りに行くと秋の草が一面に生えていた。
つゆ草とススキ。



コスモスの種を撒いたはずなのに、雑草に負けて2輪だけ弱々しく咲いていた。

もうちょっとの所で、またまたバッテリー切れだ。
バッタやコオロギが飛び交っていたので、しばらく刈らずにここの草だけ残しておこう。


この後、弟に手伝ってもらい、南天を植えた。宅地用の地面なので石ころが多く、鍬を入れる時ハラハラした。
最近は、山へ行かずやたら草刈りに興じている。



終わっていく

2021-09-05 | 暮らし
ついにオリパラも終わり、閉会式では小池知事からパリの市長へ旗がわたる。
どちらも女性なので、女性としては誇らしい気持ちだ。

オリンピックは直前にばたばたと交代劇があって、そのせいか知らないが、開会式も地味に思えた。閉会式の東京音頭も、昔の三波春夫を彷彿させる。
しかし、パラは開会式で世界の布袋が登場しわくわく。
閉会式も、ファンタスティックな感じで、衣装もきれいだった。
個人的には、「この素晴しき世界」で、締めくくられたことは嬉しかった。

選手におもてなしが出来なかった分、バッハさんにおもてなしをしたようで、多額のオリンピックに関わるお金が動いたようで、是非ともわたしもIOCの会長になってみたいものだ。
そして、こんなことはカッコいいことではないねと、下々に訴えたいものだ。
どんなことも下々がグダグダ言ってもどこ吹く風なのだから。

ところで、今日は天皇陛下ではなく秋篠宮様がおみえだった。
個人的な悩みもおありと思われて、少し髪が乱れておいでで、同じ人の親としてのご心痛に心が痛んだ。
その横で、菅総理は歴史に残る事の偉大さに自身で驚き、今後の感染収束のためにまだ大仕事があることで、目はうつろだった。
どうか、皆様に幸ありますように。

さて、わたしは土曜に昇段審査を受けていた。
ここへきて、何日も前から緊張し、蚤の心臓かと思われるほどだった。
夢を見ても、出番前に足袋がなかったり、弓がなくて探していたりという、うなされるような毎日だった。
稽古でも、1,2秒会を伸ばすと、中らなくなって、初心者同様の的中だった。いや、初心者ならもっと思い切りのよい離れが出るだろう。
当日は、審査が粛々と静かに行われた。係の方々の多大なる努力のおかげだ。
わたしは、緊張しすぎて、第3控に入ってから眠くなっていた。
どうも、緊張も続くと慣れるらしい。
ちょうどYちゃんが係員として働いていて、横を通った時に、思わず束りサインをしてしまった。ピースだ。とっさにYちゃんがお返しのサインをくれたので、これで一挙に気持ちが楽になり、おかしなことにならずにいつも通りに引くことが出来た。
いつも通りで乙矢しか中らなかったが、自分としては失敗だったとは思っていない。
合格基準に達していないのだと思い知らされるのが審査である。

そして、すべては何事もなかったようにわたしの時間は終わった。
オリパラでさえ、閉会式が終われば、あっという間に日常に戻る。
わたしも、殆ど上達しないままに、また稽古に励むこととなる。
それでも、稽古が出来ることが幸せかもしれない。









景色が変わる

2021-09-01 | 暮らし
何気なく通っている8号線の信号待ち。
前からあった高圧送電線がやたら目立つ。
道路の上にかかった新幹線の架道橋が完成して白く幅をきかせ、鉄塔がさらに目立つ。
この道路のずっと手前にはトンネルがあったが、ついに山をなくして、道路の上に、右の山からから左へ行く「けもの道」用に細い橋をつけた。
けものたちはありがたく利用している様子はない。
わたしがけものなら、新しく付けられた橋は罠に違いないと警戒するだろう。

30分早く向こうの町へ行きたくて、山にトンネルを掘る。
人がほんのちょっと早く行くために、山は無くなり、道は広がり、新幹線は道路の上を走る。
くわばら、くわばら・・・ついに、わたしも年寄り婆さんみたいに怖がるようになった。
みたいに・・ではなく、婆さんには違いないが。
小百合は小百合である。






樹木たちの知られざる生活

2021-09-01 | 暮らし
題名「樹木たちの知られざる生活」
副題「森林管理官が聴いた森の声」
ペーター・ヴォールレーベン
長谷川圭 訳
早川書房
2019年8月15日  5刷

森のことが書いてある。
森は人が手を着けてはいけない場所なのだということ。
林業で人工的に伐採、植林をしているが、果たして森の立場ではどうだろう。
街路樹の木の気持ちはどうなんだろう。
コンクリートで固められた足回り。水と太陽だけでは木は育たない。
木と木が根の部分で助け合って生きているのが森だ。
街路樹は、根っこが空気を吸いたいために、水道管を破ってしまったという事例がある。水は十分与えられていて、水道管の継ぎ目から漏れる空気を吸いたかったということが、後で分かったらしい。
木の周りは、アスファルトの歩道と車道しかなく、どこまで行っても土はない。息苦しい~~と、木が言ったかどうかは本には書いてないが、そう思えた。
街路樹にとっては、牢屋に入れられたも同然だ。というくだりを読んでから、街路樹を美しいと思うより、哀れに見えるようになった。
人間が誇らしげにすることは、地球を壊すことばかりだとこの本を読んでいるとだんだん人間が怖くなる。
だからと言って、今更わたしたちは人類がホモサピエンスと呼ばれ始めた頃には戻れない。


悪いことばかりではない。木は「フィトンチッド」という抗生作用を持っているので、松林の中の空気は針葉が発するフィトンチッドの働きで無菌なのだという。
また、クルミの木の下にベンチを置くとよい。蚊に刺されないのだという。
しかし、人工林ではダメなのだそうだ。
適応できない場所に植えられた木の叫び。

もしかして、田舎の方がコロナのウィルスが広がりにくいのではないかと、ふと思った。
山登りをすると爽快な気持ちになるのは、森の木のシャワーを浴びているからだろう。
土や草を触っている年寄りが長生きするのは、そのせいかも。
気のせいではなく、木のせい。

この本を読み終わると、人間が無力なのだと思えてくる。
銀座で接待を受けて喜んでいる場合ではないのである。
ひげもじゃの男たちが小銃を持って集まっている場合ではないのである。

わたしも中たらない弓を引いている場合ではないのである。
しかし、何もしないと腑抜けになってしまうので、人に迷惑をかけない範囲でスポーツに親しむのは良いかなとも思う。
勝手なものではある。