まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

高見順の日記

2024-04-03 | 読書
最近のニュースで、名のある人の失言や、ネットでの発言がニュースになるのを観ると怖い。
人と人が、趣味や考え方を披露して、繋がることは否定しないが、その隙間にロマンス詐欺があったり、有名人にはマスコミの眼があったり。
不適切な発言は、あっという間に広がって、撤回できない。
なるべく、名前を出さないようにしながら、ひっそりとブログでつぶやく。
見ず知らずの人とつながるのも怖い。
それなら書き込みをしなければいいのにと言う人もいるだろう。
出来るだけ少数の仲良しだけでやり取りするならLINEでいいだろうが、そうなると既読だけではすまなくて、返事をし合うとやたら発信するのも申し訳なく、結局、不特定多数につぶやきたくなるというもの。
読んでも読まなくても迷惑をかけることなく、一人の夜のつぶやきなのである。たぶん、書きたい病なのかもしれない。
日記を人目にさらす気が知れないという人もいた。
小説家ではなくても、書きたい人、誰かに読んでもらいたい人は多い。
昔から多くの小説家は、日記を書いて本にしていた。
それが、何年か後に貴重な資料になったりする。

今読んでいるのは、「高見順日記 第二巻の下」昭和18年5月から昭和19年12月。全八巻あるうちの、戦争中の頃である。
高見順が北鎌倉にいたころだが、彼の故郷は福井県の三国町。
なので、ネットで加賀市の図書館の蔵書を調べたが、なかったので、福井県立図書館と、併設されているふるさと文学館なら、福井県出身の人の本があるに違いないと、HPのメールに問い合わせたら閲覧できますとのことだったが、閲覧では通わなくてはならない。
文学館の学芸員の方が、「石川県立図書館にあるので借りることができますよ」とのことで、早速加賀市の図書館に申し込むと、すぐに県立図書館から取り寄せてくださった。
ありがたい、貴重な本を手に取ってみることが出来るのである。
溢れかえるネット情報より、落ち着いて読める本はいいものだ。
と、ネットに書き込んでいるのもおかしいが。
鎌倉に文士達が集まり、その文士達の集いの中でのせりふのやりとりは映画のワンシーンのように生き生きと本の中で広がっていく。
川端康成と小林秀雄、今日出海、大佛次郎が、酒を飲んでいる。
また、飲んでいる。「そんなに飲んでいたら早死にするよ」と思うが、もう誰も生きていないのである。
あらら、この人とこの人の人間関係やばいなあとか、すでにいない人たちなので、もう秘密にもならないし、誰かに言っても本人から訴えられもしない。
しかし、悲しいかな誰かに言っても、関心がないだろう。





老害の人  読後感

2023-02-09 | 読書
穏やかな年寄りと違うのは、老害の人は元気なのである。
だから、声も大きく、その場を独擅場にしなくては気がすまない。
そこで、発言権の少ないものは、ひたすらストレスになるのだ。

昔、橋田寿賀子の「渡る世間は鬼ばかり」というドラマがあった。
あの頃、忙しかったので観なかったが、もうひとつの理由は、ホームドラマのいざこざを改めてTVで観たくなかった。
実生活がホームドラマなのにと思ったからだ。

実生活と被ってくると、本は面白くなくなる。
それで、今回も「老害の人」を、読んでいくうちに、これは誰かと一緒。
これはあの爺さんと一緒、と、身の回りの人に当てはまって、本でまで読まなくてもいいのではないかと、斜め読みになった。
考えたら、あの爺さんやあの婆さんとは、少し自分が10歳ほど若いというだけで同類だと思いたくないという気持ちも湧いてきて、変な気持ちになってきた。
そして、さっさと図書館に返しに行った。

なぜか急に友達に会いたくなった。


老害の人

2023-02-08 | 読書
昨年11月に、本屋でみかけて、どうしても読みたいと思い、図書館でリクエストしたら、すご~~~く、たくさんの人が順番待ちですよとの事だったが、それでもいいですからと予約してきた。
それが、ようやく連絡が入った。
本を開くと、黄色い紙に「19人の方が順番待ちです」と、書いてあった。
「だから早く読みなさい」と、いうことだ。

老害の人は、自分がそうとは気づかずに、若い人に昔の栄光を語り、説教する。
そして、老害の人をみつけると、「ああはなりたくないねぇ。」と、自分はそうではないという自信があり、元気でもある。
というような書き出しに、「そうそう・・」と、自分より上の誰かを頭に描いて、ほんとに迷惑なことだとうなづきながら、これまた自分は違うと思っているのかもしれない。

この本の、もと社長であるじいさんも、社長を退いた後でも、家庭内で、会社で、延々と自分のことを話し続けるのである。

まわりにいるなあ。
訊いていないのに、もとの仕事の話しをして、その話の中身は何回も聞かされているので、筋書きが分かるのである。
「前にもお聞きしましたね。」と、いう訳にもいかず、かと言って無視するわけにもいかず。

しかし、自分も気を付けなければ、弓道へ行ってひたすら弓を引いていれば大丈夫だが、飲み会などで過去の栄光を語らないようにしよう。
過去の栄光を語る人は、栄光が少ない人が多い。
今、バンバン全日本選手権や国体で活躍している人は、語らない。
もう、栄光がやってこない人ほど語ろうとする。

Yちゃんと、K子ちゃんと、石川国体にチームを組んで出て、遠近とも1回皆中して、団体入賞したという話はしないでおこう。
絶対にしないでおこう。
しかし、その他に栄光の時があったっけ。
老害の人は、他人事ではない。







運動脳 と スマホ脳

2023-01-27 | 読書
正月、家族が集まった時に、新聞の本の紹介に「運動脳」が、あって興味をそそったと話したら、娘と娘婿が同時に「買いました!!」
ここで誤解のないように、いつもジョギングをしてフルマラソンにもチャレンジしている娘と、もうひとりの娘の旦那が買ったので、一家に2冊ではない。
という訳で、娘婿がついでに「スマホ脳」も、貸してくれて読み終えた。

どちらもアンデシュ・ハンセンの著書である。
要するに、「運動をすると脳が活動しますよ」と、いうこと。
ウォーキングがよいということ。
認知症にもなりにくいという。
脳のコルチゾールが海馬をむしばむが、運動はコルチゾールの分泌を減少させるのだそうだ。
その辺の細かいことや、症例を読んで、とにかく運動する人は頭がいいと結論付けた。
そういえば、知っている医者にスポーツマンは多い。
身近な弁護士親子も、いつもフルマラソンにチャレンジしている。
体が動かないと、脳は動くのをやめてしまうのだ。
脳が身体を動かしているのではなく。

「スマホ脳」で、気になるのは「スマホやネットなどで、時間を奪われ」というところ。
企業の金儲けに、時間を奪われ、それにお金までつけて、泥棒に追い銭だ。
いや、アンデシュ・ハンセン氏が「泥棒に追い銭」と、書いていたわけではない。
共通して書いてあるのは、ストレスは人にとっては大事なことで「闘争か逃走か」を、決めるのであると。
それは集中することを助けることでもあるという。

借りて読むことが出来て良かった。
詳しく読みたい方は、図書館で借りて読むことをお勧めする。




どうする家康

2023-01-25 | 読書
大河ドラマは「龍馬伝」あたりから見続けているが、今年の「どうする家康」は、初めから話が入り込めない。
いきなり今川義元が死んでしまうところから始まったので、よけいに歴史に疎いことがバレバレだ。
松平って誰?

娘達は大河ドラマを観ないのかと思ったが、聞いてみたら、
「竹千代がふたりいて、分から~ン」と、なったので、あまりわたしと変わらない。
まずネットで相関図を観たが、もうひとつだ。
殿は詳しいのだが、聞くにも聞けず、彼の残した本があったのを思い出した。
これこれ、山岡荘八の、全26巻。


松潤とは大違いの顔ではないか。


まず、家康の父ちゃんの話しから入る。
そうこなくては。
しかし、父の名前は「松平次郎三郎広忠」という。
待ってくれ、ミドルネームが長すぎる。
その前に、家康の祖父の話を読んでびっくり。
刈谷の城主 水野忠政は妻と離縁し、岡崎城主 岡崎三郎清康に嫁がせた。
それも、水野に5人も子供を残して。
おまけに、家康の父は、義母の娘(於大)を嫁にした。
義妹じゃん。
そして、竹千代を残して、また嫁に行くのだ。
しっちゃかめっちゃか。
昔は残酷婚姻物語だ。
先日書いた、このブログのチェリッシュの「あなたの癖を我慢するわ~♪」どころではない。
この際、小さな癖など我慢なさい。

ついでに言うなら、自分の幼名を、我が子につけるなど、後に残された子孫たちが混乱する.
いや、混乱したのはわたしと娘だけか。
歴史は後に生れた者ほど、たくさん覚えなくてはならないので大変だ。
「朝鮮戦争の年にじいじが生まれた」と、孫のkouに言ったら、
「じいじも、歴史の人やな」と。
そういう自分も、ロシアとウクライナ戦争や、コロナの体験を、自分の孫に言われるだろう。

さて、文庫本26巻。
娘は、「たぶん読み切れんやろうし、やめときね。」と、わたしに助言してきたが、これはこの後どうなるのか興味津々。
そうこうしているうちに、大河ドラマは終わってしまうだろう。
せめて、全巻の裏表紙だけでも読んでおこうか。
ある意味、今年もはまりそうだ。
織田信長も目が離せない。 岡田准一 VS 木村拓哉




母性(湊かなえ)を、読んで。

2022-10-30 | 読書
さて、先日、ダブって買ってしまった本を読み終えた。
母性についての、「信用できない語り手」という手法で、母と娘が交互に語る壮絶なドラマである。
やはりこのミステリーも、読み終えた後、もやっとするのだが。

母性を読んだ後の解説がおもしろかった。
間室道子(元祖カリスマ書店員)が、解説していた。
ハードカバーで出た時
「これが書けたら、作家を辞めてもいい。その思いを込めて書き上げました」という湊かなえさんの言葉が帯についていたが、その後湊さんはシナリオを含めると、現在までに7つの新作をだしている。
作家であるということは、書き続けることである。

壮絶なドラマの中で男たちの存在感がうすい。
母という字は、①はは。母子・母胎・母乳・父母
②根拠地・出身地。母校・母港 ⓷物を生み出す元になるもの。母音・母型
④母のような役割を担うもの。聖母‣寮母
では、父は①ちち。父子・父母 ②年老いた男性。漁父

そういえば、孫たちは「ばあちゃんちでお泊りしたい」と、言う。
なぜか「じいちゃんち」より「ばあちゃんち」と、孫たちは言うようだ。
ばあちゃんは、お世話をしてくれる人だからかもしれない。
長いこと家長制度とか男尊女卑という日本だが、分数は「分父」ではなく「分母」である。命がけで闘って守ってきた国も「父国」ではなく、「母国」である。

もしかしたら、男たちは母に甘え、後始末を押し付けてきた?
そういえば、我が家も後始末は私がしなくてはならない。
名実ともに「ばあちゃんち」になってしまった。
ついでに、夫の年を3歳も越えてしまった。
このままいくと、あの世でどこの婆さんだろうと思われそうだ。


あちゃ~、また買ってしまった。

2022-10-19 | 読書
殿の本を整理しながら、自分の読んだ本も捨てようとポイポイとはじきだしていて、おや?同じ本があるではないか。
先日、湊かなえの映画化になる「母性」という本を購入したことを思い出した。
すっかり忘れていた。
殿の本は大量にあるが、彼は片っ端から読み上げているので、ダブっているのは殆どない。

この本は店でカバーをかけてもらったままで本棚に入ってしまった。
何故読まなかったのだろう。
宮部みゆきや湊かなえは、買ってくるとすぐに読んでしまうのに。
「母性」は、平成27年初版で、今年令和4年のものは29刷だった。
あぁ、平成27年は殿が亡くなった年だ。
そうか、それどころではなくなってカバーをつけたまま放置したのだな。

湊かなえは登山もするので「山女日記」のようなものも書くが、どちらかというとミステリー作家であるが、イヤミスのほうだ。
今回、映画化になる「母性」を、カバーに永野芽衣が出ていたので新刊と思って買ってしまった。
カバーには「100万部突破!」とある。
凄いな。即、読み始めよう。





スピン

2022-07-22 | 読書
長い間生きていて知らなかったことは山ほどある。
しかし、本を買って山積みにしていながら、気づかなかったことは迂闊だった。
文庫本には、焦げ茶色のひもがある。
単にひもの栞だと思っていた。正式な名前をスピンというのだそうだ。
知る人は知っているだろうが、あえて名前を知ろうと思っていなかった。

持っている本を確認したら、単行本でスピンのあるものは「文芸春秋」と、「光文社」もあった。
しかし、どちらも文庫本にはない。
殿の蔵書も調べてみたら、他にも「毎日新聞社」の、単行本にもあった。

結論は、数ある文庫本の中で、新潮文庫だけがスピンがある事が分かった。
本棚の本を片っ端から調べた。
「それが何か?」と、言われたらそれまでだが。
ただ、それだけを言いたかった。
「今頃気づいたんかい」
殿が本の間から言っている気がした。

しかし、古い文庫本にはあるものもあるそうで。


今日も、日本中でコロナの感染者が真っ赤に記録更新したところが目立つ。
加賀市だけで112名。これまた最悪。
10代は25名。
家での読書が無難だと思う。

夏休みフェア

2022-07-20 | 読書
本当はいけないのかもしれないけれど、ひとりでいるとつらいニュースは観たくなくなる。
朝起きて、TVをつけると、いきなり戦争とコロナ感染のニュースと、安部さんの銃撃のニュースや災害のニュースが繰り返される。
それで、ついついBSの、何でもない自然相手の番組や、朝ドラを観ている。
ニュースは一日一回観たらいいと思っている。

一生懸命考えて投票した選挙結果は、当然と言えば当然な結果となり、何の役にも立たない一票に消えた。
日々穏やかに過ごせることに感謝し、家族や身近な人の役に立てたらそれでいいかなと思っている。
身近にコロナ感染者が出て、孫の中学校も、弓道教室に来ている子たちの学校も一足早く夏休みに入った。
そんな毎日に、変わらない風景があるとほっとする。

毎年、夏休みになると本屋には特設コーナーができる。
実はこれがすごくわくわくする。



そして、ご自由にお持ち帰りください。の、小冊子。
どれを読もうかな・・と、見るのがまた楽しい。
若い頃読んだ本が、綺麗な装丁で並んでいたりすると、間違って買ってしまいそうになる。
昔の文庫本は、字が小さく紙が茶色に変色していて読みにくいので、もう一度読み返すには、買ってもいいのだが、殿の本を処分していないうえに、また買い足すのは気が引ける。
しかし、この先まだ平均寿命を考えると、ささやかな楽しみをしても良いのではと思う。
いや、人の命はどうなるか分からないのだ。思いつくままに楽しもう!!
若い頃から「美人薄命」という言葉を怖がっていたが、40歳ころ殿に「薄命」というのは、10代から20代前半だろうと言われ恐れなくなった。
また「いい人ほど早く逝く」というが、わがまま勝手な自分なので、そんなにいい人の分類には入らないので恐れるに足らない。
どこかへ旅行に行ったり、食事をしたりすることが少なくなったので、ほんの少しの本が増えたところでどうだというのだ。

かくしてわたしは、ご満悦で本を買い重大なことに気づいた。
家に何冊も読んでいない本があるのだ。
どうも、本を読むというより、本に囲まれていると幸せになるというタイプなのではないか。


八甲田山 VS 白山

2022-07-07 | 読書
深田久弥の本を読んでいて、ふたりの妻についていろいろ調べているうちに、前妻の「北畠八穂の物語」を読んだ。
カリエスを患いながら、凄い気力と独特の表現をする児童文学者である。
歩くのも困難な中で、数々の作品を生み出すのであるが、中でも興味深いのは、故郷の学校の校歌を作詞したというので、歌詞が気になった。
昭和52年、創立60周年を迎えた青森山田学園の学園歌を作詞している。
作曲は古関裕而である。
平成11年8月、甲子園で準々決勝まで進んだ時全国に流れていたそうだ。
北畠八穂が生きていたら歓喜したに違いない。

ネットで、この学園歌を聴いていたら、全国高校サッカー選手権の決勝で2022年にも歌われていることが分かった。
八穂さんが知ったら天にも昇る気持ちだろう。(すでに天国にいるのだが)
学園歌のタイトルは「意気と熱(まこと)に」である。
とても、病弱の身体から生まれた歌とは思えない。力強い。

昭和の小説家は、小説以外に副産物のように校歌を作詞している。
それは、平成も令和にも歌い継がれて、いつまでも心に生き続ける。
「万象かたどれる 八つの秀峰 八甲田・・」

ちなみに、わたしは深田久弥の校歌で、小学校、中学校、高等学校と歌って育った。
残念ながら全国大会で歌われたという記憶はない。
「白山の峰はさやかに・・」「春白山のあさぼらけ・・・」どの歌にも、白山が登場する。

どちらも、お互いに大きな影響を残し、並々ならぬ人生をおくり、多くの作品を残した。

八甲田山 VS 白山 の闘いはドローだな。






ホンモノの日本語を話していますか?

2022-03-31 | 読書
ゆうべ、たまにはアルコールなどをと、マッコリを飲んだら、甘くて口当たりがよくつい飲み過ぎたら、眠れなくなった。
仕方なく、枕もとの本を読み始めた。
金田一春彦さんの『ホンモノの日本語を話していますか?』
殿が読んでいた本だ。2002年発行で本は少し茶色くなっている。
言語学者金田一京助氏の長男で、やはり言語学者で、辞書でお馴染みの春彦さんである。
とても読みやすいのである。

日本人はどうもカタカナで話したがる。外国のものの方が一段上だと思っている。
「八百屋のストアに大根をショッピングにいく」とは言わない。
ストアやショッピングは、もっと高級な店に行くときに使う。
そのように言葉を使い分けて楽しんでいる。

日本語の発音の単位は112しかない。それを組み合わせてすべての言葉を表現できる。
回文などは、英語ではできないだろう。
数字のあらわし方もわかりやすく、日本語だから九九ができる。

読んでいるうちに、目が冴えてきてだんだん眠れなくなってきた。

厚切ジェイソンではないが、「Why Japanese people!?」
「湯を沸かす」沸かすのは水だろー!
「ご飯を炊く」炊くのは米だろー、ごはんを炊いたら粥になる。
「ホームランを打った」打ったのはボールだろ・・と。
しかし、簡単に言って通じるのである。

読んでいると落語の本のように面白くて、翌日は仕事なのに・・と、焦る。
いや、翌日ではなく今日なのだ・・・。



山と渓谷 増刊

2021-05-19 | 読書
今年の1月号の『山と渓谷』が、即売り切れになったので、山と渓谷社が増刊6月号を出した。
先日、このブログにTさんが知らせてくださったので、すぐに手に入れることが出来た。
これは、1月号の付録の「百名山地図」との合本で、内容はすっきり「深田久弥と『日本百名山』」だけの内容で再版されている。
買ってみると、合本の方がいい感じだ。
そして、手に取ってみたら、なんと後ろのところに、大森久雄氏の解説が載っている。
『日本百名山』の編集者である大森氏は、深田久弥に『日本百名山』を、書かせたのだと言えるくらいの方だと思う。

その大森氏の「わが愛する山々」の解説なのだが、改めて読み直すと読みごたえがあって良かった。
さて、この増刊号も瞬く間に売れてしまって、職場の分を注文すると、本屋さんが出版元に問い合わせてくれて、増版され半月以上待たされて今日届いた。
増版増版と、この企画は素晴らしい。1月号を持っている方でも、この増刊6月号はちょっと自慢な内容だ。



大森氏が深田久弥のことを書いてある中に、深田久弥が望んだのは、静けさであった。騒々しく、人が群れる山は敬遠の対象だった。
皮肉なことに、『日本百名山』を書いたことによって、その山々は騒々しい山となったのであはるが。
「山の頂上だけは、安らかに清らかに、そっと残しておきたい。なにも置きたくない。小さな石の祠一つで十分である。(略)その山の名を心に刻んで登ってきた者に、なぜ頂上に山の名が必要だろう。」
「私は山を飛脚的に昇り降りするのを好まない。」
同感である。
夏山の富士山のあの行列の写真を見ると登る気が失せる。
槍ヶ岳の尾根も人が数珠つなぎになっているのを見ると怖い。
押されて落ちそうな写真である。
だからといって、人のいない冬山は恐ろしい。
低い静かな里山もいいなと思う。


モモ

2021-03-28 | 読書
今年、東日本の震災の年に生れた孫のmomoは10歳になった。
誕生日は2月20日だが、母親の調子が悪くて親子で再入院し、退院の日はわたしが迎えに行った。その日がまさに3月11日で、ラジオから流れる地震情報を聞きながら車を走らせていた。
病室で待っていた娘が、TVを観ながら「嘘みたい・・」と、マッチ箱のように流されていく車を見ていた。
あれから10年。
世の中もいろんなことがあった。
わたしの家族にもいろんなことがあった。

今年の誕生祝はmomoにちなんで「モモ」を、贈った。
難しいかもしれないけれど、何回も読んで、大人になっても読み返せる本なので良いかと思う。
本当のところ自分も読みたくて、孫にはハードカバーを、わたしは文庫本を買った。文庫本サイズより少し大きい岩波少年文庫。

「モモ」ミヒャエル・エンデ作  大島かおり訳
2005年6月16日 第1刷発行
2020年9月4日 第32刷発行
発行   岩波書店

子供の本というより、現代の社会に忙しく時間を過ごしている大人たちが読むべきかもしれない。
「町はずれの円形劇場あとに住んでいる不思議な少女モモは、人の話をよく聴くのが得意でした。町の人々は、喧嘩をしていてもモモに話を聴いてもらうと仲直りし、幸せな気持ちになって帰っていきます。
いつも一緒の、ペッポとジジは一番の仲良しです。
しかし、そこへ灰色の時間泥棒の男たちがやってきます。」
人々は、時間が無くなり子供の面倒をみれなくなって、子供達は同じところに集められます。
さて、どうやってこの状況を変えられるのか。

話しは今の世の中を反映しているような怖い話。
モモはカシオペイアという亀と共に立ち向かう。
亀が登場するが、浦島太郎とは違う。
亀はゆっくり過ごすから時間に関係する物語に採用されるのだろうか。
そこは分からないが、少年文庫というからには少年向けなのである。
しかし、大人も読むべきだと考えるのは、時間の奴隷のようになっていく人間たちに警鐘をならす物語のような気がする。
随所で、現実にあるような忙しい日常が描かれている。
救いはモモだ。
では、このへんでネタバレギリギリ。



小林秀雄と深田久弥

2021-03-13 | 読書
深田久弥と小林秀雄のやりとりが面白いことを見つけた。
それで、図書館で小林秀雄のあらゆる本に、深田久弥の名前が出てこないか調べたくなり、図書館へ行くと、Sさんが奥の書庫にあるということで、小林秀雄全集全13巻を、ワゴンに載せてきてくれた。
それを目次で調べていって、深田久弥と山に登った話を探しあてる。
結局9冊に散らばっていた。
「何冊借りれますか?」と、訊くと「9冊です」とのこと。


全部借りて、関係のある所だけを見つけて読んだ。
なにしろ、小林秀雄は難しいのが多くて分からない。「ゴッホ」や「モーツァルト」や、訳のわからない思想についてはどんどんとばす。
しかし、深田久弥との山行や鎌倉での話は楽しそうではまり込んでいく。
そこに、今日出海も登場するとしっちゃかめっちゃかで笑える。
この鎌倉文士たちが書きながらも元気よく遊んでいたのは昭和の初めのころだった。

深田久弥が「小林秀雄君のこと」題して書いてあるものがいくつもある。
どうも、小林秀雄が好きなようで、
「この頃一番よく一緒に山へ行くのは小林秀雄君だ。
小柄だが燻製の鰊みたいに肉が緊まっていて負けん気で頑張るから、彼と一緒なら~~」(『山の文学全集Ⅱ』「書斎山岳家」)
「小林君の忘れ物はひどい。~略~
小林君はいつも何か考え込んでいる。鎌倉にいた時、よく一緒に散歩したが、別に話すこともなく、彼は彼で勝手に何か考えこんでいる。そんな時の彼の顔は実によかった。一種哀愁を含んだ何とも言えぬいい顔であった。
あんなに頭が考えごとでいっぱいでは、忘れ物をするのは当たり前である。」
この他に書き出すと大変なことになるのでここでやめておこう。





中原中也と小林秀雄と深田久弥

2021-03-03 | 読書
過日の中日新聞で「文豪の恋文」と言うのがあって、しげしげと読みながら、谷崎潤一郎という人はとんでもない人やな。とか、中原中也の恋人を小林秀雄が奪ったとか、これまたとんでもないことだな。というか、いつの世もいろいろあるだろうが、今ならネットで炎上してしまいそうなこの文豪たち。


仕事で、古い本を調べることがある。
小林秀雄と深田久弥が鎌倉に住んでいた頃、よく一緒に山へ出かけたり、一夏を山で過ごしたりということが書かれている。
小林秀雄の「私の人生観」という本の中に書いてある。
ところが、その人生観の最後に、中原中也との心のやり取りが書いてあった。
どういう人生観か。人生観というより、若気のいたりの文章。

今なら週刊誌が書くだろうことを、この時代の人は「実は・・」と、自虐的に語りだす凄さ。筆で稼ぐのだから、ある意味身を削っている感じもする。
さて、ふたりが取り合いになった女性はもと女優だというので、さぞかし美人で魅力あふれる女性なのだろうと思うが、大学1年の小林秀雄は彼女を養いきれず別れてしまうのである。

この鎌倉文士たちは、大正浪漫時代を生き、自由、開放、躍動の上、自由恋愛による心中や自殺も作家や芸術家の間に流行したようだ。

そんな中で、小林秀雄は、深田久弥と山へ行ったりするとなると、これは健康的な仲間たちのように思うが、これも読んでいくと、若い人ならではの力任せの登山、スキーの様子が描かれてくるので、こうなるとどんどん頭の中で、二人の声まで聞こえてきそうな具合だ。
ちなみに、小林秀雄の若かりし頃はすごく男前である。
これでは、中也の彼女がついていってしまうのも考えられるのである。
と、言うわけで小林秀雄の本を図書館で探し始めるはめになった。