まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

氷壁

2017-06-30 | 読書

1956年2月24日から1957年8月22日まで「朝日新聞」に連載された井上靖著。

この単行本は2005年12月発行で、図書館で借りて読んだ。

実際にザイルが切れた事件があって、それをモチーフにしたようだが、読み始めてすぐ主人公魚津は友人小坂と大晦日に穂高の東壁に登る。山のことを知っている人は、穂高の東壁と言えば「氷壁」と、すぐに答えるだろう。さて、小説を読み始めて5分の1でザイルが切れるのであるが、その後、延々とそれについて書かれているのだ。ザイルがどうして切れたかという物理的な原因と、絡み合う女性問題。

ザイルが切れたというだけで、延々と長編を書けるというのは、やはり小説家の才能だ。

この後、延々と500ページ読破。はっはっは・・・最後は、切なく終わって、何だこれは!!と、思いつつ再版され、映画にもなるこの小説は、一体どうなるんだろうと興味をそそられて読めていく。それにしても、ふたりの男が惚れる八代夫人は、命をかけるほど魅力的だったのか?この辺が怪しい。無理がある。と、言いつつ久々に夜更かししてしまう本だった。

 

 


ゴミのプライバシー

2017-06-29 | 暮らし

綺麗な花の話題の後に気が引けたのですが、ご容赦を。

過日、ゴミの当番で近くのゴミステーションを掃除した。当番のほうきとチリトリ、水を入れたじょうろ、ゴミ袋を持っていく。

ゴミの袋の口をしっかり縛らないと収集の時に、口が開いてしまうこともあるだろう。網をかけてはいるが、カラスの被害もゼロではない。

さて、集めるときに、封筒や名前入りのお知らせが散らばっている。気を付けてはいるが、ダイレクトメールなどはポイとゴミ箱にいれるかもしれない。紙ごみに丁寧に分けても、名前入りはどこかで落ちたら、通信ではなくて名前入りのゴミになる。ゴミにもプライバシーはある。

 そんなことを考えながら、よその名前入りのハガキを袋に収め厳重に口をしめて、次回のゴミの日まで家に保管。では、お次の方、またよろしくお願いします。


取立山の花と虫

2017-06-27 | 山歩き

登山口からぽつぽつニガナが咲いている。山に登るまでに花を見つけると癒される。

「ニガナ」の白いのもあった。

アカモノ(赤物)、別名イワハゼ

 楓の仲間とか・・何か分からない。

山ぼうし。

ギャー―。ふと横を見たら、真っ黒なものがうごめいていた。おたまじゃくしの大群。気持ち悪いーーと、言いつつシャッターを押すってどうよ。

タニウツギ

ホオの花

ヨウラクツツジ

山の何よりのご褒美は、山頂の景色ですね。


取立山(1307.2m)

2017-06-25 | 山歩き

友達と取立山へ行く。先日、白峰村の「白山高山植物園」(西山)へ行った時と同じ方向で、谷トンネルを抜けて東山いこいの森から登る。

車は3台停まっていて、若い女の子2名と一緒になった。彼女たちは大滝の沢から登るという。わたし達は、林道から登り、大滝の方から下りるというと「大丈夫ですか?」と、いぶかるかんじだった。しかし、取立山で昼ご飯を食べて、最後に大滝でおやつという計画は変えない。

10時45分に登山口に到着。トンネルが苦手で14個ほどあるトンネルを越えて1時間40分くらいの運転をしたら、それだけで体力のないわたしは疲れが出たようで、いつもより足取りが重かった。長い間、お嬢様生活で、運転手付きという環境にあったので、友達を乗せて遠出をするというシュチュエーションは今までになかった。先日、K子さん達と西山へ行くことが出来て少し自信がついていたものの、谷峠は若干遠かった。

いざスタート。初めての山はドキドキ、わくわく。この年(どの年?)になったら、ときめくことが少なくなるというが、山となったらときめくのである。

約1時間半で頂上に着き、あらかじめ切ってきた野菜(人参、玉ねぎ、ブロッコリー)を、コンソメで煮て、仕上げにホタテの貝柱の缶詰を投入。美味しすぎて、撮るのを忘れていた。

 

あつあつのスープとおにぎり。前日に実家で採れた筍を煮たのを持ってきた。山での食事は、べき乗倍に美味しいのである。30分の昼食タイムを終えて、こつぶり山に向かう。途中、取立山避難小屋を通過。

白山を拝んで、尾根道へ向かう。

石がごろごろしていて歩きにくい。浮石を踏んで転びそうになる。

天気が良いので汗が出て、大滝に着いたときは、滝のミストが気持ちよかった。確かに、大滝が見えてからの道はよじ登るには良いが、下りるには急で、岩にへばりつかなくてはならなかった。すれ違う人ばかりで、わたし達と同じ方向から登る人がいなかった理由は、この踏み外したら体中ずる向け状態になりそうな岩登りを知っているからだろうと思う。しかし、友達の提案でもある爽やかな滝でのおやつは正解だった。熱い紅茶と、先日吉野の里で買った大判焼きを冷凍して持ってきた。自然解凍し丁度食べごろ。

大判マウンテン。(餡子山)

帰りに、苔の石に乗ってしまって滑った。何回かバランスを崩す場面があった。この日は、始めにテクテクと速く歩いたせいか、途中で足が前へ出ない時があった。大滝でゆっくり休憩をしてから蘇り、無事下山。15時15分に駐車場に到着。

花や昆虫を撮ることもできて楽しかった・・

 


17年目の窓ふき

2017-06-22 | 暮らし

恐るべし。家を建てて17年ほったらかしになっていた窓がある。玄関の吹き抜けのところで、見上げると蜘蛛の巣がかかっている。

見ないことにしようか、気のせいにしようかと思ったが、一度見てしまったら落ち着かない。2階から見えるので長い棒で届かないか試したが、背が低いという事は、手も短いという事に改めて気付いた。

結局、我が家の便利軒に頼むことにした。正式には、某建設会社の偉い方である。我が家のいろいろな場面でお世話になっている。排水、塀、エコキュート、トイレ改修、ピクチャーレールに至るまで。「釘1本でも打ちにきますよー。」と、いう優しい言葉に甘えているが、釘1本で呼んだことはない。しかし、車を救出するという全くの別件で迷惑をかけたこともある。そのことを保険の仕事をしている娘に言ったら、それは車の保険の範囲内だから次回からはこちらへ連絡するようにと、釘を刺された。

今回は、蜘蛛の巣払い!?いい道具があるんですなあ。昔の火事の時の纏(まとい)みたいで、蜘蛛の巣を綿あめを絡めるようにくるくる取ってもらえた。ついでに、梯子をかけて窓ふきをしてもらい、ついには屋根に上がって外からも拭いてもらう。

家を建ててくれたY先輩が、「窓を拭くときは呼んでくれればいい。」と言われたが、Y先輩は遠くへ旅立ち、追いかけるように我が家の殿も旅立ったので、この窓はずっと天国を汚れたままで見上げていた。

ピカピカになり感謝、感謝。それにしても、どうして月日の経つのは早いのだろう。わたしの時間も蜘蛛の巣にからめとられているような気がしてならない。

 


テーブルコーディネート

2017-06-20 | 料理

簡単な料理でも美味しそうに見えると幸せな気分になる。大きな皿に小皿を乗せて朝のひとときを楽しむ。

グリンピース入りポテトサラダ。トマトオムレツ。胡桃レーズンパン。人参ジュース。

花は虎の尾。休日の朝。寝坊したのでまぶしい。遮光カーテン締めました。

最近、テーブルコーディネートいうのが流行っているらしい。いろんなことで遊ぶことが出来て、時間がどれだけあっても足らなくなりそうだ。

情報が過多な世の中で、自分の癒される時間や楽しむ時間をどうやって作るかが問題だ。掃除をした後、父の見舞いに行き、その後買い物をして、午後は窓ふきのお願いをしたので家にいて、その後、孫を学童へ迎えに行き、夜は弓道の稽古の日。休みの日にゆっくり小説を読むということに憧れる・・・


白山高山植物園

2017-06-19 | 白山

左礫の蕎麦屋へ友達と行った。左礫までは母の里の近くであることで得意のコースだが、その後「白山高山植物園」へ行くことにしたが、白峰村より向こうは行ったことがないので、みんなと行くのが楽しみだった。10時半にk子ちゃんと待ち合わせ、Hさんちへ迎えに行く。

小さな蕎麦屋だが食券の販売機があるのが面白い。レジの人手がいらない分、顧客サービスに徹している様子。

蕎麦とつぶて焼きと天ぷら。食後のコーヒーの後、白峰村の植物園へ行く。「ニッコウキスゲ」が、見ごろだという。

「白山高山植物園」は、6/4~7/17の間、開園している。火曜と木曜は休園という事。「いざ白峰村。」という前に、Hさんが大判焼きを吉野工芸の里で買いたいとのことで、列に並んで予約をした。こんな山奥なのに遠くから買いに来る人が多いのだそうだ。土日は長蛇の列とのこと。そこのおばちゃんに植物園へ行くというと、上手に行けば30分で行けて園を散策して2時間見ておけばその間に焼いておくということ。花より焼き饅頭。

白峰村までいくつもトンネルを越える。手取川ダムを横目で見て、恐竜パークも通り過ぎ、そろそろかと思ったら、まだまだ山の上。高山植物だから当然とはいえ、友達がいなかったら行けそうもない。

到着。すでに車が10台ほど止まっていた。坂を登って行くとニッコウキスゲの花が見えてきた。見晴らしはよかったが、白山の頂上は雲がかかっていた。車を使って登山をした感じ。

みなさんを無事おうちまで送って満足。みんな喜んでくれたかなあ。


ジューンドロップ

2017-06-18 | 暮らし

イチョウの木からパラパラと若い実が落ちる。それがこの6月に落ちるので「ジューンドロップ」と、言う。実が多くなると樹木そのものが弱るのを防ぐための現象らしい。

まるでグリンピースのような大きさで、イチョウの木の下に散らばっているのを集めると煮て食べてみたくなる。ちなみに銀杏は食べ過ぎると毒だそうで、子どもにはあまり食べさせてはいけないらしい。

ところで、イチョウは「公孫樹」「鴨脚樹」あるいは「銀杏」と、書くがどう使い分けるのだろう。「銀杏返し」は「銀杏」である。樹を説明しているものには「公孫樹」と、書いてあった。日本語は深い。

さて、昨日久しぶりにヨーコさんと飲んだ。ぶりかま、大根サラダ(刺身のツマみたいだった)、タコの唐揚げ、コロッケ、刺身の盛り合わせ・・生ビール、酎ハイと進むにつれ話は盛り上がり、テニスと弓道と県体の話から、子どもの教育論に及び、ついに山行きの約束までとりつけた。女ふたりでは心もとないので、早速ベテランの山岳会の無料ガイド氏に連絡をとったらOKがでた。嬉しい。楽しいと酒は進む。

食べ終わって空になった皿を見て思った。よく食べよく飲んだ。その分太った身体から自然に余分な脂肪が排出されないものか。人間の身体に害が及びそうになったら、守れる機能はないのか。ジューンドロップみたいに。


共謀罪法成立

2017-06-16 | 暮らし

いよいよ違う方向へ進んでいく予感がする。

小さな言葉に目くじらを立てている場合ではない。本当はもっとみんなで怒らなくてはならないことがあるのではないか。トランプさんもオバマさんとは逆方向に向かっているようだし、北朝鮮のことも、原発のその後も、先日も被爆者がでたことも、数え上げたら手と足を全部使っても数えきれないほど心配の種は尽きない。

その昔の「治安維持法」という感じがする共謀罪法。治安維持法とは、戦争映画の中でしか知らない。そのことが、現在、現実になって身近に動き出しているような。みんなで声をあげなくてはいけないのではと言ったら捕まる?

某新聞に「共謀罪という虎が放たれた今、ひるまずに、言論という武器を使い続けることができるか。」と、あった。世の中はどう変わるんだろう。加計学園の問題もどうなるんだろう。

 


ミシミシと?

2017-06-15 | 暮らし

深田久弥の、「山へ行き ミシミシ水を飲んでくる この簡明を吾は愛する」という中で、ミシミシと水を飲む気持ちが、山に登るようになって分かってきた。

山に登るには、テクテクではなく、スタスタでもない。一歩一歩進める足は、地面を踏んで、落ち葉でも土でも雪でも、踏み出す足はミシミシという感じだ。そして、その時飲む水は、ゴクゴクでも、チビチビでもないのである。踏んだ足の分だけ少しずつ飲むが「山へ行き チビチビと水を飲んで・・」では、冴えない。「山へ行き ゴクゴク水を飲んでくる・・」と、なると水を飲むために山へ登っているようである。登るために飲む水をミシミシというとは、さすがだなあと思う。山に登ることが大きな目的であることが、この言葉に表れてくるようだ。

過日、「新日本風土記 山ものがたり」の中で、日本の屋根と言われる日本アルプス。北アルプスの槍ヶ岳(3180m)、南アルプスの北岳(3193m)の紹介があって、その中で北岳に魅せられて50年近く通い続けている人がいた。家から10キロ離れていて、毎朝山が見えるので行きたくなってしまうという。「山は女の人と違って、逃げないから、行けば待っていてくれるから・・」と、笑いながら語る。確かにそうだなと思う。岩がもろいので崩れやすい。家くらいの大きさの岩が落ちたことがあったという。「山は魔物で、魔物だからこそ吸い寄せられていく。」と、言う。うちのめされ、太刀打ちできない。と、言いつつ挑戦する気持ちが分からなかった。雪山に登る気持ちも分からなかった。

幸いにもというか、残念にもというか、体力がないことを分かっているので、恐ろしい山に登ろうとは思わないけれど、あのアルプスの美しい映像を見たら、この目で見たいと思う。そして、次には登りたくなるというのは自然な気持ちだと思う。そして、待っていてくれるというより、おいでおいでと誘われる気持ちなのだ。

さて、今日も朝、窓を開けると白山が見える。深田久弥の言う。「純白の冬の白山が春の更けるにつれて斑になり、その残雪があらかた消えるのは六月中旬になったからであった。」と、言うように白山はまだら模様になってきた。7月には、ミシミシと登れるだろう。

 


没イチ

2017-06-14 | 暮らし

NHKの番組で、没イチという言葉が出てきた。没イチとは、配偶者を亡くした人のことを言うらしい。

番組では一人になって喪失感から立ち直れない人たちが、互いに励まし合う場を作っている60代の人が取り上げられていた。

「没イチ」という言い方が軽い。夫ロスっていうのもあったっけ。どうして略して言わなくてはならないのだろう。世の中はスピードが重視されていて、早く言わなければ伝わらないのだろうか。芸能人の名前を略すのとはわけが違う。それとも、自虐的に「わたしバツイチ、再婚して今度は没イチ。」なんていう?

女がひとりで生きていくのは大変だし、妻を亡くした夫も喪失感は大きいと思う。小さな子供を抱えて頑張っている人。老夫婦が支え合って生きてきて一人になってしまう不安。その人たちを、ひとくくりに「没イチ」という無神経な言葉。

バツイチもいい言葉ではない。結婚に失敗したことを✖とするのもどうかと思う。それぞれの理由で、辛い選択をしての別れがあったのだと思う。頑張ったけどダメだった人もいる。

何だかそういうくくりにされてしまうと、残された者が幸せになっちゃいかんのかと言いたくなる。みんな嘆き悲しんでいるのを、必死で良い方向へ行くように頑張っているのに。へらへらしていると非難されそうだ。もっと日夜落ち込んで悲しんでいなくてはならないのかと。

やっと、布団をかぶって泣かなくてもよくなってくると、今度は世間が「女は強い。旦那がいなくなると羽根を伸ばして元気だ。」と、言う。いつもは、頭のどこかに閉じ込めて蓋をしているように考えずにいるが、時折、ふっと何かの拍子にその蓋が開いて泣けてくる。それでも、元気で生きていかなくてはならない。残された親もあっちとこっちと気にかけて。

とはいえ、人は楽観的なところがあるから生きていける。そんなに、その言葉に目くじらを立てなくてもと思ったりもした。しかし、目くじらって、目がクジラみたいになるわけね。笑っているみたいだけど。 怒っているんだろうか。

 

 

 

 

 


靴が焼けた

2017-06-13 | 九谷焼

コメさんから「靴が焼けた」というメールが来た。一瞬、誰の靴が燃えたのかと思ったが、わたしの登山靴。

前回、素焼きの後に、縁のところを削っていたら、台と靴の接着が悪くてずれたため、靴ひもが千切れた。うわーーん。という感じだったが、どべ(どろどろの土)みたいな接着剤があって、何とかくっつけてもらった。

その後、パレットにある色で青の色を塗って仕上げたのが再度窯入れしてもらって焼きあがったのだ。簡単にはいかない。小学生の工作みたいだ。

釉薬のおかげで、土台とうまくくっついて良かった。次回は赤い靴にしたい。

 

 

 

 

 


にわか電気屋さん

2017-06-12 | 暮らし

父が寝たきり状態になって、意識もまだらになってきた。脳は身体が動かなくなると働かなくなるそうである。身体が動くために脳は指示系統を動かすのであって、身体が動かないと脳も休んでしまうpそうだ。だから、寝たきりになるとあっという間に、頭は働かなくなり幻想をみる。そんな父を見舞って、それでも話しかけたり、ベットを動かすと正気が戻ってくる。

父の見舞いの後、母を銀行へ連れていく。そして、実家へ送ると「TVが昨日からつかんのや。台所の蛍光灯も電気屋に来てもらおうと思って・・」どれどれ・・TVを見ると、アンテナとつながっている線が抜けていた。ついでに、脚立に乗って蛍光灯を外す。午後に同じのを買って来て取り付ける。背が届かないので脚立の天板に乗って蛍光灯を外していたら、母が心配して、午後に行った時は、大きな脚立をどこからか運んできてあった。従兄が脚立から落ちて足の骨を折ったことを思い出したようだ。確かに天板に乗ってはいけません。

さて、新しい蛍光灯をつけたものの点灯しない。グローランプのせいかと思って、座敷の電気のグローランプを外してきて、つけてみたが駄目だったので、町の電気屋さんに電話した。わたしのにわか電気屋さんでは心もとないのである。その時、丁度知り合いのHさんから電話があって、実家に来ているというと、やってきて用事を済ませたついでに、蛍光灯の話をしたら、ちょっと触ってくれて、結局、蛍光灯がきっちりはまっていなかったという簡単な理由だったことが分かって、中途半端なわたしの性格が露見した。

電気屋さんに直った旨を電話したあと、Hさんにはコーヒーを飲んでもらって、母と3人で話が盛り上がり、ミント入りのルックチョコレートを、おかしな味だと言いながら食べて帰った。

母は掘ったばかりのじゃがいもと大根をHさんに持たせ、釣り鐘草を3本折って「奥さんにどうぞ。奥さんと仲良く。」と、言って渡していた。やるなあ。


伝達講習会

2017-06-11 | 弓道

久しぶりに弓道の行事に出た。仕事の関係でなかなか日曜に出かけることができなかったので、久しぶりに会う弓友と過ごして元気がでる。人とのふれあいは生きる力になると思う。ひとりでいると、ほんとに実感する。

さて、今日の伝達講習会は、講師陣の的確な指導と、相互研修という今までにない試みが面白かった。

まず、一番苦手な介添の講評をするのにあたってしまった。重箱の隅をつつくような細かいことを言うのは苦手だが、気付きがなければ進歩もない。何か言わなくてはならない。手の位置、歩く速さ、所作の息合い。そのあたりで納めた。上手な介添だったので困った。

相互研修は、ふたりが組になって互いの射礼をみて、チェックするのである。組になった相手の射が終わると、チェックシートを見て話し合う。ずっーと見られることにも緊張するのに、おまけに、組になった相手が教士七段の先生だった。講師のMさんは「遠慮せんとしっかりみてください。」と、言われたが、錬士六段の身の上では、教士七段の先生に物申すなど日ごろ出来ないのである。「大変ようございました。」と、済ませるわけにはいかない。指摘するにも汗だくになった。そう言いつつ、いくつかの指摘を遠慮なくさせていただいた。疑問点もあって、本当に勉強になった。

着物でも暑くなく爽やかな一日で、9時から4時半まで、あっという間だった。M先生に「元気な射になったねえ。」と言われたのが嬉しかった。たぶん、山登りでお腹がすいて食欲が出て、最近太ってきたせいで、射もモリモリした感じだったのではないかとも思った。病気後、5年ぶりに病気以前の体重に戻ったのである。嬉しいのか辛いのか。射に及ぼす影響とういのはあるにはあるのだろう。

 

 

 


日本語オノマトペ辞典

2017-06-10 | 暮らし

図書館へ行ったら、オノマトペ辞典なるものを発見し、しばらく釘付けになった。「千以上の言葉を並べても言い尽くせないこともある」のを、オノマトペの表現力で伝えることができる。理論的に述べるよりも気持ちが伝わる言葉には、尽きぬ魅力がある。その辞典をパラパラめくるだけで楽しい。でた!パラパラということば。そして、わくわく。

オノマトペは、擬音語と、擬態語を総称していうのだが、残念ながら語源はフランス語だ。英語では「オノマトピアー」と、なるらしい。日本語で擬音語・擬態語をまとめた言い方がなかったというのは残念だ。この本の編者が、小野正弘さんなので、その人がまとめたものだから「オノマトメ」にすればどうかと。

さて、語源はともかく、殿が最も敬愛する長嶋茂雄さんは、オノマトペだけで会話することがあった。それは、ファンにとってはぞくぞくする感覚だろうが、仕事でそれをされたら困るだろう。「ガッーときたら、バンとやって、タッーと行け。」と、いう感じ。長嶋さんが上司なら「ダッーとコピーして、スカッと終わらせて、サッサと帰ろう。」と、なるだろうか。

わたしの常套句「うかうか」。「うかうかと仕事を引き受けてしまう。」とか。しかし、この場合、だまされる方に90%くらいの責任があるようなニュアンスだ。しっかりしている人はうかうかと乗らないのである。辞典にはうかうかとは、「注意が不足しているさま。」と、ある。「つい、うかうかと引きずり込まれる。」と、なる。では、決断せずに、「うじうじ」していたらどうなるだろう。言い換えると「ほいほい引き受ける。」とも言う。おかげで、友達との予定が「ぎっしり」となってきた。こういう時は「きっぱり」断るべきだ。こんな風に並べてみると、文章にはオノマトペが、不可欠であることが分かる。

病院で痛みを尋ねられたら「ズキズキします。」「キーンとします。」「キリキリ痛みます。」が、言えないとすると「頭が、重くて締められるような痛さ。」「痺れるような、金属をたたいた時の音のような気持ちの。」「繰り返し、かき混ぜられるような。」どれにしても、もどかしい表現となって、益々病状は悪化しそうだ。

さて、焼き芋は「ぽりぽり」「ほくほく」「かりかり」「ぬるぬる」のどれが美味しそうかと言えば、当然温かさと、口の中でくずれそうな感じの言葉となる。食べ物の中で、オノマトペが名詞になったものがある。「しゃぶしゃぶ」である。こういうふうに、言葉での表現を考えると楽しい。「しゃぶしゃぶ」が、「じゃぶじゃぶ」だったり、「じゃぶんじゃぶん」だったら、下品な食卓となりそうだ。では、「ちゃぷちゃぷ」ならどうか。きっと小さな子供がいる感じがして楽しい。

さて、だらだら書いていても仕方がない、そろそろ終わりにしないと、明日の朝なかなか起きられないと思う。