まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

矜持

2024-05-10 | 昭和のど真ん中
この頃は、この「矜持」という言葉が聞かれなくなった。
プライドとはちょっと違う気がする。
プライドは、誇り。自尊心。自負心。それは、少し上から目線のような気がする。
矜持は、自己主張せず他を見下すことなく、それでも譲れない何かがある気がする。
日本人はいつから、矜持を捨てて、プライドという言葉にすがるようになったのだろう。

ついでに言うなら、尊敬する。敬意を払う。とは言わず、「リスペクト」いう。
尊敬は崩れることがないけれど、「ディスリスペクト」と、こちらは簡単に貶める言葉に変わり「ディスる」という言葉が生まれる。
尊敬して影響を受けることを、「オマージュ」って、どういうわけか、今度はフランス語ときた。
「インスパイア」は鼓舞する。奮い立たせる。そのことによって他者からの影響を受ける。
そうなると、「オマージュ」と、「インスパイア」は、どう違うんだ!!となる。
これらの違いや、使用法を学ぶのではなく、美しい日本語で、自分の気持ちをきちんと伝えたい。

 「薫陶を受ける」や「私淑」といった表現を使う若い人はいない。
若くないが、わたし自身も使わない。
「~先生に師事する」と、言わなくなった。
何年か前の昇段審査の申し込み用紙に「〇〇師範に師事」という記入項目があった。今では削除されたが、これも謎ではあった。
昔は稽古している道場に、範士の先生がおられたことがあった。
今は仲間内であーだ、こーだと先輩と共に学んできた。
道場仲間で、教え合ったり、先輩に指導を受けたりすることは、特定の先生に師事するとか、私淑とまでいかないのは、範士の先生とかの教えを受ける機会が少なくなったこととか、特定の先生から教えを受けられなくなったこともある。
全弓連の方針は理解し難い。会員はいつも放心状態にある。
「どういうこと?」「どうなるん?」というような。
さて、話は元に戻るが、そういう中でやはり「矜持」を、持ち続けたいと思う。昔習ったことが、全否定されたら、わたし達は一体何を学んできたのだと思えるからだ。
世の中は変わるので、多様性の時代なので、というが、積み上げてきたものを放り出すほどの魅力的な射的をみんなで目指そうとするのではない。

高校3年の孫に言われそうだ「ばぁば、また昭和なことを・・」




能登復興支援従弟会

2024-05-03 | 昭和のど真ん中
藍綬褒章を受けた従弟の祝いの宴は昨年の冬。
幸いにもというか、わたしは京都行を諦めて、この日の従弟会に出ることが出来た。
祝い返しに輪島塗の箸と、能登のお酒。
能登支援の心遣いはよいね。

能登の酒蔵は被害を受けたので、別のところで作ったとのことだ。
ワタリガニのケジャンて何です?気になるね。ケという醤(ジャン)ですな。
そのケは何ケ?
手袋をして、取り分けている姿が、手術中に見えるよ。
「わたし失敗しないんで」
これが、めっぽう旨い。いいじゃん。





話は、正月の地震の話となった。
その時、金沢のMと加賀のK達従弟と情報交換し、弟家族を救助してもらった。お世話になりました。
弟家族は、もう後30分、千枚田にいたら取り残されるところで危なかった。
里山海道の後ろと前が陥没・・とか、金沢の従弟は震度5強で、家の中の物が落ち、食器棚の中から食器が落ちて大変だったとのこと。
車に乗っていたら、象が体当たりしてきたみたいで怖ったよ~と、弟のお嫁さんが言っていた。

いつも一緒に山で遊んだ仲間なので、わたし達は兄弟みたいなものだ。
弟は生まれて間もなかったけど。Iちゃんは若くして亡くなったけど。
わたしらって、昭和のど真ん中だよね~。

父の命日が4月30日だったことから、父の話になって、鹿屋の特攻基地にいたんだよって話になった。
父がワープロで書いたものを、もっときっちり打ち直して、分からないところを聞いておくんだったと、たいがい後で思うことだ。
きっと、わたし達の子供たちも、わたし達のことは殆ど知らずに、後にもっと聞いておけばよかったと思うだろう。
しかし、命を張った父と違って、もっと語っておかなくてはならないような大事な話はなさそうで、何も聞かないでという感じだ。
山に埋蔵金の場所もないし。
そんなことを言いながら、集まって飲めるわたしたちは幸せだ。
なんかみんなたくさん話をして、たくさん笑った。

サボテンの花 ♪ の考察

2023-07-14 | 昭和のど真ん中
財津和夫さんは今までに、たくさんの曲を作り、チューリップとして活躍していたのはもちろん、松田聖子やその他の歌手の曲も多く作っている。
中でも、「サボテンの花」「心の旅」「会いたい」は、泣ける歌の部類だ。
若い頃に聴いた時と同じくらい、心がキュンとしてしまう。
そして、財津さんは素敵に年を重ねている感じがしていいなあと思う。

しかし、つい分析したくなってしまった。

♪ ほんの小さな出来事に 愛は傷ついて 君は部屋をとびだした

ほんの小さな出来事と男性はいうけれど、女性はいきなり小さな出来事で
家を飛び出したりしない。
最近知った、男性脳と女性脳の違い。
女性は、少しずつ心に溜め込んで、ガサガサしたものを引き出しに押し込んでいる。ある日、突然ささいなことで、その押し込んだものが一挙に噴出する。
男性は驚く、たいした出来事ではないのに何で?

♪ 真冬の空の下に

しかし、真冬にいきなり飛び出したら寒かろうし、あとで荷物を取りに行くのもバツが悪かろうなと思う。
一緒に暮らすということは、そんなに簡単に飛び出せないのではないか。

♪ 編みかけていた手袋と 洗いかけの洗濯物

手袋は誰の手袋だったのだろう。
洗いかけの洗濯物は洗濯機だろうと思うけど。
そうでなくては同時進行できない。

♪ シャボンの泡がゆれていた 君の香りがゆれてた

つらかろうね。脱水したら早く干さなくてはしわになるし。
哀しい歌を歌っている場合ではないよ。

♪ たえまなくふりそそぐ この雪のように 君を愛せばよかった

たえまなく愛されたら うっとうしいかもしれない。
ラブラブな期間は、出会って1~2年とか。
そして、夫婦の危機が訪れるのは7年周期とか。
別れないのは、二人の間に、苦楽を共にした思い出と絆が生まれるから
長く寄り添えるということ。

♪ 窓にふりそそぐこの雪のように 二人の愛は流れた

このあたりは切ない。切ない。
そして、この曲は失恋の歌なのに曲は軽くて明るい。

財津さんのファンの方々ごめんなさい。
つい、いじってしまったけれど、本当にこの曲は、無条件にいい歌だと思う。
メロディが身体に浸透していく気がするね。

つま恋コンサート’75 2006

2021-10-01 | 昭和のど真ん中
朝から自宅でずっとパソコンに向って仕事。
単純な打ち込みなので、バックにYouTubeを流しながらやっていた。
はじめはストリートピアノのハラミちゃんを聴いていて流しっぱなしにしていたら、いつの間にか中島みゆきの歌が流れてきた。
しかし、coverの声だとすぐ分かった。
始めのフレーズで他の人とすぐに分かると気持ちが悪いのだ。
歌っている人には悪いが、好きな人の声は分かるよね。
中島みゆきの歌を吉田拓郎が歌うのはいい。その逆もいい。
要するに若かりしあの日のイメージを知らない人の声で壊したくないのだ。

吉田拓郎との「永遠の嘘をついてくれ」も、誰か男の人が歌っている。
もうダメだ。
そうだ、つま恋のDVDを流そう。
それで、流しながら仕事をするとはかどるのである。
気持ちも昂揚する。
1975年なら、高校を出てすぐ就職したので、その翌年だ。
もし、昔に戻る日が一日あるとしたら、この「つま恋」に行きたいと思った。
直にその場所に立ったら大興奮だろう。
わたしに似た昭和のいも姉ちゃんがいっぱいいて、キャアキャア言っている。
しかし、DVDの中盤で思った。過去に戻る日は一日ではいけないのだ。
8月2日午後5時から翌日の日の出までやっている。
この8月2日は正午に開場するのを、徹夜組6千人がいたため朝の9時に開けたらしい。そして交通事情も悪く畑の道を3万人の長蛇の列。
結局5万人か6万人かわからない。

商品券のGETもできないわたしにはこの会場に入るのも無理である。
日に日に野宿の人が増えたというから、前日からではないようだ。
では、2006年・・なら、少し落ち着いた拓郎だ。
「前は太陽が昇るまでやってくれって言われたけどね・・今日は電車の時間を気にしてやってくれって・・・」

今、DVDを観ているのが一番妥当なところだ。
かぐや姫もいて、それはわたしたちの青春真っ最中だった。
「朝までやるぞーーー!!」のたくろうの声。
朝になって声が潰れている。

あれから31年。2006年のコンサートは、ファンもおじさんになっていて少し全体が上品になっている。
伊勢正三もいいおじさんになっていて、素敵だ。
観客もおじさんとおばさんで、うっとりと聴いている姿はわたしの分身だ。
かぐや姫の歌が流れてくるとタイムスリップしていく。

時折、チラ見しながらパソコンに向かっている。
涙が出そうな歌が、今も同じ気持ちで聴けるのはなぜだろう。
高校の時に小松公会堂に吉田拓郎と子門正人、四角佳子がきた。
そうそう六文銭だ。彼氏と行ったのだ。うわぁ~仕事どころではない。
仕事は「朝までやるぞ――!!」という気は起らない。

途中で止めてつま恋一本にしぼったのはいうまでもない。
こうやってわたしは人生のところどころで、易きに流れていくのであった。


歴史の人

2021-06-11 | 昭和のど真ん中
kouは中学三年だ。コロナ下での受験勉強。正確にはコロナ禍下。
テストがあるらしく、ぶつぶつつぶやいていた。
「日本国憲法が出来たのは・・」
「戦争が1945年に終わって、翌年1946年11月か‥」
「朝鮮戦争は・・」「1950年・・じぃじの生まれた年や」
「戦争が終わって10年後に、ばぁばが生まれた。」
「へぇ~。。オレらの勉強・・じぃじとばぁばの生まれた年がもう歴史や」
半世紀以上やもんね。
婆様などは90年越えたしね。
100年って昔なら妖怪の部類かも。
今でもカクシャクとしていている婆様は妖怪かも。

1950年あたりの団塊の世代は「戦争が終わってぼくらは生れた」世代。
それはもう、遠い歴史となって、その歌を口ずさむと泣けてきそうなくらい遠く懐かしくなってしまった。


昭和のど真ん中

2021-02-01 | 昭和のど真ん中
世間では、昭和を区切るとき、戦前と戦後で区切るが、私は昭和のど真ん中に生まれて、自分の生まれた年で時代を区切っている。
昭和30年代というと、いわゆる高度成長期と共に育っていくわけである。
電話、TV、洗濯機、冷蔵庫・・どんどん家の中に増えていくことを、体感しながら育つのである。
東京オリンピック(昭和39年)の年に生れた弟は、全てが生まれた時にはあったのである。
そして、今ではパソコン、エアコン・・・大根を煮るのもIH。

そして、元号を3つも跨いでしまったことに恐れおののく。
ゆうべ缶の水素水を開けようとして、ついに自力では開けられず、これがひたひたと忍び寄る老いなのかと驚愕した。仕方なくゴムの力を借りたのである。

しかしながら、そのど真ん中にはまだいろいろな役割がある。
高齢の親の面倒を見つつ、まだ一人前ではない孫たちの塾の送迎と、節目ごとの集まりと、出資(入学祝などなど)。
このコロナ禍で、なんとか生活ができることに感謝しつつ。

さて、本題は楽しい仕事のことである。
仕事で寄贈される本の整理をすることがあるが、これがとても楽しい。
眼に入る記事が面白く、また興味深い。多くの方に見てもらえたら本も本望だろう。
古書店のように雑誌も集まり、その中の広告がまた面白い。
昭和30年9月発行の「世界」(岩波書店)と、言う雑誌にあった。
「尽歓談 尚重杯」「かたりつきても のみあきない」こういうの好きだなあ。



このコロナ禍では「遠隔 今一 喉詰」「リモートいまいちのどつまる」
リモートでは、同じ物を食するわけでもなく、目線も合わず、終了のタイミングも分かりづらく、喉に飲み物食べ物が今一流れにくい。
年のせいで呑み込めない訳ではない。