昨年最後のブログで、「連合赤軍事件」の永田洋子と安倍総理の類似性について書いたが、この永田洋子を全面に押し立て、組織、といっても20名に満たないグループに過ぎないが、の主導権を握ろうとしたのが、赤軍派の森恒夫だった。
「連合赤軍」とは、革命左派と赤軍派が一緒になって、テロリズム的に革命蜂起をしようと集まったグループだが、組織員の人数では革命左派が圧倒していた。
そこで森は自分は全面に立たず、自分の考えを永田に吹き込み、永田は見事にそれを実践した。森は永田を止めることはできず、最後は引きずられていく。
ところで、安部が総理の座を放棄した後、これを支え再起に導いたのは「さくら会」という財界人のグループだという。
官僚組織も、連立を組んでいる公明党も、安倍を組しやすしとみて、これを操ろうと考えているのかもしれないが、そうは行かず暴走している。
安倍が理想としている戦前の全体主義的体制だが、軍部が暴走して、泥沼の戦いに引き込んだと一般的にはされているが、軍部を後押ししたのは経済界だった。
三井、三菱といった明治維新以来の財閥もだが、後発の新興財閥も「大陸進出」を熱望していた。そこをえぐって小説化したのが五味川純平の「戦争と人間」だ。
私はテレビで放映されている昔の日本の映画をよく見るが、そこに描かれる戦前でよく登場するのは「絶望的な貧しさと格差」だ。
病気や不運で借金がかさんで「身売りされていく娘」などが悲劇のヒロインとしてよく登場する。
その貧しさと理不尽の背景にあるのは、持てる者、たとえば地主や工場主などの収奪の激しさだ。庶民にはその搾取のカラクリなどはわからない。何となく感じてはいても、ではどうすればいいのかという段になるとその道筋がわからない。
わからないまま「貧しさから脱出するには満州だ、朝鮮だ」と、国の戦争に賛成していく構図が、こうした映画でも見て取れる。
僕富論から君富論へ。浜矩子が提唱。
直言の経済専門家である浜矩子。どぎつい化粧でまるでヒミコのような雰囲気の人だが、たしかにヒミコの託宣を聞く気分になる。
人々がほんとかうそかわからないのだが、原発再稼働、集団的自衛権容認、武器輸出三原則なし崩し、靖国参拝、戦争したい僕ちゃんの安倍政権に未だ50パーセントもの支持を与えているのはただ一つ「アベノミクス」とやらのまやかしの経済政策にすがりつきたいからだ。
しかし浜氏は「アベノミクスと言うときは必ずアホノミクスと言いなおしてください。私としてはドアホノミクスと言いたい」と切り捨てた。
日銀の誘導する金融緩和策で、円安誘導され輸出大企業の収益が上がって、株価も上がって、アベノミクスうまくいってるじゃん、という空気には「単なるドーピング。日本経済の行くべき道を邪魔し、かつ遅らせているだけ」と、少しの動揺もなくこれまた切り捨てる。
「日本がこれから進むべき道は、高度経済成長を再び夢見ることではなく、お互い分かち合う経済活動にシフトすること。
自分だけが儲かればいいという僕富論ではなく、お互い相手がいいように動く君富論に転換すること。それが二一世紀に残された唯一の選択」という。
富の一極集中が行き着く果ては消費行動をする中間層のいない荒野でしかない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます