木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

人はいかにして殺人マシンになるか

2008年09月25日 | Weblog

前回のブログでは、戦争における殺人の記憶が、いかに兵士の心を蝕むかについて、おもにベトナム戦争、イラク・アフガン侵略で考えたが、ではそれ以前の戦争ではそういうことは問題になるほどのことではなかったのか。
たとえば、日本でも戦国時代、武者たちは、大将やおもだった武将の首を取ろうとして、戦場を駆け回り、取った首を誇示するかのように、腰にぶら下げて徘徊したというが、それは限定された戦場の一対一の勝負という側面が強かっただろうから、「殺人の記憶」と言うような感覚とはまた違うものなのか、そうした記録を知らないので推測もできないのだが。
しかし近代の戦争になると「戦争神経症」という形の、戦場に耐えられない兵士の存在が軍隊の克服すべき課題になっていく。
旧日本軍では「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を徹底的に叩き込み、軍団の郷土別編成によって、自分達の行動が後に故郷に知られることを怖れ、投降・逃亡・戦闘忌避が起きないよう、お互いを縛りあう関係に置いた。それでも死にたくないという人間の自然な防衛本能により「戦場忌避」はあった。
NHKの番組「兵士達の証言」で、フィリピンのマニラ市街戦に従軍していた軍医は「お腹が痛い」とやって来る兵士、そして将官クラスの者も随分いたと証言している。
盲腸炎というようなことになれば、2、3日、あるいは3、4日原隊に帰らなくてもすむ。現代生活での「登校拒否」や「出社拒否」と同様な症状が起こっていたのだ。
人間らしい気持があればあるほど戦場では戦えない。そこで軍隊では人を殺しても何も感じない「殺人マシン」に仕立て上げる教育をする。
ニュース23でも以前、アメリカ海兵隊員の7ヶ月の訓練=ブートキャンプの様子を報道していた。
兵士に個性はいらない。海兵隊員の訓練とはひたすら個性を除くことに尽きる。
到着は必ず深夜。それから48時間一睡もさせられない。
訓練では上官の命令に従うことを叩き込まれる。「なぜ」も「理由」もない。
そして徹底的反復訓練。考えることはやめ、反射的に体が動き、敵と思ったものを殲滅すればいいのだ。情はいらない。
海兵隊員は海外でのアメリカの最前線であり、至近距離で敵と戦う、白兵戦をになう部隊なのだ。
一時、日本でも「ビリー隊長のエクササイズ」としてもてはやされた身体訓練は海兵隊訓練のものである。
こうして「殺人マシン」のサイボーグに作り上げられた海兵隊員が、沖縄にやって来る。
沖縄で米兵によるいまわしい事件が起きるたびに上層の幹部は「綱紀粛正」を唱えるがそれはむなしいお題目に過ぎない。米兵は人間性を除去されて沖縄にやって来ているのだから。
相手を人間だとは思わない、人間以下だと思わせる、そうしないと相手を殺せなくなる。
こうした訓練を受けながらも、やはりどうしても人間をやめることができない者はいる。だから心的外傷後ストレス障害に悩むことになる。
生涯を戦場で送るわけじゃないから日常生活に戻った時、「戦場の記憶」につきまとわれることになる。
こうしてみると全知全能の神は、人を戦争や人殺しができるようには作っていない。しかし人はいつも神の意志にそむいて、人殺しをしてきた。
戦争を仕掛けるような人たちが信じている神は、自分達の都合のいいように作った偽の神なのだろう。本当の神は、ただ静かに人が滅びようが滅びまいが、何も手を下さず、人を見つめているのだろう。人間自身が目覚めるの待って。



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