木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

教育再生を阻む会議と書類

2007年03月18日 | Weblog

「再生」という名の破壊。
信濃毎日新聞3月14日付け、大内裕和松山大助教授(教育社会学)の寄稿だ。
教育基本法の改定など、阿部内閣のもとで、1段と加速する「教育改革」を、大内氏はそう言う。
近年、教師達は、「評価」を受け「成果」を目に見える形で残すため、膨大な書類作成の事務に忙殺されていると書いている。
振り返って、我が教員時代は、民主主義の手続きを踏むための「会議」がやたらに多かった思い出がある。
これは、上からの締め付けといいうより、教員達自体が、何かことを始めるには「まず、話し合って、お互いに確認しあったこと以外のことはしない」というためのものであったが。
「話し合う」ということそのものは、悪いことではないが、何でもかんでも話し合わなければ、前へ進めないというのも、何かおかしな具合のものだった。
当然、ことの軽重によって、個人の判断というか、独断ですすめていいこともあるはずだが、そういうことを許容しない空気があったように思う。
集団の中には、ものごとをモノサシではかったように、きっちりあてはめないと気がすまない人が必ずいる。そういう人に限って、自己の正しさを疑わず、それを人に押し付けて恥じ入らない。
しかし、今の教師の置かれている現実から思えば、「牧歌的」だったと言える。
そういう時、教員の近視眼的民主主義を正し、バランスを取る役割をするのが、リーダーというか、校長の見識だった。
今は違うようだ。率先して形式を追う人が校長などの役職に就いているらしい。
会議は踊り、その上、現代は事務機器の発達で、書類が飛ぶ。
その結果、一番肝心な、「子供と向き合う」時間が、教員から奪われている。
これを取り戻さなくては、ほんとうの教育再生はないと、大内氏は主張している。
「現場知らずの、著名人が語る現場改革」。それが教育再生会議であり、中央教育審議会だ。
現場教育の体験のあるのは、ヤンキー先生こと、義家弘介さんだけか?
「子供のゆとり教育」は早々に見直されてしまったが、「教員にゆとりを」は必要だ。



今日のコメントコーナー。
東京都知事選のおもな候補が出揃って、そろってテレビ出演。
石原氏はいつもの暴言・妄言が影をひそめ、やや低姿勢で、勢いがない。
石原氏を支持していた人は、彼の暴言をリーダーシップと勘違いして、拍手してきたのだろうに、元気のない石原では、つまらない、と思っているのでは。
何のために立候補したのか不明な黒川氏。私は黒川氏の黒髪が気になってしかたない。
年を取っても、ハゲもせず、白髪にもならない性質なのかもしれないが、染めているのだったら、即刻やめたほうがいい。
黒髪は若い肌にこそ合う。老いた肌には白髪が似合う。
建築家なら調和ということを考えてもらいたい。まあ、黒川氏の建築があたりの調和を乱していると、評判の悪いものもあるようだが。
共産党推薦の吉田氏。この人が案外いい。
共産党は、反石原の票を割ってしまう、とよく言われるが、石原氏の多額の交際費等を暴き出したのは共産党。
真っ先に立候補に手を上げたのは、吉田氏。降りろ!と言われる筋合いはない。
むしろ、いまいちスタンスが鮮明でない浅野氏を左から揺さぶるという意味がある。
これで、石原氏が当選するんだったら、それも都民の限界というもので、その責めは都民が負うべきものだ。



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