木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

戦前は天皇、戦後はアメリカにひれ伏す

2017年08月24日 | Weblog

8月は「戦争特集番組」の月である。
今年のNHKは会長も交代し、やや元の正常な状態の戻りつつあるのではと感じさせる番組を並べた。
『本土空襲の全記録』
太平洋の制空権を奪い、太平洋上の島々から日本本土空襲が可能になった連合国軍(アメリカ軍)であったが、最初は軍事作戦上の王道である「ピンポイント爆撃」、すなわち軍事拠点施設や軍需工場、特に飛行機製造の東京にある中島飛行機を狙ったが失敗。思うような戦果はあげられなかった。高度が高すぎ、日本上空の天気は安定せず、目標を中々射程に捕えることができなかった。
焦ったアメリカ航空部隊は低空飛行の無差別爆撃に切り替える。軍事目標ではなく市民を標的にしたのだ。これには先例があった。日本軍がやった中国重慶無差別爆撃である。
軍隊にあって陸軍、海軍に比較して空軍は後発である。何とか成果を上げて、空軍の存在感を示す、そんなアメリカ航空部隊の野心が日本本土を空爆し、人々を焼き殺し、爆弾の犠牲にした。

『戦慄のインパール』
無謀な大本営作戦の中でも最も非難の的になってきた、インド・ビルマ国境に展開した中国軍とイギリス軍の連携を断つ作戦だったが、以前、やはり特集報道されたものに比較して、現在ミャンマーと称されるようになったビルマ側からの取材が自由になった影響なのか、より現地の当時を記憶している人々を多く登場させ、反論の余地のないドキュメントになった気がする。
今回補給や輸送といった兵站を全く無視した作戦を強行に推し進めたとされる司令官牟田口廉也の孫だという男性が初めてテレビに登場した。わたしは今までこの作戦の話を聞いたり見たりするたびに牟田口にも家族、親族がいただろうに、その人達はどういう心境と状況で敗戦後を生きたのだろうかといつも気になっていた。
牟田口の息子は反戦の立場だったと言うが、父廉也の遺品に相当するものは捨てずに残していた。そのまた息子は、「この資料は後世大事なものになるという思いがあって父は捨てなかったのだと思う」と言った。
敗戦後72年、インパールで餓死・病死した多くの兵の遺骨は残されたままだが、兵を見殺しにした責任者の孫はそれらを超えて表舞台に登場した。
牟田口の秘書役の少尉は克明な日誌を残し、「5000人殺せば勝てる」という上層部の会話を記録していた。殺せばとは敵兵ではなく、味方の兵のこと。それぐらいの犠牲を払えばという意味。司令官にとって下級兵士の命はコマの一つに過ぎない。
牟田口は「作戦は大本営の指示」と言い、参謀本部は「指示したことはない」と言う。こうした無責任、なすりつけ合いは現代の政府、企業、社会に連綿と受け継がれている。
敗戦後も牟田口は何ら反省することなく「国のため、天皇のための作戦だった」と強弁した。肉声が残っている。天皇陛下のためというのが逃げ場になっている。


『華族・最後の戦い』
昭和天皇の側近であった侯爵木戸幸一(幕末・明治維新時に活躍した木戸孝允の孫)の日記に基づいた再現ドラマだったが、敗戦後はいかにして最高責任者とされている昭和天皇の責任を回避できるかが木戸にとっては最大の戦いとなる。
結局GHQの意向で昭和天皇は罪に問われることはなかったが、退位という形すら取られなかったことは、戦争に対する罪をあいまいにしてしまった。
牟田口廉也の強弁が通ってしまう素地を残してしまった。

コメント
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