木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

「派遣村」を貶める者たち

2009年01月13日 | Weblog
この20年とは。
昨日は成人の日。平成生まれが20才を迎えた。
20年前、1989年は「ベルリンの壁崩壊」という歴史的事態の年だ。
その後の20年は社会主義体制という対抗を持たなくなった資本主義がその本性をあらわにして牙を剥いた20年でもあった。
そして、アメリカを発信源とする行き過ぎた金融資本主義は20年で破たんした。
09年は転換の第一年目になるはずだが・・・。
日本では、08年の末から激しくなった「派遣切り」に対して、「年越し派遣村」という形の戦いが組まれ、マスコミもこれを大きく報道した。
坂本某という自民党の国会議員が、政務次官を務める総務省の「新年の挨拶」で、この派遣村には、かつての学生運動に見られたような、占拠して、要求を突きつける、そんな闘争形態を思い起こさせる意図を感じるなどと、言わなくてもいいことを言って謝罪するハメになった。
意図があって当たり前じゃないですか。戦略なくして戦いはできません。日比谷公園、厚労省の真下というのは、実に適切な場所だった。
よくこの公園の使用許可が下りた、とは思いますが。それだけ政党なり労働組合組織が一致してことにあたったということだろう。
お正月を前に職はおろか住む所を失った人はどうするんだろう、と思っていたので、こういう助け合いの行動があったということに、救われる思いがして、このところ企業側の攻勢に押されっぱなしだった働く側の情けない状態が続いていたので、これが反撃の契機になればと思った。
新聞の投書欄の一口コーナーに「厚労省講堂開放ー100年に一度の親切」というのがあった。
派遣村に助けを求めに来る人が多くて、テントも足りないという状態に、主宰者側が厚労省に交渉していたのが、遂に開放させたのだ。
こんな状態の原因を作ったのは企業の身勝手と政府の無策なのだから、空いている講堂も使わせなかったら、それこそ「税金泥棒」だ。
この「派遣村」は日本中にインパクトを与えた。
すると、これにツバする側の人間も現れる。
かつての我が長野県知事だった田中康夫氏も「あれは共産党が中心になってやったパフォーマンスだ」と批判したとか。
私は直接田中氏がそう言うのを聞いたわけではないし、そういう主旨のことを書いたものを読んだわけではないので、どういう流れでそういうことを言うのかわからないけれど、もしそうだとしたら、田中氏の今までの言動は何だったのかと思う。
阪神・淡路震災の時に、積極的にボランティア活動をした田中氏なのに、湯浅誠さんのような若い人たちのしなやかな運動に焼きもち焼いたのか?まさか!
契約期間中なのに突然解雇され、寮を追い出された人が多いのに、朝日ニュースターの討論番組を見ていたら、木村某という女性経済評論家らしき者が「派遣契約が切れれば、寮を退去しなくてはいけないのは、当人達もわかっているはずだ(だから自分で何とかしろ。何とかするのが当たり前)」と言ったのには「ひどいこと言うな」と、あきれてしまった。
「蟹工船」の乗り組み員たちも「さあ、地獄さいぐべ」と、そこがどんなに過酷な職場かわかっていても行くしかない。選択肢がない状況なのに。
イラク戦争に狩り出された貧しいアメリカ兵もそこが地獄なのはわかっている。それでも他に選べる道がない。万が一の生還に賭けて志願していく。
生きるために死ににいく、こんな状態を止めるのがCHANGEのはずだが。
コメント
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