木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

「それなりの人生」を送れる社会

2008年06月16日 | Weblog

秋葉原無差別事件からの考察。
宮城・岩手に地震発生で、報道の中心的話題を譲りつつあるが、この事件で考えさせられることは多い。
青森県下有数の進学校出身だというこの犯人の青年。
この県下有数の進学校というのは、47都道府県すべてにあるわけで、でも他府県の人間にはまったくと言っていいほど「通じない存在」だ。
これに引き換え、高校野球の甲子園出場校は優勝したり、そこまで行かないまでも好成績をあげたり、出場常連校は全国的存在になる。
長野県でいくと、松商学園の知名度は全国レベル。進学校のほうは、「ふーん、そう」で終わりだ。だから、どう、ということではないが。
中学まではトップクラスの成績で、高校に入ったとたん、相対的に成績が下がり、それをきっかけにやる気をなくし、成績はさらに落ち込む。
この現実も、昔からありふれすぎていて、「だから何なの」というところだが。
ただ、親がいくらハッパをかけても、中学あたりでもなかなかトップクラスにはなれないから、彼は学力方面では能力がないとは言えない。
高校入学とともに成績が落ち込み、引きこもりになったり、家庭内暴力でうっぷんをはらしたり、あるいはもっと以前だったら、街に出て、不良グループに入ってしまったり、はよくあるケースだと思うが、それが殺人に向かう、というのが、現代的現象のような気がする。
奈良県の医師の家庭での、成績が上がらないことで追い詰められ、放火により、結果的に継母と幼い弟妹を死なせてしまった事件。
福島での、やはり進学校に入学してから成績が思うように上がらず、心配して下宿先にやってきた母を、寝ている時に殺し、その切断した頭部を持って警察に出頭した少年の例など。
奈良県の事件の場合は部外者にも、その心理の軌跡は比較的理解できるものだけれど、福島、そして今回の無差別殺人は、その実行の心理がつかめない。
ただ、福島の事件の場合は、傍目には、明るく、頼りになる存在に見えたという、保育士だという母親の存在が、少年にはどうにも「うっとうしい存在」だったのだろう、というのは何となく理解できるが。「善意の強迫」みたいなものが少年を窒息させる恐ろしさで迫ってきたのか、とも考えられる。
有数の進学校というのは、大学進学を前提にしてるわけで、この犯人の高校時代の担任も、「進学しようと思えば、大学の工学部ぐらい入れたと思う」と言っている。
家庭の経済状況も「進学を断念」しなければならない、ということではなかったようだし。
自分が中学時代に夢見た進学先ではないかもしれないが、それなりに妥協点を見つけて、「無難な人生」を歩む選択も彼の前にはあった。
それすら許されない、例えば、連続殺人の罪を犯した永山則夫などの人生とは明らかに違うのだが。
「世界が狭い」という印象も持つ。成績が下がったら終わり、というような雰囲気が、今の進学校という学校にはあるのだろうか。
生徒に向き合う学校や教師も「世界の狭い」場であり、人なのだろうか。
大人である教師が、生徒に教えてやれることの一番の核は「挫折」や「失敗」の体験ではないかと思うのだが。
思うように行かないことが多いけど、それでも生きてきたし、生きていると。
世界の景色は年齢を重ねるにつれて変わって見えていくと、まあ、そんなことを語っても、若い生徒がすぐ共感する、ということはないかもしれないが、早まって何かしでかしてしまう歯止めぐらいにはならないか。
彼は怠け者じゃなかった。中学までは一生懸命勉強したし、高校も不登校になったわけではないようだし、周囲と何となくかみ合わなくて、職場を辞めてしまうことはあっても、それまでは真面目に仕事をしたと、職場の人達は証言している。
こんな事件が起きないよう、今できることは、労働の規制緩和で、多くの若者が「使い捨て」にされている状況を止めることだ。
「派遣労働者」だった彼に「どうせ、オレは負け組み」という気持を強く持たせたのは、この「希望のない働き方」だったわけだし、正当な職場で働いていたなら、学校の成績で「勝ち組」になれなくても(そういう人が大半だ)、「それなりの人生」がある、という考え方に転換していったのではないだろうか。まさに「それが人生」なのだから。



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