まず、アパルトヘイトの歴史を簡単に書く事とする。
1948年から1991年迄、43年間に渡って続けられた南ア国の人種隔離政策(アパルトヘイト)は、最初に南アに入植したオランダ人(自らをボーア(農民)と呼んだ)の黒人選民思想がもたらしたものだといえよう。
当時の国民党政府は、国民を白人、カラード(混血)、インド人、黒人に分類し、少数の白人が政治経済を支配し、居住地、教育、就職、宗教、恋愛に至るまで、詳細に白人以外の人種に対して徹底した差別を制度化した。
やがて国内外でアパルトヘイト反対運動が激化。アフリカ民族会議議長だったネルソン・マンデラは捕らえられ、決して逃げ出せないケープタウンの12km沖にあるロベン島に、1990年に釈放されるまでの18年間、幽閉された。
1990年、政府は民族融和政策に転換し、1991年、アパルトヘイトを廃止した。
1994年に行われた初めての総選挙でマンデラが大統領に推された時から、長かった白人単独支配に変わって、他民族が共存する民主主義国家が目指された。
今回、私達のケープタウンの現地ガイドは、白人の男性だった。彼は若かった1969年、キリスト教の宣教師として神戸で暮らしたことのある人だった。彼から現状を聞いた。
彼は、現在の国民の85%が黒人で、政治家の大半も黒人であると話した。
(しかし、私がwikipediaで調べたら、少し古い2001年の国勢調査の結果が出ていた。それによると白人18.75%、黒人31%、カラード48%、アジア系1.4%となっていた。彼は、「白人以外は85%」と言うべきだったのだろう。)
国の法律で、会社の75%の人員を黒人 (これも多分、正確には、白人以外の意味で彼は言ったのだと思う。) にすることになっていて、違反すると高い税金が課せられるそうだ。白人は55歳で定年となるが黒人はわからないという。
黒人はホームレスでも選挙権が与えられる現在では、白人の政治力は低く、白人の子供は会社に入れないので外国に行かざるを得ない。自分の子供もヨーロッパで仕事をしているのだといっていた。金持ちの中高年も国外に出る人が多いそうである。
確かに私達が行ったレストラン、飛行場、ホテル、観光地で色々な仕事をしていた人たちの多くは黒人だった。
考えると、もともと白人は居ない国だったのだから、アパルトヘイトの反動で、厳しくワークシェアーをすることになったのは歴史的に仕方が無い面があると思った。
2001年、市街地に住む者の失業者は19.4%で、その58%が黒人、38%がカラード、3.1%が白人だったらしいが(wikipediaによる)、現在はこの数値がどう変わったのか興味がある。
しかし、将来的に公教育が行き届けば、やがて適材適所の雇用形態へと変わって行くのではと思った。
いずれにしてもアパルトヘイトが無くなってから二十数年経ち、白人は少数民族として生きて行かざるを得なくなっている事だけは事実らしかった。
2010年にワールドカップが開催されるにあたって、南ア国は国際空港の拡張、道路の整備、環境整備、ホームレスの解消などを急いでいるが、そのための莫大な予算をどうするのかで、国民の中にはワールドカップ開催を疑問視する声も上がっていると言っていた。
彼は、空港の近くに何時の間にかできたというホームレスの人達のスラム街を指しながら、「80%の人は仕事を持っていてもここで暮らしている。水も電気も上手く盗み、地代も税金も払っていない。それを負担しているのは私達一般市民だ。市は公共住宅を建てて入居を勧めるが、入ると安くても家賃がいるし、公共料金も払わなければ成らなくなるので、彼らは何時までもここに居たがる。」とこぼしていた。
やはりこの国にも、現在、まだ多くの問題が残されていることを知った旅だった。
長い報告になったが、これで南アフリカの旅の報告を終わりにする。
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