花好き・旅好き80代の北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だったが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり外国は見合わせている。

海外旅行「中国シルクロードの旅」(7)

2016年06月03日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「七彩丹霞(カ)国家地質公園」観光≫

5日目の朝、早く起きて「張エキ」のホテル近辺を散策した。
13世紀に「東方見聞録」を表した「マルコポーロ」が滞在した事があり、その石膏像が立っていた。
           

また「張エキ第一中学校」もあった。生徒達はジャージー姿で登校していた。女生徒に声を掛けて写真を撮らせてもらった。
  

「昔の町並み保護区」という一画があった。



現代の建物の屋根の多くに、太陽熱で温水をつくる装置が設置されていた。
      

8時半にホテルを出発して、南西40kmの地域にある「七彩丹霞(カ)国家地質公園」を目指した。
途中の道路の街路樹は、背が高いポプラが大半だった。その幹には地上1m程の高さに石灰が塗られていて真っ白だった。虫除け効果があるそうだ。
ポプラと柳は乾燥と寒さに強いため、砂漠に適しているとガイドが説明した。
また、この地域では、小麦、トウモロコシ、じゃが芋、とまと、葉菜類が植えられていた。
バスから発芽して間もないじゃが芋畑とトウモロコシ畑が見えた。
ピンク色の花が咲いている木があったので、聞くと「ザクロ」の木だそうだ。


「七彩丹霞(カ)国家地質公園」に着いた。この公園は、東西45km、南北10kmにもわたる広大な地域で、虹色の断層が見られるのである。
バスを降り、展望台に向うリムジンバスに乗り換えた。
 

展望台は5箇所あった。どこもバスを降りてから坂道や階段を数十段上るが、展望台からの景観は絶景だった。
かって海底だったこの地域は、赤色は鉄分、黄色は硫黄分、青色は銅、黒は炭素、白は石灰分の鉱物を多く含む海底の幾重にも重なった地層が隆起して地上に現れたものだ。
その時、水平に隆起しないで斜めになったり縦になったりしゅう曲したりして、この地層ができ上がったらしい。表面に塩が噴き出している所もあった。
私は遠い原始の地球に思いを馳せながら、展望台を回った。軽登山の様に足腰が疲れたが、心が躍る感動的な時間を持てた。


  
           
          

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(6)

2016年06月03日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪高速鉄道で「柳園」から「張掖(エキ)」へ≫
「敦煌」の観光を終えた翌日の4日目午後は、バスで「黒ゴビ砂漠」と言われ≪高速鉄道で「柳園」から「張掖(エキ)」へ≫る地域を北上して、高速鉄道が止まる「柳園南駅」まで200kmの距離を2時間半かけて走った。途中、白い塩が沢山砂漠の表面に浮き出ていた。また風が強いので、アジア一の風車発電を計画中だという。

「柳園南駅」はできたばかりで、周辺地域も次々と建物を建築中だった。駅舎内に小さなコンビニ風の店があって、カップ麺や菓子などが売られていた。別の場所に湧いた湯の給湯器も設置されていた。


 

そこから16時28分の高速鉄道で、530km東の「張掖(エキ)」まで3時間半の旅をした。
座席は指定席だったが、運賃が高額(私達は「張エキ」まで5000円だった)なためか、地元の人たちは少なく空席が多かった。
窓外に広がる景色は、砂漠から次第に農地や放牧地が見え出し、鉄道の右側遠くに連なる「祁(キ)連山脈」を見ながらしばしゆったりとした時間を楽しんだ。
「張掖」に近づいた頃、植えたばかりの田んぼや大型の家畜小屋も見えた。


             


             
                 
「張掖」は「祁連山脈」の北側に位置する町で、漢の武帝の時代に匈奴に勝ち、張掖軍を置いた時からシルクロードの主要な交易の町として発展したという。
現在は人口131万人で、古くは「マルコポーロ」が1ヶ月滞在した事があるという。


             



その日は「張掖」のレストランで夕食を食べてからホテルに入った。
             

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(5)

2016年06月03日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「敦煌」観光≫

「敦煌」は甘粛省の西にある人口14万人のオアシス都市で、交易の町であり、漢代には西域のに対する最前線の軍事拠点だった。
しかし、中央権力の支配が弱まると、常に異民族が侵入して来て占領された。
郊外15kmの所にある「莫高窟」は、中国三大石窟の一つで、支配者が変わったとしてもいつの時代にも造られ続けたという。
現代の「敦煌」の町は「漢代」に造られたものであるという。

①「鳴沙山」と「月牙泉」観光
「敦煌」の南5kmの所に東西40km、南北50kmの広大な砂漠があるが、それが「鳴沙山」だ。
砂山を人が滑り降りると、大きな音が出る事から名づけられたらしい。
入り口から電気自動車に乗り、砂山の傍まで行った。40分程の自由時間に、思い思いに高さ100m程の砂山を登った。気温は31~32度あり、乾燥した砂が熱気を照り返して来る。結構登った所で休んでいた時、子どもを抱いて登って来た父子に写真を撮らせてもらった。
帰りは好き好きに「ラクダ」に乗ったり、電気自動車で帰るのだが、私は電気自動車にした。


           

「月牙泉」は、谷あいに湧く東西200mの三日月型の泉で、深さが5mある。枯れた事が無いらしい。
「鳴沙山」と「月牙泉」は「敦煌」ならではの景観だった。
         
          

その夜泊まった「敦煌」のホテルと、ホテルの近くの町の様子である。
中国もここまで西に来ると、なかなか日がくれない。本当は国内にもう1~2時間時差を設けても良いのにと思った。



            



            



②世界遺産「莫高窟」観光

4日目はいよいよ「莫高窟」へ行く日だ。
8時半にホテルを出発して、「莫高窟」の前知識を得る場所に行った。そこは凄く混んでいて、私達は9時からの入場を指示されて待った。45分間のビデオは、「敦煌」に人が集まり、交易の中心地になった経緯と「莫高窟」の紹介だった。


その施設からは写真のリムジンバスに10分乗り、「莫高窟」の入り口で降りて橋を渡り、山肌に造られた石窟を見学するのだ。

専門の研究員のガイドで、幾つかの石窟寺院に案内された。写真撮影は外部はOKだったが、内部はNOだった。

「莫高窟」は紀元366年に「楽尊」という僧が造営をし始め、その地の支配者が漢民族、チベット族、モンゴル族などと変わっても造営が続けられたそうだ。
ガイドブックによると石窟の数は734にも登るという。
1600年以上前から、岩を削り、壁に無数の仏の姿を刻み込んで来た数知れない多くの彫刻師たちや画家たちは、この厳しい砂漠で何を思ったり祈ったりして仕事をし続けたのだろう。
見学時間は僅か30分だったが、ガイドの説明が分かり易く、満足した。

 
         



           



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