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増上寺を出て桜田通りを南に行くと右手に、学問のすゝめ という看板が目に入った。
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文銭堂という店の最中だった。
ぼんやりしていて、何故こんな名前なのか分からなかった。
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しばらく行くと慶応大学の東館(東門)があった。
なるほど福沢諭吉なのだ。
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キャンパスには入らなかったが、外周にフキノトウや春の草花が見られた。
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しばらく行ったところに御田八幡神社というのがあった。
三田は御田と表記したこともあったらしい。
この神社は和同2年(709年)牟佐志国牧岡に東国鎮護の神として祀られた延喜式内稗田神社がはじまりで、
その後、寛弘8年(1011年)この地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。
羅生門の鬼退治で有名な渡辺綱の産土神(うぶすなかみ)として「綱八幡」とも呼ばれたそうだ。
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高輪神社は高輪一円の鎮守社で、お宮詣りの家族の姿が見られた。
撮るからこっちを見てねと、おじいちゃん。
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高輪まで来ると立ち寄りたいのは泉岳寺。
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江戸城松の廊下での刃傷事件により切腹させられた主君浅野内匠頭の恨みを晴らそうと、
1年9ヶ月の苦難の末に吉良上野介義央を討った47人の赤穂浪士たち。
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吉良邸のあった本所松坂町(現両国)から10kmぐらいだろうか、
雪の止んだ朝の道を歩いて泉岳寺までやってくる。
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そこに浅野内匠頭長矩の墓があったからだ。
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上野介の首を、この井戸で洗って主君の墓前に供えたとされている。
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ここには切腹した46人の墓と、
討ち入り後に離脱したとされる寺坂吉右衛門及び討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓が並んでいる。
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大石内蔵助良雄の墓。
浅野内匠頭の墓のすぐ隣といえる場所にある。
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堀部弥平金丸の墓。
行年77歳、最年長だった。
子供のころ中山安兵衛が高田の馬場で伯父の仇討をする映画を見た。
たまたま居合わせた堀部弥平が襷を貸し、安兵衛は仇討を果たすというのをワクワクして観た。
のちに娘の婿養子に迎え一緒に討ち入りすることになる。
回ると色々のものに触れるものです。
☆ 線香の煙たなびく泉岳寺
この寺は香の臭いが断たれたことがないと言う。墓前には煙が・・・・・
「学問のすすめ」面白い看板、この最中を食べていたらもっとお利口さんになっていたことでしょう。
横浜おーちゃん、買い求めましたか・・・・看板にほだされて?ますますもって頭脳明晰に!!
わしも、もっと早くこの看板にお目にかかっていれば、
’塩や岬の灯台’に登らなくても
本郷・赤門を潜らなくても、脇を通うらしてもらったであろう・・・。
ちょいと遅かりし・・・・。
ハハハハハ・・・・ホホホホホ
それにしても大きな看板。しっかり勉強しなさいよ、と
声をかけられている感じです。
有名な忠臣蔵のことは知っていても、四十七士の一人一人については
ほとんど知らないまま。それぞれの、そして仲間としての
人間物語を詳しく知ったらのめりこみそうです。
歴史小説ででも読んでみたいなという気持ちになりました。
物語としての歴史、これでも学問になるでしょうか。
「物は火事で焼けたり泥棒に入られたらお終いだが
身に付けた学問は役に立つ事こそあれ、
誰にも持って行かれない」が父親の口癖でした。
もっと真剣に受け止めていればと悔やまれます。
この最中も食べた事ありますが・・・。(笑)
私は買わなかったので駄目なままでしょう。
本郷の赤門にはも城ケ島の灯台にも何回か行っているので良しとしています。
子供のころは時代小説というか講談本が好きだったので、忠臣蔵のいろんな登場人物とそれぞれの活躍を楽しんで読みました。
赤垣源蔵なども好きでした。
だったら買ってくればよかったかな。
学問という財産は減ることがありませんね。
しかし貯める気持ちを持ち続けるのも難しいですね。
泉岳寺の首洗いの井戸の手前に見える「川上音二郎」の文字。あのオッペケペーの音二郎さんですか?(実際には見たことはないですが)
「大山」は「だいせん」、「三田」は「さんだ」と読みたくなってしまうのは地域柄ですね。
説明不足ですみません。
これは手付最中というものです。オレンジ色の容器には餡子が入っていて最中の川に自分の好きな量の餡をつけて食べるのだそうです。
あの川上音二郎です。この井戸を囲う石の仕切りを彼の寄進で建てたようです。
関東の人は兵庫県三田市をさんだとは読めないと思います。
12月14日にはなおさら・・・
主君のあだ討ちなんてこと 現代では理解に苦しみます。
仇を討ったら またそのあだ討ちが・・・と考えたら際限なく 理不尽!
ずっと後になって 芝居などで美談としてもてはやされたようですが・・・
いまでも12月になると討ち入りのテレビを楽しみにしています。仇討・・・深い意味がありますね。