横浜のほほん

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智積院

2008-03-07 08:57:04 | 京都

智積院講堂
三十三間堂から七条通りを東に進むと東大路通りを渡ったところに智積院(ちしゃくいん)がある。

真言宗智山派総本山・智積院 は、
成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の大本山をはじめ3000余りの寺院教会を擁する。

弘法大師没後およそ260年、興教大師が高野山に大伝法院を建て教学の振興におおいに活躍した。
その後、根来山へ移し根本道場とした中の学頭寺院が智積院であった。
豊臣秀吉と対立し根来山は焼き払われたが、秀吉の死後は徳川家康の加護により京都の祥雲禅寺を拝領し、
五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院となり境内伽藍が拡充された。
祥雲禅寺は秀吉が夭折した我が子の供養のために発願して出来たお寺だ。
その内部装飾を託された長谷川等伯は長男久蔵や弟子たちと全身全霊で仕事に打ち込み、
800畳とも伝えられる大きな客殿の障壁画などを作り上げた。


その後、金堂などが再度の火災で消失していたが、昭和50年に現在の金堂が建立され、
講堂も平成7年に再建された。



講堂を左へ進んだ向こうに大書院があり、そこから「利休好み」と言われる庭園が眺められる。

智積院の庭は大書院に座って見る庭。庭の池が大書院の縁の下に入り込んでいるのが特徴だという。


庭の正面の右側の石橋より奥が祥雲禅寺時代に作られたもので、
土地の高低を利用して築山を作り、桃山風石組みと刈り込みを主体に庭の外の大きな樹木も借りている。
ツツジなど花の季節にも見たいものだ。


江戸時代に修築された左側の築山は石組みや石塔、鉢、垣などを組み合わせて変化をつけ、
江戸好みの庭は築山と泉水庭の先駆けとなったと言われているそうだ。

祥雲禅寺の客殿を飾っていた障壁画は火事などにより原形の4分の1になっているが、
「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」等は国宝に指定され宝物館で鑑賞できる。

通常は非公開となっている宸殿も拝観することができた。
昭和33年にこの宸殿が新築された際に堂本印象が揮毫した26面の襖絵があった。
中でも印象の戦後の作風を顕著に表している「婦女喫茶」が目をひく。
和装洋装二人の婦人がテーブルで野点をしている絵は寺院の襖絵としては奇抜な主題である。
等伯の「十六羅漢図」襖絵もあり、その部屋には先にあげた3大本山の貫主が泊まるそうだ。

障壁画、襖絵などはすべて撮影禁止であるので詳しく伝えることができない。
こちらの 朝日放送のサイト を参照


境内の梅はまだ早かったが、宝物館前の木にはメジロが来ていた。


梅の花が少ないので目を落として地面を見ると、
いろんな小鳥が何かをついばんで歩いている。


ツグミや、このシロハラなどの大きめの鳥に混じって、
やや小型の今まで見たことがない鳥もいた。


すぐには分これがからなかったが、かえって調べたらシメだった。


そして、ちょっと派手なのはアトリのようだ。


ちょっと角ばった頭にギョロっとしたような目が面白い。

京都へ来て、初見の野鳥に会うとは思わなかった。