東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

国木田独歩 生誕150年記念 高塔山,吉見家跡周辺 実踏調査(3/5)

2021年05月28日 | 歴史探訪他ウォーキング

 吉見家跡を出ると、しばらく歩いて招魂場(現麻郷神社、当時の惣田山招魂社)に行きました。石階段を登りきると鳥居があり、その鳥居をくぐるとちょっとした広場が現れます。その広場の南側に行くと、平生湾を見下ろすことができます。独歩がこの招魂場に来た時、眼前に田んぼが広がっており、その向こう側に塩田がありました。当時はたくさんの浜子さんが働いていたはずです。その塩田の向こうには波がさざめく平生湾が広がっていました。その湾をたくさんの帆船が通っていました。そして、帆船が通る平生湾の対岸に、水場の街がありました。当時の水場は、遊郭が二軒ある賑やかな港だったようです。水場の名前の由来は、船員の飲水に欠かせない良質な清水が湧いていたからとのこと。実際に金毘羅社のすぐ下にその清水が井戸として残っています。今なお、綺麗な水が湧いてます。ちなみに「少年の悲哀」の舞台はこの水場のようです。

1:独歩が仮寓した吉見家
2:吉見家裏の吉見山
3:水場を望む惣田山招魂社
4:独歩が愛した高塔山
5:石城山を望む三角点尾根

      麻郷神社(惣田山招魂社)の広場から見下ろした平生湾


 麻郷神社の広場からお社に向かいました。そのお社の東側奥にたくさんの列柱が並んでいます。この列柱には、幕末から太平洋戦役にかけて亡くなった方々が慰霊されています。幕末に限ると、長州藩の歴史に名を遺した方々の名前が刻まれています。私個人の考えでは、奥羽列藩同盟創設の一因になった世良収蔵が一番でしょうか。第二次長州征伐で、周防大島を幕府の占領から解放した第二奇兵隊の総監でした。しかし、司馬遼太郎などが書いた著名な歴史小説に極悪人として描かれています。これらの小説で、極悪人のイメージが定着したようです。大河ドラマ「花燃ゆ」では、装束を含めて滑稽なほど極悪人として描かれていたのには少々がっかりしました。

   麻郷神社のお社     志士を慰霊する列柱   国道188号線に出る
  

 その他、幕末に非業の死を遂げた松宮相良も慰霊されています。大野毛利家臣で平生の吉見隊に関わっていたそうです。ちなみに、大野毛利は江戸時代初めに吉見家と関りがあります。江戸時代初期、吉見家を絶やさないために岩国藩当主の次男が吉見家に婿養子に入りました。その後、初代大野毛利創設時に初代当主になりました。 そのため、大野毛利初代当主の奥方は吉見家です。その奥方の墓所が平生町の秀巌寺にあります。ちなみに大野毛利氏の当主代々の墓所は海前寺に、代々の奥方は秀巌寺に墓所があります。なお、海前寺は廃仏毀釈で廃寺となり、代々当主の墓石だけが残っています。

  大師堂跡(こつり地蔵)跡に向かう    今は無き大師堂跡(こつり地蔵)跡
 

  麻郷神社(惣田山招魂社)を出ると、国道188号線を鳥越地区から八海地区に向けて歩きました。しばらく歩くと、鳥越地区と八海地区の境にある大師堂跡に来ました。この大師堂跡は20年位前に、周防大島の帯石観音に鳥越地蔵として移設されました。その大師堂跡から高塔山に向かうことにしました。高塔山西裾の竹藪に囲まれた山道を歩きました。私が子供の頃は人が通ることができました。

  高塔山西麓の山道     山深い山道で休息     山道の十字路
  

 独歩もこの山道を何度も歩いては、高塔山に登ったり降りたり、鳥越,米出,そして麻里府(別府)に通ったはずです。やや暗い竹藪の山道をしばらく進むと、私が覚えている山道の十字路に出ました。右に行くと高塔山、左に行くと、吉見山方面に、真っすぐ進むとしゃみせん山と田んぼ跡の分かれ道に出ます。田んぼ跡へ進むと平地を通って吉見家に行くことができます。今は工場ができたため、かつてのルートが分からなくなっています。

           実踏調査した国木田独歩関連ルート

コメント (1)
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