東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 城南川西地区の史跡を一部調査

2016年06月24日 | 歴史探訪他ウォーキング

 秋に城南川西地区の史跡をめぐるウォーキングを計画しています。元々は去年の城南石ノ口方面史跡巡りウォーキング時に巡る予定でした。しかし、思っていた以上に宿井地域や石ノ口地域が広かっため、川西地区は今年に伸ばしました。最初柳井市余田方面に行こうかと思っていましたが、川西地区のまだ行ったことがない史跡をバイクで回ってみました。

  疫神社の案内板       疫神社の祠       寂しげな石の鳥居跡
  

 田布施町役場で用事を済ませた後、最初は川西の大田に行く途中に青い案内板がある疫神社に行きました。ここを訪れた理由は、その昔疫病が流行ったことに関わる神社ではないかと思ったからです。行ってみると、その通りでした。神社の説明版によると、寛政四年にこの地方に疫病が流行り死者が多く出たそうです。それらを救うため、この神社を建てたとのこと。

          城南川西地区の最北西端の薬師堂、薬師如来を祀る


 郷土館では八月、田布施町の江戸~昭和の自然災害について展示しようと思っています。この疫神社、展示にいただきです。江戸時代は飢饉が最大の自然災害でしたが、疫病はそれに続く災害だったようです。国木に天然痘が発生した記録があります。去年展示した「富永有隣」も、子供時代に天然痘にかかって片目が不自由になりました。当時、天然痘は恐ろしい疫病だったことでしょう。
 ところで、天然痘には、人だけにうつる人天然痘と牛だけにうつる牛天然痘があります。牛飼いの娘が一度軽い牛天然痘にかかると、人天然痘にかからなかったそうです。それをジェンナーが発見して種痘にしました。江戸時代の長州藩で使われた種痘はヨーロッパから伝わった牛痘だったようです。ところが、この牛痘は生きている菌のため、当時の医学では取り扱いがとても難しかったのです。一方で、天然痘は人にしかうつらなく、しかも中間宿主がいないため他の伝染病より根絶が容易です。そのため確か、天然痘は根絶されているとWHOが発表しています。

  倒木の古道に迷う       城南道端のお地蔵様    何かの道場かお堂
  

 疫神社を出ると、西山地区に行ってひっかり観音を見上げました。そして、田布施町の最北西にある地区の薬師如来を祀る薬師堂に行きました。川西地区にあるのですがとても離れているため、ウォーキングでは行けそうもありません。薬師堂に書かれた内容を見ると、かつて四国八十八箇所に行った方がおられて、その第六十七番大興寺の薬師如来像をいただいてきてここに祀ったのではないかと思われます。その後、使われていない古い道に迷ったすえ、光市を経由して城南に戻りました。

          森に溶け込むように静かな粟島神社

 城南に戻ると、線路を跨いで再び川西地区に戻りました。蓮成寺前の道を通って、ある建物に行きました。すでに廃止されている道場かお堂でした。建物内のお地蔵様などがすべて撤去されて空っぽでした。すぐ隣に滝行場更衣室の小さな建物がありました。滝の行をする場所があったのでしょうか。地元が方がおられなかったため確認できませんでした。続いて、その近くにある粟島神社に行きました。

             瀬戸地区のお地蔵様


 次に、瀬戸地区に入りました。最初瀬戸地区のお地蔵様を見学しました。瀬戸地区は城南を行き来する時に必ず通る地区です。気にしながらもいつも通り過ぎている祠について、近所に住むKさんにインタビューしました。すると、道端の祠は恵比寿様とのこと。祖父がずっとお世話をしていたとのことで、今は瀬戸地区の班長がお世話をしているそうです。八尋石八幡宮のお祭り時に、ここに宮司さんが立ち寄るとのこと。八尋石八幡宮のお祭り時、ぜひ来たいものです。

     瀬戸から見た東漸寺             瀬戸の恵比寿様
 

 Kさんと話をしていると、後井古墳の秋葉神社が話題に出ました。秋葉神社は竹部地区ではなく、上瀬戸と下瀬戸が一年交代でお世話しているとのこと。面白いのは、くじ引きで当たった人の家でご神体を一年間お守りするそうです。ところで、なぜ竹部地区ではなく、瀬戸地区が世話をしているのか分からないそうです。今回まで、私はてっきり竹部地区の方々がお世話しているとばかり思っていました。まだまだ田布施は知らない事ばかりです。

                                      今回散策した城南川西地区

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