柳井商業工業高校跡地は以前、広い空地でした。ところが、今回行ってみると新しい図書館の建設中でした。以前、図書館を新設するかしないかで議会がもめていたように思います。その後、新設することに決まったのでしょう。おそらく駐車場が広く、喫茶店などがある総合施設に近い図書館ができるのではないでしょうか。
その建設現場入口の門には覆いがしてありました。その門は、柳井商業工業高校を示す立派な門です。図書館が完成した後、その門はどうなるのでしょうか。気になるところです。私としては柳井商業工業高校跡地記念碑として残して欲しいと思っています。
柳井高等女学校跡地にかつて2年間だけあった戦時保育園跡碑
建設中の図書館を出ると、柳井川を渡って柳井学園方面に歩きました。そして、十字路に今でもある美幸食堂に行きました。この食堂は昭和の雰囲気が漂います。数年前に行った時、婆様が一人で調理していました。懐かしいお好み焼きの味がしました。地元に愛されているようで、次々に地元の方が食べに来ていました。続いて、旧斎藤道場横を通りました。斎藤道場は今、姫田川沿いに移っています。
建設中の図書館 懐かしい美幸食堂 旧斎藤道場の建物
旧斎藤道場前の通りは昭和を思わせる建物が多くあります。また、昭和の時代に信仰されていたであろう不動堂跡がありました。しかし、お堂の中を覗いてみると何もありませんでした。信仰を支えたであろうお地蔵様もありませんでした。この周辺は静かに変わりつつあるようです。文具を売っていた藤坂屋は看板が外されて、文具が見えたショーウィンドウは全て雨戸に変わっていました。
部屋の中に何もなかった不動堂 看板が無くなっていた文具店藤坂屋
次に、柳井高等女学校(現柳井高校)跡地に行きました。そして、その傍にある柳井戦時保育園ほまれ園(昭和19.2~21.3)跡地を訪れました。ちなみに、うちの婆様は昭和19年3月に同女学校を卒業しました。婆様に聞いてみると、この戦時保育園のことは記憶にないそうです。卒業する直前に開設されたため覚えていないのでしょう。婆様の一つ後輩達が児童を世話したようです。
婆様は卒業後の4月からすぐに、当時の馬皿尋常高等小学校(現柳北小学校)に18歳で教諭として勤め始めました。次の年の終戦時、アメリカ軍が来たそうです。最初怖かったそうですが、実際のアメリカ兵は礼儀正しかったとのことです。
柳井市街に残る昭和の建物史跡をウォーキングしたコース
10年以上前に使っていた縄を綯うための足踏み縄綯い機の修理・調整を続行しています。20年位前、この機械で大学生などに縄綯いを体験してもらっていました。10年以上使っていなかったためあちこちに錆が出ていました。しかし、油を差すほどに動くようになりました。縄を綯うための2軸機構が特に硬かったのですが、浸透性油を注入するとよく回転するようになりました。最終的にマオランの繊維で紐を綯いたいと思っていますが、まずはわらで縄が綯えるように調整してみました。すると、ことのほかよくわら縄が綯えることが分かりました。
両足でリズミカルに足踏み縄綯い機を動かし、わら縄を綯う
いろんなメーカーの縄綯い機がありますが、一番大事な部分はわらを吸い込む部分です。たくさんの薄い鉄板が仕込まれており、わらを綯います。吸い込み口は二ヶ所あり、そこにわらを次々に挿入します。二ヶ所で綯われたわらは、回転する太鼓によってよじられながら巻き取られます。10年ぶりに縄を綯いましたが、やや太鼓の回転数を速めた方が良いようです。あるいは巻き取りの速さを遅くした方が良いようです。
わらを吸いこむ口 わらを綯う機構 縄を巻き取る通路
最終的にマオランの紐を綯いたいと考えています。そこで、一度ばかりマオランによく似たユッカの葉で紐が綯えないか試しました。すると、ユッカの葉には何か潤滑する葉液があるようです。次の葉が吸い込みません。もう少し葉を細かく裂いた方が良いのか、綯う前に一度煮た方が良いのか、あるいは葉の表面をざらざらにする処置をした方が良いのか、など思案しています。マオランやユッカで紐が綯えなくても、わらで紐が快適に綯えることが分かったので十分かもしれませんが。
綯った紐を太鼓に誘導 綯われた縄、やや太いか
史跡を巡るウォーキングでは、山を歩くことが少なくありません。それは、神社仏閣が山の中腹にあることが多いからです。今回は、神社仏閣ではなく昭和の雰囲気を懐かしむため柳井市街の古い建物を中心に歩きました。そのためほとんど平坦な道でした。
私と一緒に歩いたのはほぼ同年齢の方々ばかりです。そのため、記憶にある昭和を思い出しながら歩きました。昭和40年代に柳井商業工業高校を卒業した方々は、特に懐かしかったようです。無くなったプール,料理屋の亡き先代さん,デパート跡,文房具屋跡,そして思い出の通学路などの懐かしい話が飛び交いました。
柳井市街の昭和の懐かしい建物や通りを訪ねるウォーキング
JR柳井駅から西に歩き始めると、民家の細い通りに入りました。この細道は地元の方しか歩かないレアな道です。その道をしばらく曲がりくねりながら進むと、昭和な民家がありました。母屋と風呂小屋が離れている民家です。今はお風呂は家の中に一体化しています。しかし、昭和の時代は風呂は母屋とは別にありました。または家の隅っこや廊下の端にありました。そのため、私が子供の頃、真夜中に裸電球1本のお風呂に入るのが怖かったくらいです。トイレも外にあったり廊下の突き当りにありました。
昭和史跡巡りスタート 母屋と風呂小屋 小川と洗い場
小川の傍に洗い場がありました。冬の小川には水が流れていますが、夏は水が滞留して綺麗とは言えません。昭和の時代、この洗い場で収穫した野菜や食器などを洗ったのではないかと思います。ちなみに昭和時代の我家は手押し式井戸ポンプで水を出しながら収穫した野菜を洗っていました。また、水甕に入れた水を使って食器を洗っていました。昭和40年後半になって、ようやく電動ポンプに切り替わりました。以降、水汲みなどの労働が無くなりました。
調理と裁縫学校の跡 柳井学園に沿う側溝
線路脇を通っていると、調理と裁縫の専門学校跡がありました。今回のウォーキングに参加した方の一人は、この専門学校に通って調理と裁縫を習いながら花嫁修業したそうです。「花嫁修業」の言葉は昭和ならではの言葉でしょうか。
その後、柳井園芸裏を通って柳井学園の裏門に出ました。そして、傍の側溝道を通りました。その側溝を覗き込むと、たくさんの川シジミの殻が散乱していました。どうも川シジミが生息しているのではないかと思います。いつか来て、川シジミがいるかどうか確認したいと思います。
柳井市街に残る昭和の建物史跡をウォーキングしたコース
10年ぶりに東京の我家,茨城,山宿などでお正月前後を過ごしました。婆様に留守番をしてもらいましたが、お正月後に帰ってくると意外に元気でした。さて、大晦日と元旦は奥多摩の武蔵御岳山に登り山宿で過ごしました。この山は、私がボーイスカウトの指導者をしていた頃に子供達を連れてよく歩いた山です。昔を思い出しながら歩きました。
宿泊した山宿は御岳神社の氏子講の常宿とのことです。山頂にある御岳神社を参拝したり、近くのロックガーデン,七代の滝,そして長尾平で初日の出を拝みました。今年はどんな年になるのでしょうか。婆様の介護に加えて、昨年と同様に忙しい日々が待っているのではないかと思います。
令和五年の初日の出、武蔵御岳山の長尾平にて
大晦日に奥多摩線JR御岳駅に着くと、普通の方はバスで滝本ケーブルカー駅まで行きます。しかし、ボーイスカウト時代と同じように歩いて武蔵御岳山まで登りました。ケーブルカーを利用せず、巨木の杉並木の登山道をもくもくと登りました。御岳山に近づくと、築150年の檜皮葺き屋根のお茶屋さんに寄り休憩しました。そして、鎌倉時代初期の武士畠山重忠馬上像を見たり、関東全域の展望を望んだ後に急坂を登り降りしてロックガーデンに行きました。途中七代の滝に寄りました。滝つぼ前で休憩すると、熱かった体が飛沫や風で涼しくなりました。
奥多摩線JR御岳駅 築150年の茶屋 関東全域を見渡す
次に20数年ぶりでしょうか、御岳神社にお参りしました。そして、ほとんどの方が知らない場所に行きました。それは、日本ではこの神社ともう一ヵ所の神社にしかない大占祭場です。鹿の肩甲骨を焼いてその割れ具合で作柄などを占う神聖な場所です。御岳神社の参拝を済ませると山宿に向かいました。そして、山菜ずくしの夕食や温泉で体を癒しました。
七代の滝と滝つぼ 鹿の骨を焼く大占祭場 山菜ずくしの山宿の夕食
山歩きの疲れで、紅白歌合戦を見ないまま寝落ちしてしまいました。そして、早朝の6:00頃に目が覚めました。急いで冬服を着て初日の出を見るために長尾平に向かいました。すでにたくさんの人が東の空を見ていました。偶然に長椅子が空いている箇所があったため座りました。元旦から縁起が良かったです。
東の地平線の一ヶ所が強く輝くようになり、6:51に眩しいばかりの初日が出てきました。その後、さらに縁起が良いことがありました。隣に座っていた夫婦から甘酒をいただきました。ありがたいことです。10分位初日を見た後、山宿に戻りくつろぎました。8:00に朝食をいただいて、元旦の山歩きを開始しました。12km位の緩い金毘羅尾根歩きです。
東の地平線の一ヶ所が強く輝く 山宿に戻り朝食をいただく
途中、日の出山で休憩しました。この山も開けていて展望が良いので、初日の出を見るのに適した場所です。ただし、山小屋も何もないためテント泊する必要があります。この山からはいろいろな下山ルートがあります。西に下れば養沢へ、東に向かえば吉野梅郷方面へ、そして南に向かえば金毘羅尾根経由で武蔵五日市に下山します。今回は南の金毘羅尾根をのんびり歩きました。
金毘羅尾根からの景色 深い杉林の山道 JR武蔵五日市駅
金毘羅尾根は途中の麻生山付近を除いてなだらかな下りです。30年位ぶりに歩きましたが、景色が一変していました。30年も経てば、当時植林直後だった山肌も木が茂っています。また、左右の景色も当時と比べて見通せませんでした。見通せたのは去年植林された山肌だけでした。のんびり歩いていると、武蔵五日市が下に見えるようになりました。終点はもうすぐです。市街に出ると獅子舞をしていました。さらに歩くとJR武蔵五日市駅に到着しました。去年は田布施町の神社を巡りながら30km歩きました。今年も歩きに徹した大晦日と元旦でした。
大晦日と元日に歩いた御岳~金毘羅尾根~五日市
秋に種をまきした紅花が綺麗に発芽し冬を越しています。1株に数粒種をまいていため芽が窮屈そうでした。そのため、芽が一つになるように間引きしました。葉がまだ小さいため指で摘まんでも痛くありませんが、これが春になって成長すると鋭い棘が出てきます。その棘は軍手も簡単に貫通するので痛くてたまりません。なお、春になると株と株の間を最低30cm位開ける必要があります。そのため、今の株をさらに間引きする必要があります。
綺麗に発芽した紅花、1芽/1株になるように間引き
春になって混んでくると風で倒れやすくなってきます。そのため、周りに支柱を立てて縄で囲んで倒れないようにします。そして、初夏に花が次々に咲き始めますが、この頃が花弁の収穫や天日乾燥で多忙になります。紅花は雨で黄色の色素が流れ出してしまいます。そのため、雨の予報が出ると、雨が降る前に急いで花弁を収穫します。種を取りたい場合は花を収穫せず残しておきます。
間引き後、1芽/1株 来春はさらに間引き要
先日のわら細工ほぼろの製作講習会の時、並行してお正月の注連縄製作講習会をしました。去年の同講習会で作った方々なのですぐに思い出して早めに完成しました。完成したと言っても、ウラジロ,ユズリハ,ミカンなどの飾り付けは各人の好みで飾り付けします。いつ頃から教え始めたのか分かりません。21年前の講習会ですでに教えていたのを覚えている位です。同じ頃、ボーイスカウトでも保護者に注連縄を教えたこともありました。
今回、我家用に注連縄を3個作りました。我家はウラジロとユズリハを取り付けるだけの簡単な注連縄です。以前はミカンや橙を取り付けたこともありました。思い出して見れば、ここ20年位注連縄を買ったことがありません。ただし、婆様は私の作った注連縄がお気に召しません。そのため婆様用に別に購入しています。
作った注連縄、このあとウラジロやユズリハなどを取り付け
私は1度の撚りで注連縄にします。まずは注連縄にするワラを選んで束ねます。元をきつく紐で縛り束ねたワラを3等分します。その等分したワラ3束を左手の指で別々に持って保持します。その後、3束同時に右手で撚りながら1度の工程で注連縄に編みます。この方法の欠点は左手の指元が痛くなることです。しかし、早く編み上げることができます。
他の方は、普通の縄のようにまずは3束のうち先に2束の縄を編みます。その後、残った1束を撚りながら絡みつけます。私の方法も他の方の方法も、右手の撚りの向きを変えると右巻きにも左巻きにもなります。
先日の注連縄講習会参加者 左手で3束の縄を保持 注連縄に編み上げる
たくあんにする干した大根を紐から取り外しました。少しばかり乾かしすぎだったかも知れません。ギューギュー曲げても折れません。そこで、干し方が足りない大根も同じ樽で漬けてみることにしました。萎れた大根とパリパリの大根です。
まずは樽にビニール袋を敷いて調合した糠を少しばかり敷きました。そして、干した大根を隙間なく敷き詰めました。一層目を敷き詰めると、その上に糠を敷きました。そして、二層目にも干した大根を敷き詰めました。再び糠を敷いた後、三層目は干し方が足りない大根を置きました。その上に糠を敷いて、最後に乾いた大根の葉を敷きました。家によっては大根の葉は必要ないかも知れません。
最後の大根を敷き詰めた後、糠を敷いて、その上に大根葉
今回、大根の乾きが早くて干し過ぎたようです。萎れたたくあんになるのではないかと思います。そのため、干し方が足りない大根も入れました。出来上がってから、どちらが良かったか食べ比べてみようと思います。市販のたくあんはどちらかと言うと後者が多いようです。早く出荷するためではないでしょう。昔は春先まで食べることができる前者が多かったように思います。
干し上がった大根 漬ける前の準備 干し大根を敷き詰める
最後に、押し蓋を上に置いてビニール袋を閉じました。その後、日陰の寒い場所に樽を持つて行きました。そして、上にレンガを三枚敷いた後に重しをしました。重石の代わりに、重い工具(エアーコンプレッサー)を置きました。このまましばらくすると、押し蓋がどんとん沈みます。沈むたびにレンガを追加しようと思います。
そのうち、水が上がってきます。そこでようやく食べることができます。美味しいかどうかは?です。3月終わりまでに食べきればと思っています。ところで、たくあんができたら東京に送ろうと連絡しました。すると、いぶりがっこと呼ばれるたくあん?を買ったそうです。地域によっていろいろなたくあんがあるのですね。
押し蓋をしてビニールを閉じる レンガを置いて重い工具を載せる
今年は数年ぶりにたくあんを作ってみることにしました。我家は婆様と二人だけなのですがどうしても多めに作ってしまいます。10年ほど前のことですが、作りすぎて食べきれずに廃棄しまったことがありました。その後は数年ごとに少なめに作っています。今年も少なめに作ってみようと思います。
さて、9月上旬に種をまいた大根がそれなりの大きさに太りました。引き抜いてみると、裂けていたり、二股になっていたりする大根がありました。形の良いものだけを洗いました。そして、干すためにぶら下げました。窓を半開きにして風通しをよくした屋内にぶら下げました。干しあがった大根の4個位を選んでたくあんにします。
風通しのよい室内で、大根を吊るして干す
さて、抜いた大根は20本くらいありました。そのうち6本をたくあん用に使います。他は形が悪かったり裂けたりした大根です。そのような大根は大根おろしで擦って食べるか、おでんで煮て食べようと思います。
それでも余った大根をお遊びで使ってみようと思います。お遊びとは、大根の切り口に彫刻刀で模様を掘ってハンコにする遊びです。大根でなくても芋などでもかまいません。いわゆる芋ハンコです。今の子供はそんな遊びをするのでしょうか。
形の良い大根を抜く 次々に大根を抜く 選んだ大根を洗う
たくあん用に選んだ大根を綺麗に洗って、窓を開け広げた部屋に持って行きました。そして、たくあん用に選んだ六つの大根を吊るしました。これらのの大根、曲がるほどに干します。六つのうち四つを選んでたくあん漬けしようと思います。ありがたいことに、友達に糠をいただきました。その糠を利用させていただこうと思っています。美味しいたくあんができるでしょうか。
洗った大根を箱に入れて運ぶ 紐で吊るしている最中の大根
田布施町川西の西山~黒麓山~真殿地区の史跡を巡りました。巡る途中、両地区間にある呉麓山の荒れた林道を歩きました。スタートしたのは国木小学校跡地です。元宰相の岸・佐藤がこの小学校を卒業しています。跡地に二宮尊徳の銅像があり小学校跡地だと分かります。
真殿地区が見えるようになる頃、道の脇にお堂がありました。個人が安置しているお堂かも知れません。今回は山深く荒れた林道を歩くので、事故がないようにお祈りしました。そのお堂を過ぎると、道を右に変えて西山に向かいました。
西山地区にある妙見神社、かつてはより立派な屋根だったとか
川に沿ってしばらく歩くと、左手に崖が見えるようになります。この崖は、この周辺が採石場だった時の名残とのことです。かつては石を運ぶトラックがたくさん出入りしていたのでしょう。さらに歩き続けると西山集落に着きました。その集落の公会堂に着くと、水分補給のため小休止しました。この付近は日当たりが良いのかブロッコリーなどの野菜が大きく育っていました。
二宮尊徳の銅像 真殿集落を前にお堂 採石場跡の崖
公会堂での休憩が終わると、すぐ近くにある「しんま地蔵尊」をお参りしました。お地蔵様前は緩い坂になっており「しんま坂」と言われているようです。その「しんま」の由来を聞いてみましたが、知っている方はいませんでした。この西山集落は江戸時代からある古い集落です。江戸時代には安置されていたお地蔵様ではないかと思います。
休憩をした西山公会堂 公会堂近くにある「しんま地蔵尊」
しんま坂を少し登ってからM農場に向かいました。農場に着いた頃にお昼になっていました。そのため、お昼休憩を農場で取りました。30分位休憩後、西山林道を通って妙見神社に向かいました。その昔、今よりも立派な屋根瓦が使われたお社だったそうです。建て替え前の屋根に使われていた鬼瓦が神社前に置かれていました。
西山~呉麓山~真殿を巡ったウォーキングルート
11月/末と1月にわら細工のほぼろの講習会を予定しています。わら細工をするにあたり、事前にわらを少しばかり加工しておく必要があります。梳(す)いてわらの余分な葉を取ったり、叩いて柔らかくしておきます。
今回は、この秋に刈り取りした稲わらを足踏み脱穀機を使って梳きました。ところが、重い足踏み脱穀機を広場まで出すのが大変でした。一人で脱穀機を一輪車に載せたり、広場まで運んだり、下ろしたり力が要りました。疲れましたが、広場で稲わらを梳くことができました。
足踏み脱穀機と今秋に刈り取りした稲わら
足踏みしながらわらを梳くと大量の余分な稲葉で出ます。そのままにすると、脱穀機のドラムに絡みつきます。そうならないように、時々足を止めて取り除きます。梳いた後のわらは束ねて倉庫に保管します。そして、縄を綯ったりほぼろを編む人数などに応じて必要な量を倉庫から出します。広場に残ったわら屑はジョロで水をかけておきました。こうすると、風で飛ばなくなり、袋に入れやすくなります。
一輪車に載せた脱穀機 梳いている最中のわら 綺麗に梳けたわら
倉庫に保管した稲わらは、わら細工する直前に柔らかくします。以前は槌で叩いて柔らかくしていました。手で回して柔らかくする農機具がありましたが私は持っていません。今は車のタイヤで引いて柔らかくします。車を使うと一度に大量にわらを柔らかくできます。
梳いた後のわらを縛る わらゴミにジョロで水をかける
ようやく小麦の種まきを済ませました。標準的な小麦の種まき期は10月末なのですが、このところの温暖化で11月内に種まきを済ませれば十分に育ちます。一度種まきが遅れて12月初旬に種まきをしたことがありましたが、それでもなんとか育ち収穫することができました。
昭和初めのとても古い種まき機を使って種をまきました。この木製の種まき機、レトロで趣があって何故だか好きです。種が落ちる穴の形状を見ると、小麦専用の種まき機ではないかと思います。とにかく予定通り種まきできて安心しました。12月上旬には発芽すると思います。
平クワで筋を引いた後、古い種まき機で小麦を播種
まいたのは、初夏に収穫したパスタ用小麦です。少しゴミが混じっていました。種まき機に詰まるといけないため、唐箕でゴミを取り除きました。その後、種まき機やクワなどを持って畑に向かいました。最初、平クワで種まきする筋を引きました。そして、種まき機に小麦を入れてから筋に沿って小麦をまきました。防鳥網の大きさに合わせて、1m間隔4列で 12mの長さに種をまきました。今年は去年より多めに種をまきました。
唐箕で小麦のゴミ取り 少しずつ小麦を落とす 種まきする筋を引く
種まきが終わると、足を寄せるようにして土を被せました。土寄せはとても大切な作業です。ちゃんと土寄せしないと、鳩がやってきてほじくって食べてしまうのです。
ところで、粳と糯の陸稲を栽培していたことがありました。その時は、別の種まき機を使って種まきしていました。その種まき機は、種に合わせて穴の大きさを変えることができて、まく幅を変えられて、しかもまいた後に土を被せることができます。今、陸稲を栽培していないため、その種まき機は使っていません。
古い種まき機に小麦を入れる 種まき機を押しながら播種
染色に使う紅花の種まきをしました。春に種まきをしてもかまいませんが、冬越しした紅花の方が花弁をたくさん収穫できます。そのため、私は収穫のためには主に秋に種まきをして、単に種子をとるためなら春に種まきして夏に収穫することが多いです。
秋に種をまくメリットは、雑草対策が容易なことです。紅花は冬の間に少しずつ成長し、春になると雑草が芽生える前に大きくなるのです。春に種をまくと、どうしても雑草に負けてしまいがちです。そのためか、花弁の数が少なく花弁が大きくないような気がします。単に夏の野良仕事がつらいため、私が手抜きをしてしまうためかも知れませんが。
秋冬野菜の隣に紅花の種をまく
紅花は耐寒性があり苗のまま越冬します
紅花の種を、秋冬野菜の隣に作った畝に種まきをしました。いつものように耕運機で土を耕して、三本クワで鞍型に畝を盛り上げました。そして、レーキで丁寧に整形した後に黒マルチを被覆しました。その後、この初夏に収穫した紅花の種子をまきました。
以前は花を観賞する品種の紅花を栽培していましたが、知人にいただいた染色用の紅花を数年前から栽培しています。観賞用と比べて棘が長くて鋭いので花弁の収穫には難儀します。ちなみに、紅花の種には油分(サフラワー油)が多く含まれておりバターの原材料になっています。
三本クワで畝を鞍型に 畝に黒マルチを被覆 まいた紅花の種子
麦の種まきは11月内に済ませたいところです。その種まきに備えて、畑全体をトラクターで丁寧に細かく耕しました。本来ならば済ませているはずなのですが、前回耕している時に子亀を見つけてしまって中断してしまいました。
今回は効率よく耕すため、久しぶりにトラクターを農機具小屋から出しました。しばらくぶりのトラクターはバッテリーが弱っていました。そのため、数時間バッテリー充電した後にトラクターに乗って畑に向かいました。畑の半分は耕運機で耕していたため、比較的早く耕すことができました。次回、麦の種まきをします。
耕運機で耕した跡を、トラクターで再度細かく耕運
さすがにトラクターは耕運幅が広いため耕運がどんどん進みます。ただ、トラクターは車体が大きいため耕し残しがあります。そのため、畑の端から端を耕すためトラクター反転させて端から耕し始める必要があります。その反転が少しばかり煩わしいです。北海道のような広大な畑ではトラクターが必須ですが、我家の畑のように端から端まで50m位の畑は、トラクターにしようか耕運機にしようかいつも悩みます。
耕す方向に向ける 後ろを見て耕運を確認 出てきたアオガエル
畑を耕すには適期があります。それは雨が降って2日目くらいです。適度に土が湿ってい柔らかいのでロータリーに負荷がかかりません。乾きすぎていると、ロータリーに負荷がかかります。そんな時は、同じ所をもう一度耕します。普段から耕していると土が柔らかいままなのですが、時々しか耕さないと土が硬くなります。
トラクターに負荷をかけると軽油もよけいにかかります。また、ロータリーの爪も早く摩耗します。当然ながらトラクターも傷みやすくなります。今の私は、トラクターの使い方が荒く、仕事が忙しいこともあり適期に効率よく耕すことができていません。
時々方向転換して耕運 ようやく畑全体を耕運完
妙見神社を出ると、中村林道を真殿に向かって歩きました。しかし、妙見神社までは歩きやすかった林道ですが、妙見神社以降は急に荒れた道になりました。道には元々バラスが敷いてありましたが、今や枯草や落葉が積もっています。そして、まだ背が低いですが草木が茂っていました。この道は何年も管理がされていないようです。8年前に黒麓山に登った時はまだ管理されていて、倒木などはなく道に草木も生えていませんでした。しかし今、倒木や倒れた竹には困りました。さらに、壁のように道に立ちふさがったイバラの壁には往生しました。
山鎌やノコギリを使ってイバラの壁を潜り抜ける
荒れた道が続きましたが、倒木は避ければ歩けました。そうこうするうちに、呉麓山登山口に到着しました。ここには以前広場がありましたが、雑草や雑木に占領されていました。そのため、座ることができず立ったまま休憩しました。この広場跡にはアンテナが立っています。そのアンテナ管理のため、かろうじて歩ける程度には管理されているようでした。
棚田の石垣跡 倒れたたくさんの竹 倒れた竹を避ける
呉麓山入口から以後の林道は壮絶でした。道は所々で崩れているし、倒木が道をふさいでいました。そして、一番の難所は道に立ちふさがるようにイバラの壁が立ちふさがっていたことです。どこも通れません。そこで、持ってきた山鎌やノコギリが大活躍です。イバラのわずかな隙間を広げるように刈りました。太い幹はノコギリで取り除きました。しかし、長袖の上からイバラの棘が容赦なく腕を刺しました。そのうち、イバラの壁に人が一人通ることができるトンネルを開けました。いやはや難敵でした。
真殿近くで茂るイバラやススキ 国木小学校跡に向かい真殿下を歩く
イバラの壁を通り抜けると、しばらくは歩きやすい山道が続きました。所々に石垣があるため、かつては棚だったと思われます。切通しを抜けると、だんだん下り坂になりました。そして、道の両側に棚田跡を示す石垣が散見されました。ところが、どの棚田は竹に占領されていました。そして、倒れた竹があちこちで道をふさいでいました。その竹を避けたり踏んだりして歩きました。
そのうち、真殿の家がちらほら見えてきました。しかし、胸の高さまで茂る草木が道をふさいでいました。せっかくここまで来たので、それらの草木をぐいぐい押し分けながら進みました。そして、やっと荒れた林道を抜けるとことができました。参加された方々、お疲れさまでした。
西山~呉麓山~真殿周辺の史跡巡りウォーキングの下見コース
去年の春、田布施町川西地区の真殿から呉麓山を経由して西山に至る史跡巡りウォーキングを計画しました。ところが、本番ウォーキングが天候不順で中止になりました。さらに延期後のウォーキングも雨天となり、やむなく中止としました。
再チャレンジとして今回、去年と同じコースの逆方向を下見ウォーキングしました。去年の下見で、とても荒れているコースであることが分かっていました。そのため、1年半後の今回はさらに荒れていると予想しました。その結果、予想どおりさらに荒れたコースになっていました。樹,枝,そしてイバラを切り開くために山鎌を振り回し、ノコギリを何度も使いました。
呉麓山を通る中村林道で、思わぬ栗拾い
集合したのは西田布施の国木小学校跡です。この小学校は元宰相岸信介や佐藤栄作が通った学校で、当時国木尋常小学校でした。その小学校跡地に車を置いて、最初真殿方面に向かって歩きました。途中観音堂があったので山道の無事を祈願しました。去年はそのまま真殿に向かいましたが、今回は道を変えて川西の西山に向かいました。
国木小学校跡地 県道傍の観音堂 守田農場に到着
真殿から西山に向かう道を歩きました。30分位歩いていると前西山の隠寮が見えてきました。そして、その手前で道を左に変えて後西山に向かいました。さらに妙見神社に向かう道をどんどん歩いていると、予定より早くお昼休憩をする守田農場に到着しました。偶然ですが、到着したとほぼ同時刻にM君が守田農場に到着しました。
中村林道に鎮座する妙見神社 妙見神社後ろに安置された祠
守田農場で昼食休憩をとりながら1時間半位談笑したでしょうか。続いて、重い腰をあげて中村林道に入りました。この林道は妙見神社まで舗装道路が続いていますので楽々に歩くことができました。しばらく歩いて妙見神社に着きました。なかなか立派な神社です。お社前に大きな鬼瓦が置いてありました。昔はさらに立派な神社だったに違いありません。本殿うしろに祠が安置されていました。少し休憩して中村林道を歩きました。
西山~呉麓山~真殿周辺の史跡巡りウォーキングの下見コース