銭壺山頂上を降りると、瀬戸内海を望むことができる東屋に向かいました。少しばかり眺望を楽しむと、東屋に腰かけて昼食休憩に入りました。下見時には車が数台駐車していましたが、今回は日曜日にも関わらず一台もいませんでした。30分位休憩したでしょうか、再度眺望を楽しむと下山することにしました。その前に、日積に降りるコースの入口を確認しました。下見時には草木が生い茂っていましたが、今回は草刈機で綺麗に刈り払ってありました。今でも日積と行き来する方がいるからでしょう。この冬に日積~銭壺山を歩いてみようと思っています。
銭壺山から下山中に鑑賞したコスモス畑
銭壺山からの下山は楽でした。障害物が何もない舗装道路を足の進むままに降りました。途中、綺麗に咲いたコスモスが乱れ咲いている場所がありました。しばし足を止めて鑑賞しました。このコスモス畑を知っている方がいるようで、車を止めて鑑賞していました。どんどん道を降りていると、JR神代駅に降りるコースに入りました。
日積へ降りるコース JR神代駅への道 神東小前の天神社
JR神代駅に向かう道をどんどん降りていると、しばらくして神東小学校が見えてきました。そして、そのすぐ手前の天神社も見えてきました。大きな岩が御神体のようです。神東小学校に着くと、その脇にお地蔵様が安置してありました。この小学校に通う子供達を昔から見守ってきたのでしょう。
神東小学校脇のお地蔵様 比較的小ぶりな神東小学校
下っている途中、JR神代駅で乗る電車の時刻が危ういことが分かりました。乗り遅れると1時間以上次の電車を待たなければなりません。急いで道を下ることにしました。そのため、周りの景色や民家をのんびり見る時間がありませんでした。時間はたっぷりあったので、乗る電車を1時間遅らせてでものんびり下った方が良かったかも知れません。電車やバスを利用した史跡巡りウォーキングは、今回のように急ぎ足になってしまうことが少なくありません。参加された方々、お疲れさまでした。
銭壺山に至る史跡巡りウォーキングのコース
水路・水車遺跡を過ぎると、銭壺山方面に向かう坂道を登りました。舗装されているため歩きやすい坂道です。低山に登っている時、棚田の跡を見かけることが少なくありません。私の家の南側にある高塔山麓の森の中にも棚田の跡があります。私が子供の頃にはすでに廃田になっていました。山裾を北側に向いた棚田でしたので、日当たりは良くなかったはずです。しかし、戦後の食糧難の時代にやむなく切り開かれたようです。
今の日本は先進国で一番食料自給率が悪いとのことです。将来何かあった時、いくらお金を積んでも買えないことがありえます。大丈夫なのかと心配になります。
秋晴れの中、海岸線から歩いて銭壺山の頂上に到着
さて、銭壺山頂上に向かって舗装道路を延々と登り続けました。車から降りて咲いたコスモスを鑑賞する人や景色を堪能する人達とすれ違いました。由宇歴史民俗資料館のある海岸線から、歩いて頂上まで登る人は今やまれのようです。かつては神代から銭壺山頂上に歩いて登り、反対側の日積の八朔踊りのお祭りに行く人々が多かったと聞きます。今の人は、昔に比べて足腰が弱いように思えます。
途中で放牧牛を見学 黄幡神社の石鳥居 ふれあいパークを横切る
大畑を過ぎて海側を見下ろしていると、下見時にはいなかった放牧牛10頭以上が群れていました。棚田跡を利用して放牧しているようです。棚田が自然の柵になっているのではないかと思います。さらに登っていると、黄幡神社が見えてきました。この付近は大幡地区と言うそうですが、かつては春と秋にお祭りが行われていたそうです。昔、社殿が焼けてしまって再建されなかったようです。
広島や岩国方面を見下ろす 眼下に日積を見下ろす
黄幡神社で小休止後、さらに道を登り続けました。汗ばみながらしばらく歩くと、右手にふれあいパークが見えてきました。ここは由宇青少年の家も兼ねた県の施設のようです。宿泊することもでき、陶芸などの研修を受けることもできます。ここまで来ると、もうすぐ銭壺山頂上です。ふれあいパーマから30分位歩いて、ようやく銭壺山に到着しました。ここからは、岩国,広島,周防大島,日積,そしてかすかに四国を遠望することができます。
銭壺山に至る史跡巡りウォーキングのコース
JR神代駅からバスで10分くらい揺られていると、由宇歴史民俗資料館に着きました。下見の時と同じように、入場料を払って入館しました。この資料館は下見で見学しているため、それほど長居することなく外に出ました。この資料館は船の形をしています。造船所など船に関わる会社が多くあったため船の形にしたのかも知れません。ちなみに田布施町郷土館はNTTに建物を借りています。そのため毎年家賃を払っています。しかし、由宇歴史民俗資料館の建物は由宇町(今は岩国市)が所有しているのだと思います。
山陽本線を跨いで、水路の取水口側に向かう
さて、由宇歴史民俗資料館を出ると、国道188号線を渡り山陽本線の海側沿いを水路・水車史跡に向かって歩きました。この周辺は山陽本線がほぼ直線に走っています。10分位山陽本線沿いに歩くと、水路・水車史跡に到着しました。この史跡は、山陽本線の海側からいったん水路の水が線路下に約4m降りて、再び線路から水が4m上昇します。そして、山陽本線の海側の田んぼに流れ出す仕組みになっています。いわゆるサイホンの原理を使って水路の水が下降と上昇します。水車はありませんが、水路は今でも田植えのシーズンに使われています。昭和30年代にあった水車は粉ひきなどに使われていたそうです。
由宇歴史民俗資料館 造船に関わる資料 山陽本線沿いに歩く
水路・水車史跡を見終わると、銭壺山方面から流れ落ちる急な川に沿って道を登りました。川の両サイドには棚田跡がたくさんありました。昭和30年頃まではどの棚田でも稲を作っていたのではないかと思います。当時の農作業の賑やかな様子が目に浮かびます。昭和30年代、子供だった私も田植えや稲刈りを手伝っていました。稲刈りした稲束を、小さな手で掴めませんでした。そのため、歯がゆい思いをしたことを覚えています。
線路下から上昇した水の出口 線路下に水が下降する水路の入口
さらに川沿いの道を登っていると、サツマイモを掘っている方々や草刈りをしている方々がいました。健康のため、運動のため、癒しのため、美味しい空気を吸うため、ここで野良仕事を楽しんでいる方々のようでした。仕事としての農業は過酷ですが、今は息抜きとして農業をしている方が多いようです。私もその一人で、自分で作った作物や果物を食べる幸せを満喫しています。
銭壺山に至る史跡巡りウォーキングのコース
下見で訪れた銭壺山周辺の史跡に行ってきました。舗装道路を延々と単調に登るためか、参加人数がいつもより少ない史跡巡りウォーキングでした。それでも、好天に恵まれしかも涼しい風に恵まれて楽しいウォーキングとなりました。まずは、JR神代駅に到着すると、登り側ホームにある歌碑を訪れました。しかしながら、草が下見時よりもさらに茂っていたため詩を読むことができませんでした。草が枯れる冬に訪れることができれば読むことができると思います。ところで、改札を出ると参加者の一人が待っていました。一つ前の電車でJR神代駅に到着したとのことでした。
我々以外は誰も降りなかった無人駅のJR神代駅
JR神代駅は、昭和のひなびた駅舎です。こじんまりとした駅舎内は、だいぶ前から無人駅だったそうです。そもそも、明治時代に山陽本線が開通した時はまだ駅が無かったそうです。そのため、JR大畠駅の次はJR由宇駅だったのでしょう。その後の辛抱強い陳情によって、昭和になってから駅ができたそうです。
JR神代駅で降車 草に埋もれた歌碑 高架より南側を見て
JR神代駅でバスに乗りますが、だいぶ待たなければなりません。待つ間、近くの史跡を散策しました。それは石に刻まれたお地蔵様と祠と思える石です。また、石の欠片も集められていました。近所に誰もいなかったため、このお地蔵様などの由来を聞くことができませんでした。
お地蔵様や石の欠片の数々 しばらく待ってバスに乗る
何故だか分かりませんが、私が子供の頃よく神代にきました。亡き父親のバイクに乗って来ていました。砂浜にある造船所によく行きました。その造船所で作った船の進水式を今でも覚えています。父親の友達が神代に住んでいたのでしょう。面白いことに、我家に今ある牛小屋は神代にあった造船所を移築(昭和30年代後半)したものです。
昭和30年代初期、父親は先進的な機械化農業を推進していました。その様子が新聞などに紹介されていました。そのため、機械化農業を学ぶため遠くは岐阜県から高校生が研修に来ていました。そして、神代からも高校生が我家に習いに来ていました。
銭壺山に至る史跡巡りウォーキングのコース
採石場からしばらくして鹿野に着きました。当初、漢陽寺や水車などを見学する予定でした。しかし、ふれあいプラザ須金やかいたファームで楽しく過ごしたため、あまり時間が残っていませんでした。漢陽寺などは何度か来たため、農家レストランたぬきに行くことにしました。初めて行く農家レストランです。
昼までに予約しておけば和食を頼めましたが、午後予約したためお蕎麦だけとなりました。室内はログハウス風で、レストランの周りにはたくさんの木々やハーブなどが植えてありました。巣箱が一つ樹にかけてありました。秋を感じながら落ち着いて食事することができました。
落ち着いた自然に囲まれた農家レストランたぬき
初めて訪れた農家レストランたぬき、農作業小屋を古民家風に改造してレストランにしたとのことです。レストランの周りにある畑で栽培した野菜、お茶の葉を採取して作った紅茶など、季節の感じさせる自家製和食が自慢のようです。少人数が、落ち着いた雰囲気で食事することができるレストランでした。あらかじめ予約した方が良いでしょう。ところで、調理をする方の体調不良で、開店記念日の2006年11月3日に合わせ、15年後の今年11月3日にお店を閉じるそうです。残念ですが仕方ありません。閉店前に行けて良かったです。
落ち着いた雰囲気 お蕎麦をいただく 展示の鹿野ほぼろ
席に座って周りを見ていると、農機具がいくつか壁に飾ってあることに気が付きました。牛が引く鋤,背負い籠,石油ランプなど懐かしい物ばかりです。それらの中で、目が点になった農具がありました。それはほぼろです。ほぼろとは、この春に私が講習会を開いて作り方を教えたワラ細工の籠のことです。鹿野のほぼろは紐に特徴がありました。背中に背負えるように工夫されていました。早速ですが同じものを作ってみようと思います。この農家レストランを訪れて、私の一番の収穫でした。
美味しそうな各種創作パン 二階は猫ちゃんの写真館
食事が終わると外に出て秋の風情を楽しみました。クルミを拾ったり、秋の花を愛でたりしました。そして、近くにある古民家風の子たぬきのパンのお店に寄りました。お店の奥にはピザ窯のようなパンを焼く窯がありました。山口産の小麦、鹿野の食材、そして山口県の薪を使って焼いているそうです。いろいろな形にアレンジした創作パンが並んでいました。さっそく購入しました。ところで、二階には猫の写真集が展示されていました。鹿野を楽しむと一路田布施に帰りました。参加された方々、お疲れさまでした。
訪れた須金フルーツランドや鹿野周辺
今月の少年少女発明クラブは木工製作で、巣箱と小箱を1年ごとに交互に製作しています。今年は2年ぶりに巣箱の製作です。ちなみに去年はコロナ惨禍で木工製作はできませんでした。
最初、子供達に18cm x 200cm 厚さ1.5cmの間伐材を配りました。間伐材にした理由はは、入手が容易なこと、安価な事です。また、木目がたくさんあり地肌がざらざらしているため、巣箱として小鳥に抵抗感が少ないのではないかと思ったからです。今回は子供の数に合わせて、20枚購入しました。なお、私の車はセダンのため一度に20枚は載せることができません。2回に分けて運びました。
間伐材に線を引いたり、ノコギリでもくもくと切断している子供達
間伐材と同時に、巣箱の寸法付き立体図を子供達を渡しました。また、見たり触れるように実物の見本も用意しました。この立体図を元にして二次元平面である間伐材に線を引きます。低学年生はやや難しいため、指導員が立体の寸法を間伐材に書き写す方法を教えました。それが終わると、子供達自身が考えて書き写します。正確に書き写すことができれば、ちゃんとした巣箱が出来上がります。そうでなければ、巣箱に組み上がることができません。
間伐材を子供達に配布 採寸の方法などの講習 間伐材に丁寧に線を引く
間伐材に線を引くと、ノコギリを使って線に沿って切ります。ここで大切なことは、板の真上から見て切ることです。斜め横から見て切ると、切断面がどうしても傾いて切れます。そんな子が少なからずいました。そんな時は、再度線を引いて切り直しします。間伐材は2mあるため、失敗した板を捨てて切り直すことができます。子供の個性の違いが、製図や切り方などに出るんですね。早い子、遅い子、丁寧な子、雑な子、マイペースな子、指導員によく聞く子、そうでない子など、さまざまです。私は事故や怪我の恐れがない限りは手出ししません。
立体図から二次元の板に線を引く 線に沿って次々に板を切る
昼食休憩が終わると、バナナを栽培する巨大なビニールハウス群に向かいました。下見の時に道を迷ってしまい偶然にそのバナナ園に遭遇しました。その時バナナ園を管理している方の1人がおられました。その方に、収穫したバナナを里の厨などで売っていることなどを聞きました。その話を皆さんにしました。バナナ園を過ぎると、不思議な石柱がある場所に行きました。石柱には何か掘られていましたが読めません。祠か何かの記念碑があったのではないかと思います。
正法院の本堂で仏さまを拝んだ後、小休止
次に、下見の時に探すのに往生した薬師堂に行きました。普通の民家に見える薬師堂に入り仏様を拝みました。下見時にこの薬師堂を教えていただいた方が隣の畑におられたため、ご挨拶しておきました。この周辺には、薬師堂,観音堂,地蔵堂、祠などたくさんの民間史跡があります。昔から信心深い方々が多く暮らしていたのでしょう。
バナナ園の小道を散策 不思議な石柱 薬師堂内の仏様
続いて、山陽本線の線路を跨いで正法院に行きました。ご住職の奥様のご了解を得て、本堂に上がって仏様を拝ませていただきました。ありがとうございました。本堂で少しばかり水分補給と休憩を取りました。この頃になると少しばかり暑くなりました。水分がどんどん体の中に入っていきます。正法院にある大師堂は防陽八十八箇所霊場七十四札所です。
正法院の大師堂(防陽七十四番札所) 才役大師堂防陽(七十五番札所)
正法院を出て20分位歩くと才役大師堂に着きました。峠道にある大師堂です。建物や周辺は比較的綺麗に管理されていました。地元の方々が大切にしているのでしょう。
ところで、これまで訪れた観音堂や大師堂などに若い方はほとんど関心がないようです。ここ20年位の間には廃れてしまうのではないかと危惧しています。地域の民間信仰はもう受け入れらず引き継がれない運命にあると思います。才役大師堂を出ると、JR岩田駅に向かいました。史跡巡りウォーキングに参加された方々、お疲れさまでした。
旧大和町岩田周辺の史跡巡りウォーキングルート
朽ちた防陽八十八箇所霊場第七十番札所雨桑観音堂を出ると、かつて相撲場があった広場に石段を降りました。相撲場跡の後ろにはお店でも出せるような片屋根小屋がありました。この広場で、かつては相撲大会や盆踊りが行われたのではないでしょうか。その後、しばらく山道を歩きました。そして、次に雨桑地蔵堂に行きました。今は屋根付きのお地蔵様しかありませんが、その昔はお堂や塾があったのではないでしょうか。
道脇のお花畑を鑑賞しながら岩田神社跡に向かう
雨桑地蔵堂は防陽八十八箇所霊場第七十三番札所ですが、それを示す札がどこにもありません。かつてはそのお堂があったのでしょうが、その面影はありません。屋根付きのお地蔵様が安置されているだけです。傍に江戸時代から明治にかけてあった森山塾跡を示す石柱が立てられていました。そして、10m位離れた場所に、森山塾跡を示す自然石に「志」刻まれていました。この付近は勉学がさかんな地域だったのでしょう。
屋根付きの雨桑地蔵像 森山塾跡を示す石柱 森山塾跡の石碑
続いて、お昼休憩をする予定の岩田神社跡に向かいました。途中、お花畑などを鑑賞しながら緩い登り坂を歩きました。この頃になると、日差しが強くなりやや疲れてきました。しばらく坂道を進むと、岩田神社跡に到着です。元々は神社の参道だったようですが、今は公園として近隣の方々に親しまれているようでした。
公園化した岩田八幡宮跡のブランコ 岩田八幡宮跡の鳥居と祠
岩田神社跡には祠と小さな建物がありました。その建物の屋根裏に、どう言う訳か蜂がたくさん群れていました。100匹位の蜂がいるのに巣が見当たりません。巣が地面に落下したのか、他の場所から避難したのかも知れません。
蜂を見た後、公園内の日陰で皆さんと昼食をとりました。休んでいると、近くに住んでいるらしい子供が二人やってきました。そして、我々に挨拶した後に公園内のブランコに乗って遊んでいました。
旧大和町岩田周辺の史跡巡りウォーキングルート
蓮光寺を出ると、アジサイ園に行きました。アジサイと言う名前が付いているので、アジサイをたくさん栽培している園とばかり思っていました。ところが、参加者の一人から、アジサイ園ではなくアジサイ苑との訂正がありました。つまり墓所とのこと。
すっかり勘違いしていました。入口の石柱をよく見ると、確かに「あじさい苑」と彫られていました。7月に菓子乃樹のアジサイ園に行って満開の数百種のアジサイを鑑賞したため、勝手にアジサイを栽培している農園とばかり思ってしまったのです。誤った先入観でした。
朽ちるのを待つばかりの岩田の雨桑観音堂
アジサイ苑を過ぎて、雨桑公会堂に行きました。そして、その先にあるお地蔵様に向かいました。屋根付きのお地蔵様で、地域の方々に大切にされているようでした。綺麗な前掛けや編んだ帽子をかぶっていました。その傍に灯篭と小さな祠がありました。元々は山の上にあった神社か祠をお地蔵様傍に移したのではないかと思われます。
「あじさい苑」入口の石 赤前掛けのお地蔵様 お地蔵様傍の祠と灯篭
雨桑公会堂前に戻って、次に雨桑観音堂に向かいました。山裾に入るとにわかに道が寂しくなりました。かつては軽トラが通ることができる舗装された道だったようです。しかし、その道に倒れた竹や落下した枝葉が積層していました。倒木などを迂回しながら道を登りました。
再び雨桑公会堂前を通る 倒れた竹などを迂回して登る
しばらくする、半ば放置されたように見える雨桑観音堂が見えてきました。当然ながら誰もいません。相撲場などの施設があることからかつては相当にぎわったと思われます。元々はお寺のようで、本堂内を拝見すると今にもお経が聞こえてきそうな雰囲気です。傍には、居住していた方がいたようで古い洗濯機やストーブなどの日用品がありました。また、郵便ポストには10年位前の消印の配布物がありました。それを推測すると、つい10年位前にはご住職かその家族がおられたのかも知れません。朽ちていずれ倒壊が予想される観音堂でした。
旧大和町岩田周辺の史跡巡りウォーキングルート
秋晴れの中、光市旧大和町岩田周辺にある史跡巡りウォーキングをしました。風は涼しいのですが、日差しはとても強く全国的に真夏日とのこと。10月でこんなに暑いのは初めてのことです。さて、JR田布施駅に9:10に集合し、9:26に電車に乗りました。そして、JR岩田駅に9:31に到着しました。最初に行ったのは大塚大師堂です。防陽八十八箇所霊場の八十番箇所札所です。地域の方々に大事にされているようです。また、最近改築されたのか綺麗なお堂でした。続いて、林の中に鎮座する鎮守社に向かいました。
蓮光寺(浄土真宗)、特別にご住職からご説法を賜る
林の中に続く小道を行くと、朽ちた丸太椅子がいくつかありました。10年位前に林の樹を伐採して作った椅子のようです。当時はこの椅子などを使った行事が行われたのではないでしょうか。その朽ちた椅子を見ながら林の中を進むと、小さな鳥居が見えてきました。そして、その鳥居の向こうに小さな神社が鎮座していました。立派なしめ縄が飾ってありました。その昔は地元の方々が縄を作っていたのでしょうが、今は購入したしめ縄でした。ここにも少子高齢化の影響がみえました。
9:31到着したJR岩田駅 綺麗な大塚大師堂 林の中の鎮守社
鎮守社の向こうに大和総合運動公園の建物や夜間ライトが見えました。その大和総合運動公園に向かって進みました。そして、運動公園を通り抜けて岩田と束荷を結ぶ県道に出ました。県道に出た所に不思議な祠がありました。中には小さな石が祀ってありました。その昔、ここで何らかの事故でもあったのでしょうか。それを祀ったのかも知れません。その祠を見終わると、蓮光寺に向かいました。
大和総合運動公園の出入り口 石を祀る不思議な祠
下見時には誰もいなかった蓮光寺でしたが、今回はご住職も奥様もおられました。そして、快く本堂の仏様を拝まさせていただきました。ところで、ウォーキング参加者の1人がお寺の娘さんを知っていました。そのことで、ご住職や奥様と話が弾みました。特別にご住職からご説法を賜りました。ありがとうございました。人の縁を不思議に感じた幸先良いウォーキングでした。
旧大和町岩田周辺の史跡巡りウォーキングルート
銭壺山からの瀬戸内海の眺めは絶景です。右手に周防大島が、真ん中には前島が、左手には倉橋島が、そして、はるか向こうには四国が見えます。ところで、銭壺山に登る時、2時間位かけて汗を流しながら登りました。なのに、車でスイスイと銭壺山に登る人がいます。何だかなあと思います。
以前、茨城県の筑波山に登ったことがあります。頂上にケーブルカーやロープウェイで楽々に登ることができます。ハイヒールを履いて登ることもできるのです。私は今回の銭壺山のように下から汗水たらしながら登りました。同じように何だかなあと思います。元々は厳しい修験者の山だったのに、山が泣いているように思えました。
JR神代駅近くの神東小学校傍のお地蔵様
さて、お昼休憩が終わると下山することにしました。その直前、頂上近くにある日積方面に降りる山道を確認しました。その降り口は、鎌で刈らないと通れないほど荒れていました。去年、日積側から銭壺山に登ることができないか鳩子の滝まで行きました。ところが、道が荒れているため途中で止めました。この冬になんとか日積から銭壺山に登ってみたいと思っています。
正面に前島を望む 前島と周防大島 小さく見える大島大橋
日積への降り口を確認すると、JR神代駅に向かって道を下りました。登りと比べてスイスイと歩くことができました。ふれあいパークの少し前で、小学校の先生が登ってきているのに気が付きました。お聞きすると子供達のための競技を設定をしているとのことでした。子供達は銭壺山周辺の自然を体験しながら競技するのでしょう。今の時代はいろいろな競技があるようです。私が子供の頃、野外教育は日帰りの臨海学校だけでした。それも、いつも泳いでいる海での野外学習はそれほど楽しくありませんでした。
眼下にふれあいパークなどの施設 神東小学校の下校に遭遇
ふれあいパーク、黄八幡神社を過ぎてしばらく下ってると、コスモスが道に沿って植えられていました。本番ウォーキング時には満開ではないかと思います。途中、岩が御神体と思われる祠と鳥居がありました。そして、近くに神東小学校がありました。その校舎の近くに屋根付きのお地蔵様が安置されていました。そのお地蔵様を見ていると、生徒を引率している先生が見えました。下校時刻だったようです。その後しばらく歩いて、JR神代駅に着きました。下見ウォーキングに参加された方々、お疲れさまでした。
銭壺山に至る史跡巡りウォーキングの下見コース
由宇歴史民俗資料館、もう少しじっくり見学したかったのですが、時間が押していたためやむなく出ました。次、とても貴重な史跡があるとのことで、Sさんの実家近くに行きました。
それは山陽本線を横断する水路の史跡でした。その昔、鉄道を敷設するため山裾を削ったそうです。そのため、線路から海側の田んぼに水を送れなくなったそうです。その解決のため、サイホンの原理を応用して丘を越えて水を流す水路を作ったそうです。いわばU字型になった水路トンネルです。いったん線路下に降りた水を、丘を登って通す特殊な水路トンネルの遺跡です。
長い坂道の終点、銭壺山の山頂
水路トンネル遺跡を見学すると、のんびりと坂道を登りました。川の左右に棚田が広がる桃源郷のような里を通りました。里の方でしょうか、数人が野良仕事する姿が見えました。しばらく登ると、先日の台風で落ちた枝を避けながら歩きました。この里は、川を中心にした素晴らしい里山にみえました。
少しずつ高度があがる 大畑のバス停 黄幡神社を訪れる
その後、JR由宇駅から通じる道に合流しました。そして、大畑地区を通過して古びた黄幡神社に寄りました。石鳥居をくぐると祠がありました。江戸時代に本殿が消失してからは再建されなかったとのこと。黄幡神社を後にしてしばらく歩くと、ふれあいパークの施設が見えてきました。
鳥居をくぐると小さな祠 もう少しで銭壺山頂上に到着
ふれあいパークを過ぎた頃、小学生達がお昼ご飯を食べているのがみえました。どこの小学校か聞くと余田小学校の生徒さん達でした。お泊り教室とのことです。銭壺山周辺で自然体験をするのでしょう。子供達に別れを告げると、銭壺山山頂に向かいました。山頂はお地蔵様とテレビ塔があるだけの寂しい山頂です。日陰も無く日射が暑いので、展望台の東屋に向かいました。東屋に着くと、景色を堪能しながら遅めのお昼休憩としました。涼しい風が吹き抜け、少しばかり肌寒かった東屋の日陰でした。
銭壺山に至る史跡巡りウォーキングの下見コース
9月の史跡巡りウォーキングが台風で延期になりました。その9月の史跡巡りウォーキングをする前に、10月の史跡巡りウォーキングの下見に行ってきました。銭壺山を登り降りする間にある史跡を巡るウォーキングです。まずは、JR田布施駅で電車に乗って、JR神代駅で下車しました。JR神代駅に降りたのは初めてです。駅構内に何かの歌碑がありましたが、草に覆われてよく見えませんでした。駅の外に出て国道188号線に出ると小さなお地蔵様がありました。また、道脇にオリンピックカンナが群生していました。60年前の東京オリンピック時に植えたのに違いありません。次にバスに乗りました。そして、由宇歴史民俗資料館前でバスを降りました。
船の形をした由宇歴史民俗資料館を見学
由宇歴史民俗資料館に来たのは10年ぶりのことです。10年前とは変わっていました。まず受付ですが、以前は館内の奥にありました。それが今は入口にありました。展示位置は大幅に変わっていましたが、展示物はあまり変わっていませんでした。重量物のジャガー織物機は元の位置にそのまま展示してありました。重くて移動できなかったのでしょう。見覚えがある展示物がたくさんありました。何年か前に再オーブンしたのでしょう。絨毯や階段などが綺麗になっていました。
初めて降りたJR神代駅 駅近くのお地蔵様 オリンピックカンナ
JR神代駅は初めてでしたが、神代付近の海岸は子供の頃に時々来たことがあります。一番よく覚えているのは船の進水式を見たことです。新造船が海に向かって砂浜を降りていく光景を、今でも覚えています。ちなみに、我家の牛舎は神代にあった造船所の建物を移築したものです。牛舎の中で船が作られていたことを思うと不思議です。柱の根元は今でも塩をふいており白くなっています。
造船に関係する展示物 織物などに関係する展示物
かつて造船所があった海岸を久しぶりに訪れて嬉しくなりました。私が子供の頃、神代の海岸は延々と砂浜が続いていました。そして、造船所の建物が海岸に接するように所々並んでいました。船は、今のような鉄工船ではなく木造船でした。今は木造船を見ることはなくなりました。木造船を作る技術は失われてしまったのでしょうね。神代の造船所は私の貴重な思い出です。その思い出の造船所の建物が、今でも我家に残っているなんて奇跡かも知れません。
銭壺山に至る史跡巡りウォーキングの下見コース
白菜の種まきを済ませ、その同じ畝にキャベツの苗を植えました。たまたまなのですが、工作に使う木材を物色するためにDIYのお店に行きました。すると売れ残りでなのしょう、安いキャベツの苗を売っていました。安さにつられてその苗を買ってしまいました。台風は午後に来るようでしたので、そのキャベツの苗を午前中に植え付けしました。そして、台風の風にあおられないように寒冷紗を被せておきました。
購入したキャベツの苗を台風襲来前に植え付け
キャベツの苗は六つ入りでした。そのうちの三つを白菜の並びの穴に植え付けしました。続いて、午後から台風が襲来予定のため、防風も兼ねて寒冷紗を被せておきました。風が強い台風とのことでしたので、寒冷紗の周りにレンガを何個か置きました。これで苗が吹き飛ばされたり倒れたりしないと思います。この台風を乗り切れば、順調に根付いて成長すると思います。そして、1月には美味しいキャベツを収穫できると思います。
購入したキャベツ苗を移植 寒冷紗の周りにレンガを置いて固定
わら細工民具ほぼろを作るにあたって、前回は藍染めした紐で底を編みました。今回は、同じく藍染めした紐で内側を編みました。そして、取っ手を付けて完成しました。内側を編むにあたってワラの端を切りそろえました。ほぼろの内側はワラの端が盛り上がって編みにくいためです。
本来のほぼろは、ワラの長さに合わせて大きさが違うものなのです。長いワラを使えば大きなほぼろに、短いワラを使えば小さなほぼろになります。そのため、ほぼろの大きさを統一するならば、ワラの端を切ってそろえる必要があります。今回はワラの端をハサミで切って揃えました。ちなみに短いワラで大き目のほぼろを作ったため、内側をきちっと編めなかったほぼろを見たことがあります。そのようなほぼろは底が抜けがちになります。
藍染めした紐を使って編んだほぼろ
さて、内側に盛り上がったワラの端を切りそろえると、底が抜けないように紐で編み込んでいきました。底と同じように蜘蛛の巣のように外側から内側に向かって編み込んでいきました。ほぼろの内側に両手を差し入れて、曲がり針をほぼろの内側と底側を通します。そして、通しながら紐をきつく縛ります。ちなみに、紐は水で湿らせておきます。麻紐は湿らせると伸びて、乾燥すると縮みます。そのため、編み込みが終わって紐が乾燥すると締まるのです。
曲がり針を使って編む 紐なしほぼろ完成 ほぼろに取っ手を付ける
最後に取っ手を取り付けてほぼろが完成します。取っ手もワラを編んで作ってもよかったのですが、今回は市販の太めの三重麻紐を使いました。手さげになるように、適度な長さの紐を2本使いました。その紐の端を解いてほぼろの縁の四ヶ所に結び付けました。今回は手さげにしましたが、お好みによって肩掛けにもすることができます。去年の五月、肩掛け、手さげ、手持ち無しの三種類のほぼろを製作しました。
なお、制作後に思いました。紐をより濃く藍染めした方が良かったかなとの思いと、底と内側の編み込み螺旋模様をもう少しデザイン的に良くすればとの思いです。
ほぼろの内側の編み込み完了 手持ち紐を取り付けて完成