小山田庄左衛門は、実際にいた人物である。赤穂浪士で盟約に加わりながら、土壇場で討入りに加わらず、落伍した。こういう最後の脱落者は、浪士の中に四、五名はいたようだ。(毛利小平太もその一人である。)彼らは、赤穂義士ではなく、赤穂「不義士」と言われている。が、小山田はその中で最も評判が悪い。なぜか。実際の小山田は、湯屋の遊女に入れ込んだ挙句、借金で首が回らなくなり、討入り間際になんと同志の金品を盗んで行方をくらましたからである。
それだけではない。隠居中で病身の父親が、赤穂浪士の討ち入り後に自分の息子の不参加と悪行を知り、なんと切腹してしまう。それで、小山田は、裏切り者、盗人というだけでなく、親不孝者という悪名まで着せられてしまった。
講談で語られる小山田庄左衛門は、もっとひどく、そのだらしなさが誇張されている。討入り当日、深川で湯屋の馴染みの女に出会う。女に誘われ、どこかにしけ込み、酒を飲んで泥酔してしまう。そのまま眠り込んで、目が覚めてみると、翌朝で、もうとっくに討入りは終わっていた。その直後に、小山田はこの女と江戸を出奔する。その後どこかで漢方医をやっていたのだが、強盗に殺されたという。これはほとんど作り話らしく、いくら何でも小山田が可哀相なくらいである。
では、大佛次郎の『赤穂浪士』はどうか。小山田庄左衛門は、悩める若者として暖かい目で捉え直されている。これはフィクションであるが、小山田は、幸(さち)という浪人の美しい娘と相思相愛になる。いずれ死すべき自分が添い遂げようのない恋をしてしまったことに悩むわけである。このあたりの経緯は、映画でも原作に忠実に描いている。ただ、小山田の揺れ動く心理描写が映画では描き切れていないが、これは仕方ない。しかし、後半が原作とはまるで違う。原作では、小山田が幸と一時的に別れる決心をし、別れの手紙を書く。それを読んだ幸が絶望し、自殺してしまうのだ。それを知った小山田は、自責の念にさいなまれ、身を持ち崩していく。それでも、主君の仇を討つことの意味を自問自答し、人生の幸福を考え、人にはもっと社会のために尽くす大きな使命があるのではないかと悟っていく。ある時、江戸で小山田は幸にそっくりの遊女と出会い、この女に溺れ、ついに討ち入りを断念し逃亡する。原作では、同志(片岡源吾)の金品を盗んだことは、一言触れただけに済ませ、父親が自害したことも書いていない。
映画はどうか。錦之助の小山田は、幸(田代百合子)との純愛を突き進む。幸は父親を亡くし一人ぼっちになってしまう。討入りの当夜、小山田は幸に自分の身分を打ち明け、集合場所に行こうとする。しかし、幸にすがりつかれ、どうしても行くなら私を殺して!とまで言われ、ついに振り切ることができなくなって、討入りを断念する。ああ、何たることか!
錦之助は当時人気鰻上りの若手ナンバーワン・スターである。遊女に溺れ、同志の金を持ち逃げするような卑劣な男にしたものなら、ファンが容赦しなかったにちがいない。映画の中で、錦之助の小山田は、松田監督がファンの目を意識してか、非常に好意的に、またスターらしく描いていたと思う。
しかし、この役でも、ファンの評判はかんばしくなかったようだ。なんで錦ちゃんを討入りの仲間に入れなかったのよ!女なんか捨てて、千代ちゃん(浅野内匠頭役の東千代之介)の仇を討たせてあげなければ、許せない!という不満があちこちで沸いたらしい。抗議の手紙も東映本社に殺到したにちがいない。(これはあくまでも私の推測である。多分女性ファンの気持ちはこうだったのではあるまいか。)
私ならストーリーの最後を以下のように変えたであろう。
幸は、小山田に打ち明けられ、愕然とする。それでも、気を取り直し、二世を契った男のため、本懐を遂げさせてやろうと思い、彼を送り出す。彼が行った後、幸は短刀を首に突き当て、自害してしまう。小山田は、家を出た後、幸のことが気がかりで、集合場所へどうしても足が向かない。あちこちさまよった末、集合の刻限が過ぎ、そしてついに討入りに加われなくなってしまう……。どうですかね?(つづく)
それだけではない。隠居中で病身の父親が、赤穂浪士の討ち入り後に自分の息子の不参加と悪行を知り、なんと切腹してしまう。それで、小山田は、裏切り者、盗人というだけでなく、親不孝者という悪名まで着せられてしまった。
講談で語られる小山田庄左衛門は、もっとひどく、そのだらしなさが誇張されている。討入り当日、深川で湯屋の馴染みの女に出会う。女に誘われ、どこかにしけ込み、酒を飲んで泥酔してしまう。そのまま眠り込んで、目が覚めてみると、翌朝で、もうとっくに討入りは終わっていた。その直後に、小山田はこの女と江戸を出奔する。その後どこかで漢方医をやっていたのだが、強盗に殺されたという。これはほとんど作り話らしく、いくら何でも小山田が可哀相なくらいである。
では、大佛次郎の『赤穂浪士』はどうか。小山田庄左衛門は、悩める若者として暖かい目で捉え直されている。これはフィクションであるが、小山田は、幸(さち)という浪人の美しい娘と相思相愛になる。いずれ死すべき自分が添い遂げようのない恋をしてしまったことに悩むわけである。このあたりの経緯は、映画でも原作に忠実に描いている。ただ、小山田の揺れ動く心理描写が映画では描き切れていないが、これは仕方ない。しかし、後半が原作とはまるで違う。原作では、小山田が幸と一時的に別れる決心をし、別れの手紙を書く。それを読んだ幸が絶望し、自殺してしまうのだ。それを知った小山田は、自責の念にさいなまれ、身を持ち崩していく。それでも、主君の仇を討つことの意味を自問自答し、人生の幸福を考え、人にはもっと社会のために尽くす大きな使命があるのではないかと悟っていく。ある時、江戸で小山田は幸にそっくりの遊女と出会い、この女に溺れ、ついに討ち入りを断念し逃亡する。原作では、同志(片岡源吾)の金品を盗んだことは、一言触れただけに済ませ、父親が自害したことも書いていない。
映画はどうか。錦之助の小山田は、幸(田代百合子)との純愛を突き進む。幸は父親を亡くし一人ぼっちになってしまう。討入りの当夜、小山田は幸に自分の身分を打ち明け、集合場所に行こうとする。しかし、幸にすがりつかれ、どうしても行くなら私を殺して!とまで言われ、ついに振り切ることができなくなって、討入りを断念する。ああ、何たることか!
錦之助は当時人気鰻上りの若手ナンバーワン・スターである。遊女に溺れ、同志の金を持ち逃げするような卑劣な男にしたものなら、ファンが容赦しなかったにちがいない。映画の中で、錦之助の小山田は、松田監督がファンの目を意識してか、非常に好意的に、またスターらしく描いていたと思う。
しかし、この役でも、ファンの評判はかんばしくなかったようだ。なんで錦ちゃんを討入りの仲間に入れなかったのよ!女なんか捨てて、千代ちゃん(浅野内匠頭役の東千代之介)の仇を討たせてあげなければ、許せない!という不満があちこちで沸いたらしい。抗議の手紙も東映本社に殺到したにちがいない。(これはあくまでも私の推測である。多分女性ファンの気持ちはこうだったのではあるまいか。)
私ならストーリーの最後を以下のように変えたであろう。
幸は、小山田に打ち明けられ、愕然とする。それでも、気を取り直し、二世を契った男のため、本懐を遂げさせてやろうと思い、彼を送り出す。彼が行った後、幸は短刀を首に突き当て、自害してしまう。小山田は、家を出た後、幸のことが気がかりで、集合場所へどうしても足が向かない。あちこちさまよった末、集合の刻限が過ぎ、そしてついに討入りに加われなくなってしまう……。どうですかね?(つづく)