錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『宮本武蔵』(その二十)

2007-06-18 17:37:54 | 宮本武蔵
 「一乗寺下がり松の決闘」のシーンは、巨匠内田吐夢ならではの大胆にして細心な映画作りの特長が見事に発揮されていたと思う。これは吉川英治の原作と比べてみて分かったことなのだが、映画はずいぶん原作を変えていたし、また原作にない部分を取り入れ、鮮やかな映像表現に仕上げていたと言える。映画独自の創意工夫が随所に見られ、素晴らしい効果を上げていた。そこを見逃してはならないと私は思っている。
 内田吐夢の『宮本武蔵』を傑作に上げ、とくに「一乗寺の決闘」を絶賛する映画評論家たちは私の知る限り誰もそうした点に触れていない。名を挙げて悪いかもしれないが、佐藤忠男も川本三郎も『宮本武蔵』に関しては映画の観方が浅いと思う。映画史上での位置づけも結構である。あらすじを書いて印象批評でお茶を濁らせるのも仕方がないのかもしれない。ただ、吐夢と錦之助の『宮本武蔵』を傑作と認めているなら、具体的に何が素晴らしいのかをもっと掘り下げて書いてほしいと思う。シナリオや映画手法の独自性にも触れず、錦之助や共演者の演技にも論評を加えないで、それで映画評論と言えるのか。(『君は時代劇映画を見たか』(佐藤忠男)、『時代劇ここにあり』(川本三郎)という本の題名も偉そうで、どうも気に食わない。)
 さて、小説と映画では明らかに表現方法が違う。吉川英治の『宮本武蔵』にはかなり観念的な表現も多く、武蔵の心理描写も多い。吐夢はそうした部分を大胆に切り捨て、その上で、小説で描かれた情景を具体的に映像化し、時間的な流れに移しかえ、観客に映画の醍醐味を満喫させてくれた。「一乗寺の決闘」の場面には、映画の緊張感と迫力、言い換えればリアルタイムの臨場感があふれていた。内田吐夢は映画の奇術師だった。それも大仕掛けのスペクタクルを得意とするスケールの大きな奇術師で、観客をあっと驚かせることにかけては超一流のテクニックを披露してくれたと思う。
 モノクロに変わったファーストシーンは、夜明け前の一乗寺跡の遠景だった。人気(ひとけ)のない暗い田んぼの風景を俯瞰で撮影し、「さあ、これからここで凄いことが始まりますよ」と暗示する。この前触れが観客をゾクゾクさせるわけだ。バックに流れる音楽も狂気を孕んでいるように聞こえ、雰囲気を盛り上げていた。
次に武蔵のバストショットが映し出される。決闘現場に武蔵は早々と到着しているではないか。武蔵は、果し合いの時には、たいてい約束の時刻に遅れて来る。が、一乗寺の決闘の時は、違っていた。前もって現場にやって来て、裏山の中腹から地形を下検分している。懐から紙を取り出し、筆で地図を描き始める。武蔵は周到に作戦を練っている。
 右隅に狭い原っぱがあり、そこに松の木が一本立っている。これが目印の「下がり松」だ。「一乗寺下がり松」とは、京都郊外に一乗寺というお寺のあった跡地があり、そこに残っている枝の垂れ下がった松ということである。ここへは三本の道が通じている。
 画面に映し出される全景は、武蔵の眼に映った眺めになっている。松の木のこちら側に裏山があり、武蔵はそこに潜んで、様子を探っているのだ。左側の道の向こうに明かりを点々と灯した隊列のようなものが現れる。吉岡勢である。遠くの方から下がり松の方へ複数の明かりが近づいてくるこの全景のカットが長々と映し出される。十秒ほどあったであろうか。このあたりの描写が実に巧みで、内田演出の芸の細かいところである。いかにも映画らしいのだ。(つづく)