錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

長谷川伸三部作

2013-09-08 18:35:42 | 瞼の母・関の彌太ッペ
 土日に新文芸坐へ行って、『瞼の母』『関の彌太ッペ』『沓掛時次郎 遊侠一匹』を観て来た。
 三作とも何度も見ている映画であるが、見るたびに感動を新たにするから不思議だ。錦之助の演じる旅人(たびにん)やくざの心の暖かさ、人を思う一途な気持ちに胸を打たれるのと同時に、三作とも見終わってなんとも言えない寂しさを感じる。やくざ者であるがゆえに、はかない夢も破れ、忠太郎も弥太ッペも時次郎も孤独のまま、遠くへと立ち去っていく。その寂寥感に胸を締め付けられる。とくに『沓掛時次郎 遊侠一匹』は、錦之助がこのあとすぐ東映を去っていくという悲しい現実と重ね合わせると、ラストシーンの寂しさが一層募ってくる。
 見終わってそういった寂しさは感じるものの、やはりいい映画だったなと感動するから、何度も見るわけだ。

 『瞼の母』(昭和36年12月製作 昭和37年1月公開)と『沓掛時次郎 遊侠一匹』(昭和41年4月公開)は、同じ加藤泰監督作品である。そして、この二作の間には4年以上の歳月が流れている。山下耕作監督の『関の彌太ッペ』が封切られたのは、昭和38年11月20日、錦之助の31歳の誕生日である。『瞼の母』は錦之助が29歳、『沓掛時次郎』は33歳の時の作品だが、今思うと錦之助という役者はなんと成熟していたのかと思う。いや、若くして老成していると言った方が適切かもしれない。スクリーンの中の錦之助を見ていると、今の30歳前後の俳優が未熟に見えて仕方がない。
 映画監督もそうである。加藤泰は大正5年生まれだが、彼が『瞼の母』を作ったのは45歳の時である。山下耕作は昭和5年生まれで、『関の彌太ッペ』を作ったのは33歳で、新進監督時代である。小津安二郎に触れるまでもなく、映画監督の成熟度も現代とは雲泥の差があるような気がしてならない。
 近頃私は、人間と文化の成熟ということを考えるようになったが、昭和30年代の日本人と日本文化に比べ、平成の今の日本人と日本文化は未熟で稚拙にしか思えない。この50年簡、日本人と日本文化に成長発展があったのだろうか。不毛だった気がしてならない。
 最近の日本映画を見ても私は感動することがまったくない。洋画も同じだ。50年前の名作を見れば今でも感動し、充実した時間を過ごせるから、結局古いものに帰ってしまう。
 昭和25年から昭和50年までの25年間と平成になってからの25年間を比べれば、製作された映画の本数は激減したが、果たして平成時代に何度も見たいような映画が作られたのだろうか。
 昭和30年代の現代劇の名作映画は、あの頃の時代背景や風俗を反映していることもあって、今見ると古さを感じるが、時代劇の名作はかえって古さを感じないように思う。
 長谷川伸三部作に限らず、錦之助主演の時代劇が、今後も上映され、若い人たちが見て、その感動を後世に伝えていくようになることを私は切に望んでいる。



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