「やります。ぜひ僕にやらせてください」
正月のオールスター映画で森の石松をやってみる気があるかと東映専務のマキノ光雄に訊かれて、錦之助は喜色満面に浮かべて即答した。
昭和31年の夏のある日、東映京都撮影所でのことである。来年の正月に公開される映画に関してプロデューサーが配役の打診をするというのもずいぶん早い話のようだが、脚本の準備もあり、オールスター映画だけあって特別であった。
マキノの話によると、配役では片岡千恵蔵の次郎長だけが決まっていて、これから脚本家の比佐芳武が構想を練ろうとしているところだった。数日前、マキノと千恵蔵と比佐の三人が話し合った時、次郎長物の決定版を作るとして、石松は誰がいいかということが話題に上った。すると千恵蔵が、「うちの役者じゃ、錦坊しかいないよ」と錦之助を強く推したのだという。
千恵蔵は以前、石松役者と言われたほどだった。『続清水港』(昭和15年)と『東海水滸伝』(昭和20年)で二度石松を演じ、好評を博していたが、石松は本来、二枚目のスター俳優が二枚目半に崩して演じる役で、三枚目の喜劇俳優が扮する役ではないというのが千恵蔵の持論であった。
「千恵蔵先生がそう言うなら、なおさらやる気が出てきちゃったなあ」
「でも、ええのか、錦ちゃん? 石松は片目やし、最後はだまし討ちにあって殺されるのやで」
「いいですよ。一度殺される役、やってみたかったんです」
マキノは心配だった。何万人もの若い女性の熱烈な錦之助ファンから非難ごうごうの声が上がったらどうするのか。
「ファンが怒るやろな。信長で汚れ役やった時以上にえらいことになるんやないか」
「いや、大丈夫ですよ。ファンをびっくりさせるのも面白いじゃないですか」
マキノは早速比佐に錦之助が石松役を喜んで引き受けたことを伝えた。『妖蛇の魔殿』の脚本を脱稿したばかりの比佐であったが、千恵蔵の次郎長に錦之助の石松という組み合わせを想像すると俄然脚本を書く意欲が湧いてきた。この二人の親分子分の親密な関係を軸に、次郎長伝で有名なエピソードを何話か織り込み、オールスター映画らしい個性あふれる登場人物たちによるスピーディな群像劇に仕立てようと考えた。これまでの次郎長物にはない新しさや奇抜な発想も加え、脚本の構成を固めると、一気呵成に書き進めていった。もう一人の御大である市川右太衛門は大前田英五郎にして、前半から後半へ移る展開場面で重要な役を演じさせよう。右太衛門の顔を立てるアイデアが浮かんで、比佐はすっきりとした気分になって、さらに筆が走った。
比佐の脚本の初稿は、昭和31年9月半ばに完成した。タイトルは『任侠清水港』に決まり、プロデューサーのマキノ光雄、大森康正、玉木潤一郎に監督の松田定次を加え、スタッフの編成、俳優のキャスティングが急ピッチで進められていった。
正月のオールスター映画で森の石松をやってみる気があるかと東映専務のマキノ光雄に訊かれて、錦之助は喜色満面に浮かべて即答した。
昭和31年の夏のある日、東映京都撮影所でのことである。来年の正月に公開される映画に関してプロデューサーが配役の打診をするというのもずいぶん早い話のようだが、脚本の準備もあり、オールスター映画だけあって特別であった。
マキノの話によると、配役では片岡千恵蔵の次郎長だけが決まっていて、これから脚本家の比佐芳武が構想を練ろうとしているところだった。数日前、マキノと千恵蔵と比佐の三人が話し合った時、次郎長物の決定版を作るとして、石松は誰がいいかということが話題に上った。すると千恵蔵が、「うちの役者じゃ、錦坊しかいないよ」と錦之助を強く推したのだという。
千恵蔵は以前、石松役者と言われたほどだった。『続清水港』(昭和15年)と『東海水滸伝』(昭和20年)で二度石松を演じ、好評を博していたが、石松は本来、二枚目のスター俳優が二枚目半に崩して演じる役で、三枚目の喜劇俳優が扮する役ではないというのが千恵蔵の持論であった。
「千恵蔵先生がそう言うなら、なおさらやる気が出てきちゃったなあ」
「でも、ええのか、錦ちゃん? 石松は片目やし、最後はだまし討ちにあって殺されるのやで」
「いいですよ。一度殺される役、やってみたかったんです」
マキノは心配だった。何万人もの若い女性の熱烈な錦之助ファンから非難ごうごうの声が上がったらどうするのか。
「ファンが怒るやろな。信長で汚れ役やった時以上にえらいことになるんやないか」
「いや、大丈夫ですよ。ファンをびっくりさせるのも面白いじゃないですか」
マキノは早速比佐に錦之助が石松役を喜んで引き受けたことを伝えた。『妖蛇の魔殿』の脚本を脱稿したばかりの比佐であったが、千恵蔵の次郎長に錦之助の石松という組み合わせを想像すると俄然脚本を書く意欲が湧いてきた。この二人の親分子分の親密な関係を軸に、次郎長伝で有名なエピソードを何話か織り込み、オールスター映画らしい個性あふれる登場人物たちによるスピーディな群像劇に仕立てようと考えた。これまでの次郎長物にはない新しさや奇抜な発想も加え、脚本の構成を固めると、一気呵成に書き進めていった。もう一人の御大である市川右太衛門は大前田英五郎にして、前半から後半へ移る展開場面で重要な役を演じさせよう。右太衛門の顔を立てるアイデアが浮かんで、比佐はすっきりとした気分になって、さらに筆が走った。
比佐の脚本の初稿は、昭和31年9月半ばに完成した。タイトルは『任侠清水港』に決まり、プロデューサーのマキノ光雄、大森康正、玉木潤一郎に監督の松田定次を加え、スタッフの編成、俳優のキャスティングが急ピッチで進められていった。