昭和二十九年七月半ば、京都は祇園祭の宵山を目前に控えながら、まだ梅雨が去らず、晴れ間のない日が続いていた。錦之助は常宿の小田屋から毎日、東映京都撮影所に通い、『唄ごよみ いろは若衆』の撮影に追われていた。その日の朝、食卓に出されたお茶の中に茶柱が立った。錦之助は、今日はきっとなにか良いことが起りそうな予感がした。
撮影を終えて、夜、疲れて小田屋に帰ると、錦之助のもとに次兄三喜雄から一通の葉書が届いていた。東京で後援会が発足するという嬉しい知らせであった。
父時蔵と母ひなが、以前から親しくしている政界と実業界の名士のもとを回って、後援会の役員になってもらう承諾を取り、また、三喜雄が世話役となって、家族や中心となる会員と相談しながら後援会の事務や運営を決めたのだった。会則も作り、名称は「錦」(にしき)、会の本部は東京都中央区築地四の二、共栄ビル内に置くことになった。すでに東映本社や「平凡」「明星」といった芸能雑誌とも連携して会員を募り、なんとその数は千人を越えていた。錦之助は喜ぶと同時に驚いた。
兄の話によれば、会誌「錦」の第一号も今作っている最中で、夏休みの八月二十二日に上野の精養軒で発会式を行なうとのことだった。会誌に錦之助本人の言葉を載せるので、すぐに送るようにという指示も書いてあった。
錦之助後援会「錦」の会誌が発刊されたのは、昭和二十九年七月末である。
表紙は、『唄ごよみ いろは若衆』の錦之助の写真で、流しの芸人稲葉弥之助の粋な立ち姿のバストショットである。
「錦」第一号
巻頭には、後援会の会長を引き受けた「味の素」会長鈴木三郎助の挨拶と、錚々たる役員の名前が載った。政治家では元総理大臣芦田均(ひとし)と、のちの外務大臣重光葵(まもる)。実業家では、国策パルプ(のちの日本製紙)取締役丹羽秀伯、丸見屋(のちのミツワ石鹸)社長三輪善兵衛、日本テレビ社長正力松太郎、コロンビア社長武藤与市、演劇界からは、劇作家の久保田万太郎、北条秀司、金子洋文(元プロレタリア小説家)、芸能界からは、作曲家の上原げんと、万城目正、映画監督の斎藤寅次郎、佐々木康、そして東映社長大川博、新芸プロ社長福島通人であった。
錦之助は、「僕の再出発」という題で、意気揚々と、こんな文章を書いている。
―――映画界に入って半年にもならない僕だから、後援会など、まだ出来ようとは、思ってもいなかった。それなのに後援会「錦」が出来、皆様方が錦の御旗を一本一本高くさし上げて、一千本以上にもなっていると知って、僕は心から幸せ者であると、思った。
錦の御旗を振りかざし、勇ましい鼓笛隊に合せて軍歌を歌い進軍して行く、維新の御代のことが僕の脳裡に浮んで来る。丁度、明日撮影する予定になっている『唄ごよみ いろは若衆』のラストシーンと同じ様に、新しい時代が生まれ、僕の再出発の門出である。
沢山のファンの人々の鼓笛によって、僕自身真直ぐに映画の道に進んでいく積りだ。
僕は、その官軍の進軍が、どこまでもどこまでも歩調の崩れることなく、行く先知れない山の彼方まで進んで行くことを確信している。(一九五四年七月十六日 京都にて)
撮影を終えて、夜、疲れて小田屋に帰ると、錦之助のもとに次兄三喜雄から一通の葉書が届いていた。東京で後援会が発足するという嬉しい知らせであった。
父時蔵と母ひなが、以前から親しくしている政界と実業界の名士のもとを回って、後援会の役員になってもらう承諾を取り、また、三喜雄が世話役となって、家族や中心となる会員と相談しながら後援会の事務や運営を決めたのだった。会則も作り、名称は「錦」(にしき)、会の本部は東京都中央区築地四の二、共栄ビル内に置くことになった。すでに東映本社や「平凡」「明星」といった芸能雑誌とも連携して会員を募り、なんとその数は千人を越えていた。錦之助は喜ぶと同時に驚いた。
兄の話によれば、会誌「錦」の第一号も今作っている最中で、夏休みの八月二十二日に上野の精養軒で発会式を行なうとのことだった。会誌に錦之助本人の言葉を載せるので、すぐに送るようにという指示も書いてあった。
錦之助後援会「錦」の会誌が発刊されたのは、昭和二十九年七月末である。
表紙は、『唄ごよみ いろは若衆』の錦之助の写真で、流しの芸人稲葉弥之助の粋な立ち姿のバストショットである。
「錦」第一号
巻頭には、後援会の会長を引き受けた「味の素」会長鈴木三郎助の挨拶と、錚々たる役員の名前が載った。政治家では元総理大臣芦田均(ひとし)と、のちの外務大臣重光葵(まもる)。実業家では、国策パルプ(のちの日本製紙)取締役丹羽秀伯、丸見屋(のちのミツワ石鹸)社長三輪善兵衛、日本テレビ社長正力松太郎、コロンビア社長武藤与市、演劇界からは、劇作家の久保田万太郎、北条秀司、金子洋文(元プロレタリア小説家)、芸能界からは、作曲家の上原げんと、万城目正、映画監督の斎藤寅次郎、佐々木康、そして東映社長大川博、新芸プロ社長福島通人であった。
錦之助は、「僕の再出発」という題で、意気揚々と、こんな文章を書いている。
―――映画界に入って半年にもならない僕だから、後援会など、まだ出来ようとは、思ってもいなかった。それなのに後援会「錦」が出来、皆様方が錦の御旗を一本一本高くさし上げて、一千本以上にもなっていると知って、僕は心から幸せ者であると、思った。
錦の御旗を振りかざし、勇ましい鼓笛隊に合せて軍歌を歌い進軍して行く、維新の御代のことが僕の脳裡に浮んで来る。丁度、明日撮影する予定になっている『唄ごよみ いろは若衆』のラストシーンと同じ様に、新しい時代が生まれ、僕の再出発の門出である。
沢山のファンの人々の鼓笛によって、僕自身真直ぐに映画の道に進んでいく積りだ。
僕は、その官軍の進軍が、どこまでもどこまでも歩調の崩れることなく、行く先知れない山の彼方まで進んで行くことを確信している。(一九五四年七月十六日 京都にて)