錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~戦中の一家(その4)

2012-08-30 00:11:27 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 なぜ、錦之助が頑強なまでに東京に残ることを主張したかといえば、良き歌舞伎役者になるためには東京を離れてはいけないと子供ながらに思っていたからだった。子役として舞台に立つ機会はなくなっても、錦之助は真剣に芸事の稽古を続けていたという。
 三河台の大きな家は、母たちが疎開してからはがらんとして、父時蔵を中心に兄三人と錦之助、そして世話をする二、三人の弟子だけになった。長兄の貴智雄(種太郎)は、当時すでに十九歳になっていたが、体が悪かったため兵役は免れていた。次兄の茂雄(梅枝)は十六歳、三兄の三喜雄が十四歳であった。

――私たち兄弟は寂しそうな父に心配をかけてはいけないと暗黙のうちに言い交わしていたのです。なにか弓の弦をピンと張ったような緊張した生活でした。とぼしかった食糧も発育ざかりの私たちには全く不足なものでした。しかし、不平ももらすことなく私たちは分けあって食べたものでした。
 疎開先から母が婆やと共に重いリュックを担い大きな袋に食糧をつめて度々はこんでくれました。(中略)母が二日程いて疎開先に帰ります。兄たちも寂しそうに母を見送っておりました。(中略)母もまた、心を残して侘しさを瞳にたたえながら婆やと共に空のリュックと袋を持って帰って行くのでした。

 歌舞伎座は閉鎖されたとはいえ、昭和十九年の秋から、時蔵は吉右衛門劇団とともに新橋演舞場に出演、十月にはまた慰問巡業をしていた。しかし、それも昭和十九年の暮までだった。

 昭和十九年の年も押し詰まった十二月二十九日、吉右衛門と時蔵の末弟・中村もしお(のちの十七代目勘三郎)が帝國ホテルで結婚式を挙げる。相手は六代目菊五郎の長女寺島久枝であった。その馴れ初めから結婚までの経緯は、勘三郎著「やっぱり役者」に詳しい。面白いので一読をお勧めする。十二月二十九日をわざわざ選んだのは、一年間の歌舞伎の興行が終了した後が披露宴をするのに望ましかったからであろう。勘三郎によると、いつ空襲が来るか気が気でなかったそうだが、この日は幸い空襲がなく、無事に結婚式を済ませたという。錦之助も列席したにちがいない。
 この新婚夫婦の間に生まれた最初の子が波乃久里子(本名波野久里子)で、結婚式のほぼ一年後、昭和二十年十二月一日に生まれている。菊五郎は、敗戦の年の子だから「敗子」にしろと言ったそうだが、夫婦の疎開先だった神奈川県久里浜の名を借りて、久里子と名づけたという。

 昭和二十年になると、いよいよ戦争は激しさを増し、国内各地に米軍による空襲が多発し、本土決戦の様相を帯びてくる。すでに東京はじめ大都市では急速に疎開が進み、また、成年男子の多くは徴兵され、学徒動員も強化されて、東京も過疎化していた。
 それでも正月の歌舞伎興行は行われた。新橋演舞場では菊五郎が「赤垣源蔵」を演じ、「鏡獅子」を踊った。それに負けじと吉右衛門も、明治座で、時蔵、芝翫との共演で「石切梶原」を熱演した。が、公演中、何度も警戒警報が鳴り、芝居を中断しなけれならなかったという。
 東京の中心地、銀座をめがけて米軍機B29が空襲を行ったのは昭和二十年一月二十七日昼のことであった。それまで米軍による空襲は、主に軍需工場や港湾施設を狙ったものだったが、この日は東京郊外の武蔵野町にあった中島飛行機武蔵製作所を狙って出撃した76機のB29のうち56機が有楽町・銀座地区へ目標を変更、空爆を行い、有楽町駅は民間人の死体であふれたという。新富町の五階建ての松竹本社にも焼夷弾が落ち、多くの死傷者を出した。四階に居た大谷竹次郎社長は爆風のため鼓膜を破られたという。

 東京に留まった時蔵と息子四人が、三河台の家から世田谷の知人の家を借りて移り住んだのは、それから間もなくのことだったと思われる。おそらく昭和二十年の二月になってからではなかろうか。
 三河台の家の近く、龍土町(錦之助が生まれた家があった所)には、歩兵第三聯隊の近代的設備を誇る兵舎があり、空襲で狙われる確率が高かったからだ。ただし、その頃歩兵第三聯隊の主力は満州に渡り、昭和十六年以降は新たに編成された近衛歩兵第七聯隊が駐屯していた
 錦之助の自伝「ただひとすじに」によると、三河台の家は売り払ったのではなく、父時蔵と長兄貴智雄がしばしば様子を見に行って、交代で泊ることにしていたという。その時のことを錦之助はこう書いている。

――それは私たちにとって父が泊っても長兄が泊っても不安なものでした。そんな夜、無気味な空襲を報せるサイレンが唸ると、もしものことがなければと防空壕の中で神に念じたものです。爆弾が落ちても父と一緒に死ぬのならと思うと、その頃の私はそれ程恐怖感がなかったのですが、父が三河台の家に泊りにいっている時にサイレンでもなると不安でその夜は眠れない程でした。