錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~生い立ち(その1)

2012-08-11 17:08:58 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 中村錦之助は、昭和7年(1932年)11月20日、東京市麻布区龍土町に生まれた。本名は小川錦一。父は歌舞伎の名女形三代目中村時蔵、母は小川ひな、五男五女の四男、六番目の子だった。


お宮参り 母ひなと錦一

 出生地は現在、東京都港区六本木7丁目に変っているが、錦之助が生まれた当時は、まだ東京市で、麻布区があり、龍土町という町があった。通称は麻布龍土町、江戸時代からある地名である。東京市と東京府が廃止されて東京都となるのは昭和18年、 芝区、麻布区、赤坂区が合併して港区ができるのは昭和22年で、その時麻布区にあった地名に、「麻布」の冠称が加わり、東京都港区麻布龍土町となった。これが戦後20年続き、麻布龍土町など古くからの町名が消え、六本木7丁目となるのは昭和42年である。
 六本木交差点から外苑東通りを乃木坂に向かって少し行ったところに以前防衛庁があったが(現在は東京ミッドタウン)、通りをはさんでその向こう側の高台一帯が麻布龍土町であった。
 日本初の仏蘭西料理店「龍土軒」(正式名は、「土」の字に点がつく)は、明治33年(1900年)この地(新龍土町)で開業し、明治後期から大正、昭和にかけて多くの文化人のサロンとして、また将校たちの集会の場としても利用されていた。昭和11年、二・二六事件を起こした将校たちが密談したのもここであったという。龍土軒は、昭和44年西麻布へ移転し、現在も営業している。
 また、江戸川乱歩の探偵小説で明智小五郎の事務所は龍土町にあったという設定になっている。
 錦之助の出生地に関しては、「キネマ旬報」の俳優事典などで、「東京市赤坂区青山南町(現・港区南青山)の生まれ」となっているものがあるが、これは明らかに誤りである。
 
 錦之助が生まれたのち、時蔵一家は麻布三河台町の新居に引っ越す。錦之助はこの家で育ち、昭和10年代の幼年時代を過ごした。

 麻布三河台町は、六本木交差点のあたりで、外苑東通りをはさんでアマンドのある側が六本木町、その向かい側だった。今ある俳優座劇場の周辺である。この町名も昭和42年に消滅し、現在は六本木4丁目に変っている。マンション名に三河台の名を残すだけである。
 父時蔵がいつ頃、麻布三河台町に家を新築したかは不明だが、時蔵の三周忌記念本「三世中村時蔵」(昭和36年7月発行 演劇出版社)に、年月日はないが「戦前の六本木新居竣工祝いの集り」と記された写真が載っているので、新築したことは確かである。ちなみに六本木というと、現在は1丁目から7丁目までの広範囲を指すが、江戸時代から戦前までは六本木交差点あたりの狭い地域を指していた。六本木という呼び名の由来は、ここに六本の木があったという説と、木の名前にちなむ大名屋敷がここに六つ(青木、一柳、上杉、片桐、朽木、高木)あったという説の二説あるようだ。
 
 錦之助の父、三代目中村時蔵は、本名を小川米吉郎といい、明治28年(1895年)6月6日、初代中村時蔵(晩年三代目中村歌六を襲名)の三男として生まれた。四歳で米吉(二代目)を名乗り初舞台。大正5年4月、20歳で三代目中村時蔵を襲名している。
 時蔵の兄が初代中村吉右衛門、弟が十七代目中村勘三郎である。が、実は吉右衛門の上にもう一人兄がいた。初代時蔵の養子で長男の初代中村歌昇である。そして、初代時蔵が三代目歌六を襲名した時に、長男の初代歌昇に二代目中村時蔵を継がせている。が、二代目時蔵は一年後33歳で早世した。そこでその数年後に三男の米吉が三代目時蔵を襲名した。本当は初代歌昇すなわち二代目時蔵が長男なのだが、一般に出回っている播磨屋の系図では、長男を初代吉右衛門とし、三代目時蔵を二男に、十七代目勘三郎を三男にしている。錦之助も自著ではそれに従っている。
 時蔵は、大正14年3月26日、29歳で、豊田ひなと結婚した。披露宴は帝國ホテルだった。
 ひなは、当時19歳、時蔵より10歳年下である。元は赤坂の芸妓で、各界の名士が贔屓にする売れっ子だった。引く手あまたで、若手歌舞伎役者の時蔵に嫁ぐ際には、あちこちから反対の声が上ったという。だが、時蔵とのロマンスを実らせ、彼の求愛に応え、結婚した。そして、男、女、男、男、女と次々と子宝に恵まれていく。(初代吉右衛門の妻千代も元は浅草の名妓だった。が、こちらは男の子に恵まれなかった。)
 大正14年7月15日、長男貴智雄が生まれる。結婚して4ヶ月も経たずに生まれたということは、時蔵とひなは、今で言う「出来ちゃった結婚」ということになろう。
 昭和元年12月29日、長女和子が生まれる。
 昭和2年12月1日、次男茂雄が生まれる。
 昭和4年12月28日、三男三喜雄が生まれる。
 昭和6年3月26日、次女多賀子が生まれる。
 昭和7年11月20日、四男錦一が生まれる。
 錦之助がオギャアと生まれた時には兄三人、姉二人がいたわけだ。上から、7歳(男)、5歳(女)、4歳(男)、2歳(男)、1歳(女)の五人である。
 錦之助の後に、さらに妹が二人、弟が一人、ずっと後に妹が一人生まれるが、その生年月日も書いておこう。
 昭和10年9月20日、三女諄子が生まれる。
 昭和12年1月15日、 四女広子が生まれる。
 昭和13年4月23日、五男賀津雄が生まれる。
 昭和21年11月13日、五女正子が生まれる。
 これで打ち止めである。十番目の正子が生まれた時、時蔵51歳、ひな41歳であった。