伊藤大輔監督の東映作品の代表作としては常に『反逆児』が話題に上る。私は『反逆児』も傑作だと思っているが、『徳川家康』の方が作品的な完成度は高いと感じている。『徳川家康』を褒める人は少ないが、誰が何と言おうと、私の中では時代劇映画の最高傑作の一つである。『徳川家康』は、いわゆる娯楽時代劇ではない。主役が格好良く立ち回り、勧善懲悪によって観客の胸をすっと晴らしてくれる映画でもないし、ストーリーの奇抜さやリアルな斬り合いで、観客の度肝を抜くような映画でもない。あえて言えば、正統派の荘重な時代劇であり、封建的な人間のドラマである。2時間半近くに及ぶこの映画を軽い気持ちで観ると途中でぐったりして飽きてしまうかもしれない。だが、真剣になって最後まで観ると、現代に生きるわれわれの心に何か重いものをずっしりと感じさせてくれると思う。戦国時代の登場人物たちと心の奥底で通じ合えるものを感じさせてくれるのだ。
率直に言って、伊藤大輔監督の戦後の作品をいくつか観ると、私はそこにアナクロニズム(時代錯誤)のようなものを感じることがある。彼の映画は現代的な人生観やテーマを安易に時代劇に反映させて描いたものではない。むしろ、封建時代の武将や侍や女たちの生き方そのものに肉薄して、その特殊で極限的な人間のドラマの方から、現代に生きるわれわれに訴えかける手法をとっている。しかし、封建時代の武士やその一族たちの生き様、彼らの生と死の側に描写が密着しすぎて、何か独善的な表現意欲と彼特有の美意識だけしか感じないことがある。伊藤大輔は封建的な美徳を賛美しているのではないかと思うことさえある。
士族出身のこの監督には多分にそういう面もあったのだろう。彼が時代劇に執着したのも、武士道のような旧道徳に囚われている自分に対し、その是非を問いただそうとしたからなのかもしれない。彼は絶えず映画を作ることによって自己否定と自己肯定を繰り返し、その間を綱渡りしているようでもあった。伊藤大輔の時代劇映画は成功すると、濃縮された封建ドラマの中から人間の普遍的な本質が沸き出して、観る者に大きな感動を与えてくれる。彼の映画の特長は、時代劇という鍋の中に様々な人間を投げ入れ、ぐつぐつ煮立てて、エキスを抽出するといった映画の作り方にあったと思う。そこに登場する人物はすべて、現代の目から観れば、封建制度に束縛され、生きる道を定められた人間たち、簡単に言えば、宿命に生きる人間たちであった。しかし、現代人のわれわれとて、宿命とは言わないまでも束縛や制約を免れて生きることはできない。生き続けるには、束縛や制約を受け入れた上で、機に臨み決断を下して行動しなければならない。その意味では、封建時代の人間とそれほど変わらないのかもしれない。だから、彼らの生き方に人間的普遍性が付与された時には、現代人のわれわれにも強烈に訴えかける真実が伝わってくるのだろう。しかも、その生き方が極限状況にあって必死であればあるほど、強烈な感動をもたらすにちがいない。こういう映画作法は現代劇ではなかなか不可能なことである。極限的で特殊な状況がどうしても設定できないからである。伊藤大輔にとって時代劇とは、そうした極限状況の設定を可能にし、煮詰まって出てくる人間のエキスを映像化する表現手段だったと言えよう。『徳川家康』は、伊藤大輔のこうした映画作法が完全に近い形で成功した作品だった。(つづく)
率直に言って、伊藤大輔監督の戦後の作品をいくつか観ると、私はそこにアナクロニズム(時代錯誤)のようなものを感じることがある。彼の映画は現代的な人生観やテーマを安易に時代劇に反映させて描いたものではない。むしろ、封建時代の武将や侍や女たちの生き方そのものに肉薄して、その特殊で極限的な人間のドラマの方から、現代に生きるわれわれに訴えかける手法をとっている。しかし、封建時代の武士やその一族たちの生き様、彼らの生と死の側に描写が密着しすぎて、何か独善的な表現意欲と彼特有の美意識だけしか感じないことがある。伊藤大輔は封建的な美徳を賛美しているのではないかと思うことさえある。
士族出身のこの監督には多分にそういう面もあったのだろう。彼が時代劇に執着したのも、武士道のような旧道徳に囚われている自分に対し、その是非を問いただそうとしたからなのかもしれない。彼は絶えず映画を作ることによって自己否定と自己肯定を繰り返し、その間を綱渡りしているようでもあった。伊藤大輔の時代劇映画は成功すると、濃縮された封建ドラマの中から人間の普遍的な本質が沸き出して、観る者に大きな感動を与えてくれる。彼の映画の特長は、時代劇という鍋の中に様々な人間を投げ入れ、ぐつぐつ煮立てて、エキスを抽出するといった映画の作り方にあったと思う。そこに登場する人物はすべて、現代の目から観れば、封建制度に束縛され、生きる道を定められた人間たち、簡単に言えば、宿命に生きる人間たちであった。しかし、現代人のわれわれとて、宿命とは言わないまでも束縛や制約を免れて生きることはできない。生き続けるには、束縛や制約を受け入れた上で、機に臨み決断を下して行動しなければならない。その意味では、封建時代の人間とそれほど変わらないのかもしれない。だから、彼らの生き方に人間的普遍性が付与された時には、現代人のわれわれにも強烈に訴えかける真実が伝わってくるのだろう。しかも、その生き方が極限状況にあって必死であればあるほど、強烈な感動をもたらすにちがいない。こういう映画作法は現代劇ではなかなか不可能なことである。極限的で特殊な状況がどうしても設定できないからである。伊藤大輔にとって時代劇とは、そうした極限状況の設定を可能にし、煮詰まって出てくる人間のエキスを映像化する表現手段だったと言えよう。『徳川家康』は、伊藤大輔のこうした映画作法が完全に近い形で成功した作品だった。(つづく)