初めに断わっておくと本記事はお笑いコンビの爆笑問題とはまったく関係がありません。
ほとんどの人には関係ないことだと思いますが、10年ぶりに広辞苑が改訂されました。
ほとんどの人に関係ないと書くと、じゃあお前には関係があるのかということになると思いますが、まぁ自分にも関係のないことなんですけどね。
ただ、ある言葉の意味が大きく変えられ、そのことは自分的に大きな意味がありました。
今回の改定により意味が変えられた言葉とは他でもない「爆笑」です。
事の起こりは5年前の、誤って解釈されている日本語についてのネット記事でした(こちら)。
その記事の中で、自称「日本語の達人」である梅津正樹氏がいくつかの日本語の誤用を解説していました。
その一つが「爆笑」についての解説だったのです。
梅津氏は「爆笑」をこう解説しています。
>:「爆笑」は「大勢でどっといっせいに笑うこと」を意味するため、「一人で」の後ろには使えません。
自分はその解説を読んで、違うだろう、と思いました。
「爆笑」に人数は関係ない、重要なのは笑い方だろう、そう思って次のような記事を書きました(こちら)。
記事を書いた当時はほとんどの人から無視されました。
まぁそれも致し方ないことかもしれません。
何しろ自称「日本語の達人」だけでなく、広辞苑でも「爆笑」は「大勢が大声でどっと笑うこと。」と説明されていたからです。
天下の広辞苑に逆らって、「爆笑」に人数は関係ない!と主張するのは、天に唾するような行為と受け止められたのかもしれませんね。
しかしあれから5年の時が経ち、広辞苑は改訂され、現在「爆笑」という言葉を用いるのに人数を限定する必要があると考える国語学者は(おそらく)いません。
自分の主張は100%正しく、その一方で梅津氏の解説と広辞苑の説明は間違っていたということになります(詳しくはこちら)。
梅津氏は件の記事でこう述べています。
「日本語を使って正しく伝え合うためには、お互いに言葉の正しい共通認識を持っておくことが必要」であり、
「そうあることが、社会人としての最低限の常識」だと。
互いに言葉の正しい共通認識を持つことが社会人としての最低限の常識とまで言い切ってしまう梅津氏が、自らの言葉の解釈の誤りに対してどう考えるのか非常に興味があるところですが、自分の調べた限りでは梅津氏が特にそのことに関してアクションを起こしたということもないようです。
言葉の正しい認識を持つ持たない以前に、もっと重要なこともあるのでは、と思わずにはいられません。
ほとんどの人には関係ないことだと思いますが、10年ぶりに広辞苑が改訂されました。
ほとんどの人に関係ないと書くと、じゃあお前には関係があるのかということになると思いますが、まぁ自分にも関係のないことなんですけどね。
ただ、ある言葉の意味が大きく変えられ、そのことは自分的に大きな意味がありました。
今回の改定により意味が変えられた言葉とは他でもない「爆笑」です。
事の起こりは5年前の、誤って解釈されている日本語についてのネット記事でした(こちら)。
その記事の中で、自称「日本語の達人」である梅津正樹氏がいくつかの日本語の誤用を解説していました。
その一つが「爆笑」についての解説だったのです。
梅津氏は「爆笑」をこう解説しています。
>:「爆笑」は「大勢でどっといっせいに笑うこと」を意味するため、「一人で」の後ろには使えません。
自分はその解説を読んで、違うだろう、と思いました。
「爆笑」に人数は関係ない、重要なのは笑い方だろう、そう思って次のような記事を書きました(こちら)。
記事を書いた当時はほとんどの人から無視されました。
まぁそれも致し方ないことかもしれません。
何しろ自称「日本語の達人」だけでなく、広辞苑でも「爆笑」は「大勢が大声でどっと笑うこと。」と説明されていたからです。
天下の広辞苑に逆らって、「爆笑」に人数は関係ない!と主張するのは、天に唾するような行為と受け止められたのかもしれませんね。
しかしあれから5年の時が経ち、広辞苑は改訂され、現在「爆笑」という言葉を用いるのに人数を限定する必要があると考える国語学者は(おそらく)いません。
自分の主張は100%正しく、その一方で梅津氏の解説と広辞苑の説明は間違っていたということになります(詳しくはこちら)。
梅津氏は件の記事でこう述べています。
「日本語を使って正しく伝え合うためには、お互いに言葉の正しい共通認識を持っておくことが必要」であり、
「そうあることが、社会人としての最低限の常識」だと。
互いに言葉の正しい共通認識を持つことが社会人としての最低限の常識とまで言い切ってしまう梅津氏が、自らの言葉の解釈の誤りに対してどう考えるのか非常に興味があるところですが、自分の調べた限りでは梅津氏が特にそのことに関してアクションを起こしたということもないようです。
言葉の正しい認識を持つ持たない以前に、もっと重要なこともあるのでは、と思わずにはいられません。