この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

『本能寺の変』について。

2006-01-10 23:18:48 | 雑事
明智光秀について語ったついでに、日本史における最大のミステリーともいえる『本能寺の変』についても自分なりの考えを述べてみたいと思います。
(あくまで事実二割、想像八割で書いていることなのでその点はご留意ください。)

『本能寺の変』ほど謎に包まれた歴史上の出来事はない、そういっても過言ではないでしょう。
『本能寺の変』がなぜ起こったのか、その真因については諸説あります。
なぜこうも諸説入り乱れているかというと、未だに誰一人として『本能寺の変』を筋道立てて説明できないからであり、なぜ筋道立てて説明できないかというと『本能寺の変』に関わる人々の行動がことごとく筋が通っていないからです。

まず、本能寺の変』を起こした張本人である明智光秀ですが、彼がなぜ主君である織田信長を弑したのか、それは直接的には何らかの恨みがあったからでしょう。これは特に疑問でも何でもありません。
明智光秀に関して疑問であるのは、彼がなぜ逆賊の汚名を着たのか、その点においてです。
自分が明智光秀の立場なら、織田信長を本能寺で討ったあと、適当に犯人を仕立て上げます。敵対する諸大名や一向宗徒などことごとく討ち滅ぼしてきた信長ですから仇には事欠かきません。
そしてすべての罪をその幻の本能寺襲撃犯に押し付けて、対外的にはこんな声明を発表します。
武田の残党が殿を狙うとの一報あり、急ぎ本能寺に向かえど、我らが到着した時には本能寺はすでに火の海であった、本能寺を襲いし武田の兵はすべて我らの手により捕獲、斬首せり・・・、とか何とか適当にシナリオを作っちゃえば、作ったもん勝ちだと思うんですが。歴史ってそういうふうに作られてきた一面を持つのは否定しえない事実ですから。
そうしておいて織田信長の後継者として名乗りを挙げれば、ライバルを一歩も二歩もリードできたはずなのに、どうしてむざむざ逆賊の汚名を着たのか、まったく理解できません。

さて理解出来ないといえば『本能寺の変』が起きた時点での豊臣秀吉の行動も同様です。
史実では、高松城を包囲していた秀吉は『本能寺の変』のことを知ると、毛利氏と急ぎ和睦を結び、いわゆる『中国大返し』と呼ばれる強行軍ののち『本能寺の変』からわずか十一日後の『山崎の戦い』で光秀を討ち破っています。
しかしながら、この十日間余りの秀吉の行動も首をひねらざるをえません。
まず忘れてならないのが、そもそも『本能寺の変』で信長を討った光秀が率いていた軍は高松城攻略に攻めあぐねていた秀吉が信長に要請した援軍だったということです。
つまり、高松城の攻防戦において有利であったのは毛利側だったはずなのです。
戦いを有利に進めていた側が敵からの和睦の要請に応じるはずがありません。
逆に毛利側が簡単に和睦に応じたことが動かしがたい事実であるならば、戦況は秀吉側にとって極めて有利であったということになり、今度はなぜ援軍を要請したのかが説明出来ません。
いずれにせよ筋が通りません。
さらに秀吉はどうやって『本能寺の変』のことを知りえたのでしょうか?
一説には光秀が毛利側に送った密書からそのことを知ったとされますが、仮に本当に光秀が毛利側に密書を送ったとして、さらにそれを運良く秀吉が手に入れたとして、秀吉はどうしてそれが本当に光秀によるものだと思ったのでしょう?
極端な話、それは高松城開放を画策する毛利側による偽装工作である可能性も否定できないのですから。
というより、主君の死を知らせる手紙の内容をあっさり事実であると受け入れてしまう秀吉の心情が自分には理解できないのです。
普通だったら敬愛する主君の死の知らせなんて、何が何でも否定する、それが人としての情というものではないでしょうか。
にも関わらず実際には秀吉は密書の内容をまったく疑うこともなく受け入れ、高松城の包囲を解くと、毛利側と和睦を結び、あっさりと兵を取って返しています。
このときの秀吉の行動と決断は二重三重の意味で不可解に思えます。
ただし、秀吉が事前に『本能寺の変』が起こりうることを、つまり光秀が謀反を起こすであろうことを知っていたならば話はまったく別です。

話を光秀に戻すと、なぜ彼が逆賊の汚名を着たか、その答えは一つしかないように思えます。
つまり彼には、天下を取ろうなどという意志など毛頭なかった、織田信長の天下取りさえ阻止できればあとはどうでもよかった、そう考えるとすべての辻褄が合います。
織田信長は室町幕府を滅ぼしたという点で、戦乱の世の最大の逆賊です。さらに信長は一向宗二万人をことごとく弑し、浅井長政や朝倉義景や頭蓋骨に漆を塗って髑髏杯を作ったといわれるほど残酷な性格の持ち主でもあります。
光秀の胸の奥には、個人的な恨みもですが、何よりそのような人物に天下を取らせてはいけない、そういう思いがあったのでは、自分にはそう思えるのです。
そして中国地方遠征に出立する秀吉にだけ、その胸のうちを伝え、こんなことをいったのではないでしょうか。
逆賊が天下を取ることなぞあってはならぬこと、ゆえに殿を弑したあとは貴殿が拙者を討つがいい・・・。
もちろん秀吉が真の忠臣であればその旨を信長に伝えたでしょうが、彼は戦乱の世の最大の策略家です。自らが天下人になれる唯一のチャンスを見逃すはずがありません。
そうして光秀は本能寺で信長を討ち、『本能寺の変』の報を耳にした秀吉は迷うことなく兵を取って返し『山崎の戦い』で光秀を討った、何一つ証拠などないのですが、そう考えると『本能寺の変』における不可解さや矛盾のようなものはほとんど消えます。

今述べたことはいうまでもなく一人の歴史好きの戯言に過ぎません。でもこういうふうに想像を巡らすことに歴史を学ぶことの面白さがあるんじゃないかって勝手に思っています。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする