ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤周一著 「羊の歌ーわが回想ー」 岩波新書 上下(1968年)

2018年11月07日 | 書評
憲法九条の会 大江健三郎氏(左)と加藤周一氏(右)

雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意するまでの半生記 第20回 最終回

38) AA作家会議
1958年10月中央アジアのタシュケントで第2回アジアアフリカ(AA)作家会議が行われた。ニューデリーでの第1回AA会議には日本から堀田善衛氏が参加され、第2回は伊藤整氏が日本代表であった。その国際準備委員会に語学力を買われ、1か月前から私が参加した。私はそれを機会に中央アジアとソ連邦を見たいと思い、一人で準備員会に参加した。インドのニューデリーで飛行機を乗り換えタシュケントに着陸した。機上からはパンジャブの緑野を過ぎ、パキスタンの山岳地帯からアフガニスタンの岩山が続くのを見た。中央アジアの無慈悲な自然、過酷な遊牧生活の歴史の果てに現在のタシュケントが目の前に現れた。当時定期便はソ連機しかなかった。第一印象は万事がヨーロッパと変わりなかった。私の計画は、ソ連の周辺に過ぎないタシケントからウズベキスタンを見学しインドの地方共産政権(ケララ州)を見て、そしてユーゴスラビアという「社会主義国の周辺」の比較見学であった。それは後に「ウズベック・クロアチア・ケララ紀行」という本になった。準備委員会の代表は、インドと中国から二人、モンゴル、タイ、ビルマ、カシミール、アルジェリアからも加わった。事務局はモスクワ作家同盟の書紀と3人の通訳であった。事務局の仕事は、宿舎、の割り当て、食事の手配、招待状の配布など事務的なものであった。途中でアルジェリア臨時政府の成立があってその政府を全面的に支持する声明の問題があった。私は大会決議に任せるべきだと主張した。また台湾沖の金門島砲撃での米中衝突問題の米軍即時撤退要求声明もアルジェリア臨時政府支持声明と同じ扱いとなった。作家会議が始まると、会議は魂の接触ではなく声明の連発となった。会議が終わると、私はタシケントの首都トゥビリッシを訪れ、モスクワからレニングラードを往復した。会議終了後直ちに東京へ戻らず、ヴィーンで過ごした。それからユーゴスラビアを見物し、ギリシャを通りインドに行った。インドの貧困は目を蓋わんばかりであった。

39) 死別

一人の友人の死を悼んだ一節です。誰だとか書いてませんので特定できませんが、自分の分身との別れをもじっったフィクションとも取れますが、根拠はありませんので、その通りに志を同じくする東京に住む20年来の友人の死と理解します。恐らく末期がんで手の施しようもなく亡くなったようです。それが加藤氏には覚悟の上の病気の放置と見えたのでしょう。多くの物事の間に一種の関連が見えはじめ、そのことが自分自身の自覚とつながった矢先の死、そして仕事の準備をようやく終わった男がその仕事を始める前に死ぬのである。彼は欧州で彼女に会い恋に夢中になった。しかし東京に残した家族を捨てるつもりはなかった。強い責任感が恋愛を友情に変えたつもりでいた。激しく彼は傷つき、苦しんでいたに違いない。どういう犠牲を払ってまで生きていることは良い事だと思えるかと疑問に潰されたのではないか。「学徒出陣」でも「安保反対」でも権力に対して無力であったように、彼の死後私は再び東京を離れた。どこで働こうがやることは同じことだと思うようになり、新しい職があって海外に出ることになった。

40) 審議未了
本節で「羊の歌」は終わる。1960年の安保改定騒動の中で、加藤氏は日本を離れたのである。1月日本政府は米国に出向いて新安保条約に調印した。新旧の条約の違いは次の3点である。政府の趣旨説明によると、①旧安保条約はサンフランシスコ講和条約調印とセットになっており、引き継いで米軍の駐留を可能ならしめる、日本にとって選択の自由がない占領期最後の条約であった。1960年安保は独立国日本が自ら進んで結ぶ日米軍事同盟である。②新条約は無限定から10年の期限として、米軍の日本駐留と日本国防衛の責務を明文化した。そして日本から米軍が動く際に「事前協議」を必要とする一項を付け加えた。③日本側は自国の防衛力強化を約束した。米軍基地に関する「地位協定」は米軍の軍事行動に制約を加えるものではないが、NATO並みの慣習に近いものである。政府は主に②と③を強調し日本側の地位の向上に努めたとしたが、反対側では①の軍事同盟は違憲である、軍備費の増大、アメリカの戦争に巻き込まれると言って反対闘争を組織した。加藤氏の見解は、安保条約は改定するより廃止すべきであると考えた。野党側は「国会を解散して民意を問え」といったが、政府自民党は5月19日衆議院に警察官を導入し、反対議員を排除して新安保条約を可決した。ここから参議院での審議未了による自然成立までの国会前の闘争が神原美智子さんの死を乗り越えて拡大した。この闘争で知識人をリードしたのは丸山真男氏であった。60年安保で多くの事を学んだのは権力側で、池田内閣の低姿勢と所得倍増論を柱とする高度経済成長路線が功を奏し闘争は鎮火した。1960年は私にとって、戦後の生活の結論の年であり、またその後の生活への出発点の年でもあった。

(完)



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