ブログ 「ごまめの歯軋り」

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小林秀雄全集第3巻「おふえりあ遺文」より「マルクスの悟達」

2006年10月11日 | 書評
「マルクスの悟達」および「文芸批評の科学性に関する論争」

 この「マルクスの悟達」と「文芸批評の科学性に関する論争」は共に小林秀雄一流のプロレタリア文学運動への揶揄嘲笑である。もちろんプロレタリア文学は日本のか弱きお坊ちゃまインテリが始めたお遊びみたいなものだから理論も実践も伴わない未熟な状態であった。昭和初期は大正民主運動も不発に終わり軍部が昭和維新を掲げて1917年に起きたロシア革命から日本を守ると称して日本の共産主義を圧殺にかかり始めた時期でもある。小林の目にはプロレタリア文学運動があまりに稚拙に映ったのであろう。叩き潰すには容易すぎた。しかしその方向は政府・軍部と機を一にしている。戦後日本の共産主義が復興してきた時小林は利口にも口をつぐんでまったく発言していない。小林のずるいところは弱いものいじめにある。弱いものを軽蔑し強い人格には尊敬をする態度は一生一貫している。小林秀雄のカリスマ性の秘密でもあり、小林に怖れ伏した信奉者が盲従しているこのあたりに貴族趣味の小林秀雄の面目躍如たるものを見なければいけない。私は小林秀雄から不純なものは排除し、排除してもなお残る優れた点に小林秀雄の真価を見つけてゆきたい。

 さて本論に戻るが、私は戦前のプロレタリア文学運動たるものはついに成立しなかったし、戦後も成立したとは思えない。この文章のテーマは「文芸批評に科学性があるかどうか」ということであった。批評の対象となった平林初之介氏と大森義太郎氏は日本のプロレタリア文学理論家とマルクス主義学者である。小林秀雄の見解は「今日まで批評が綿々として続いてきたのは、批評に科学性があったからだ」とした。平林氏の弱気発言と大森氏の正論、小林氏の証明なしの断定論いずれも今日から見れば目くそ鼻くそのけんかにもならない代物だ。逆に小林氏の見解である批評の科学性なんていまでは誰も取り合わないだろう。科学という言葉の定義からやり直しだ。所詮論争とは定義を曖昧にして出発した舟のようなものでご都合主義にどちらにでも流れ着く手合いのものだ。けんかを売ることで男を挙げてきた小林氏の得意とするとこるである。そしてマルクスやエンゲルスは文学については全くノーコメントで最後の判定者ではない。マルクスは「資本論」に見るように経済的機構を、エンゲルスは「自然弁証法」に見るように科学と哲学を分担したことは自明であり、何も小林氏のお粗末な解説をいただかなくても分かっている。誰も文学論は語っていないのだから、プロレタリア運動はあってもついにマルクス主義文学理論は成立しなかった。脚のない幽霊に石を投げるようなものだ。誰を利す為に?



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