ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男著 「妹の力」 角川ソフィア文庫

2018年05月23日 | 書評
我国の民間信仰・神話において、シャーマニズム(巫術)の担い手であった女性の役割を考える 第7回 最終回

10) うつほ舟の話
 大正15年4月の「中央公論」に掲載された。「うつぼ舟」漂着伝説から、我国固有の霊魂観を明らかにした。うつぼ舟は天竺・震旦の高貴な姫君や王子がうつぼ舟に入れて流されたのが漂着したという話しで、その子孫を名乗る九州の原田一族、備前の宇喜多氏、周防の大内氏などが存在する。大内氏は百済の琳聖太子の子孫であるという。また神社の縁起にも、大隅正八幡宮の母神は震旦国陣大王の娘比留女、若宮は太陽で共にうつぼ舟に載せられて大隅海岸に流れ着いたという。日本書紀には少彦名神が豆殻の船にのって出雲の海岸に流れ着いたという記事がある。これらの神の子の乗り物がうつぼ舟という中空の容器であったことが共通点である。容器には桃の実、竹の幹、鶯の卵、瓜の実などいろいろな説話が存在する。中でも面白いのが瓜類の瓢箪である。瓢箪は酒、水の容器であったばかりか霊魂の入れ物でもあった。ほとぎ(壺)や木箱、輪っぱもの、臼も魂の入れ物だった。水子を流した葦舟もうつぼ舟の一種であった。こうして霊を流す習俗には疫神や怨霊を流す神送りの信仰があるなど、話はとどまることなく広がってゆく。

11) 小野於通
 大正14年5月の「文学」に掲載された本論は巫女論というよりは、口承文芸の伝達者としての遊行女婦の出自を論じたものである。同名異人の小野於通の伝説は全国に多く存在する。共通項は於通が美人であること、才女であり、遊行して歌を詠み物語を語ったという点である。とくに三河鳳来寺に縁のある浄瑠璃姫12段草紙ではあきらかに語り部としての小野於通の後裔であろう。このような女性で遊行する語り部は、古代では神の霊験を語り、中世には霊物の因縁を語ったのであろう。ここから路上で於通の手紙を朗読する「文ひろげの狂女」千代女も出た。この職業は盲女に受け継がれ、東北地方のイタコや瞽女となり、一方では浄瑠璃語りを生んだとされる。和泉式部伝説と並んで小野小町伝説もこうした遊行女が語ったに違いない。そうして小野於通と小野小町に共通する小野氏とはどういう由来なのだろうか。小野氏は全国の神社に散在する。太宰府天満宮の三宮司の小野三家、四天王寺太子殿に仕える秋野坊の小野氏、日光二荒山の小野氏、豊後佐賀関の早吹神社の小野氏、横山氏、小野寺氏、小山、緒方氏も元は小野氏の出である。全国に分布した小野氏の本貫は近江で、語り部の司だった猿媛氏と婚姻関係が多かった。これが小野氏が神や霊験を語りながら全故国を遊行する小野氏を名乗る女性を輩出した原因である。本章は小野於通に関する矛盾した伝説を、語り部の女性という職業で説明した論文となった。

12) 稗田阿礼
 昭和2年12月に「早稲田文学」に掲載された。前章の小野於通の続編と言うべき位置の論文で、小野氏と結んだ猿媛氏から出た稗田阿礼は女性の語り部だったことを論証した。猿女氏は天鈿女の子孫として、女系相続で神楽と鎮魂の朝儀に奉仕した。猿女三人を差し出して縫殿寮に所属した。猿女の養田が小野氏の本貫に近い和邇村にあったため、小野氏と猿女氏の堅い婚姻関係を生じ、「猿女小野氏」ともいうべき一派が全国に猿丸太夫の旧伝をもって散在した。日光二荒山神伝に「神を助けた猿」に現れる。猿女氏は神楽を伝えるとともに、猥雑な猿舞を行うことで有名で、猿楽もこれから派生したと言われる。また猿回し(猿曳)芸の宗家である紀州貴志の小山氏もこの流れであった。稗田阿礼が語り部の女性であったことを井上頼圀の「古事記考」より引いて、また彼女が猿女氏の出であったことを「弘仁私記序」の注から導き、我国の口承文芸の保存と伝播に彼女の一派が参加していることを明らかにすることが目的である。

(完)


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