癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

奥州街道(奥州道中)歩き旅〈2日目〉88鍋掛宿~91喜連川宿(33km)7時間35分 分

2019年11月02日 | 登山・旅行
 朝から快晴に恵まれ、絶好の歩き旅日和だった。
 黒磯駅から昨日のゴールの鍋掛十文字に戻るバスの始発が8:45である。
 仕方ないので、それに合わせて計画段階で歩く距離も短くした。
 昨日の夕食が遅かったので朝食は食べずに、西那須野駅発8:20の電車に乗った。


 黒磯で可愛いバスに乗り換えて、9:14に鍋掛十文字に着いた。バスは公営バスのようで、距離に関係なく200円。JRは240円。
 こんなに遅いスタートは、これまでの歩き旅で初めてだ。しかし、距離が短くしたので余裕のはずだった。

 ところが、昼食タイムのときに、計画の中に佐久山宿が入っていないことに気付いた。大田原宿から約8kmが抜けていた。
 悪いことは続くもので、大田原宿を抜けるときに交差点で道を間違えて、別の方へ進んでしまった。
 結局2.5kmほど余計に歩いてしまった。それでも、なんとか明るいうちに宿に入ることができた。

 今日から3連休で天気も良かったせいか、反対側から歩いてくる奥州街道歩きの人に5組6人に会った。
同じガイド本を持っている人もいて、その本をお互いにかざして挨拶をした。
 
88鍋掛宿~89大田原宿

 9:15、鍋掛十文字をスタート。すでに宿場の中心街は過ぎていた。ひたすら県道72号を進む。


 「鍋掛の一里塚」~もとは愛宕峠の頂上付近にあったが、道路改修によって、両塚が消滅。
 北塚が鍋掛神社の擁壁の上に復元されている。江戸から40里目。


 今日は、右手に三百名山巡りで登った那須岳(上)の高原山(下)を眺めながらの歩きだった。


 「中田原の一里塚」~西塚だけ残している。道路拡張で1.5m後方に移設されている江戸から38里目。


 「与一みそ那須の風味」の醸造元の「岩上商店」

 
 蛇尾川に架かる蛇尾橋。当時は橋が流失すると人による「渡渉渡し」となり、天保3年(1832年)から船渡しとなった。
 この橋を越えると、大田原宿に入っていく。

89大田原宿~90佐久山宿
〈大田原宿〉
・人口1428人、家数245軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒
※この記録は、昨日も明日もすべて、天保14年(1843年)の奥州道中宿村大概帳による。
・室町時代にこの地を支配していた大俵(たいひょう)氏が前室山に城を築き本拠とした
・この時、姓を大田原氏と改め、前室の地名も大田原に改めた


 大田原市の市街地に入っていくと、大きな交差点に立つ「金灯籠」が目を引く。
 文政3年(1819年)鋳造の灯籠は戦時中に供出され、現在のものは昭和54年に鋳造されたもの。
 台座は当時のもので「江戸」「白川」と刻まれ、「塩原道」との追分道標でもあった。


 宿場の中心街に設置されている「幸矢の与一像」

 
 宿場の現在の商店街。宿場の面影を残すものはない。


 何度も行ったり来たりして、ようやく見つけた「本陣・問屋・高札場跡」のちいさな説明板

 
 昼食に中華料理店で食べたお得な日替わりランチ(700円)。この時、すでに道を間違えていた。
 20分ほど歩いてから、正規の県道48号に戻って、佐久山宿を目指す。

 
 途中の親園地区にある「与一の里名木選 国井宅の赤マツ」~樹齢約束200年。
 この地区は、塀を回した大きくて立派なお屋敷が並んでいた。


 箒川に架かる岩井橋~渡渉渡しであったが、のちに箒川土橋が架橋された。
 この橋を渡ると、佐久山宿へと入っていく。
 
90佐久山宿~91喜連川宿

・人口473人、家数121軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒
・この地は那須与一で有名な那須氏発祥の地である
・同族の福原氏に攻められて滅亡し城は廃城、その後福原氏の居城となる


 橋を越えてまもなく現れる「島崎酒造」~天明5年(1718年)創業。銘酒「友白髪」の蔵元。

 
 「御本陣井上勘左衛門跡」~標識がないので薬局で教えてもらった。右の平屋が末裔とのこと。


 「御菓子司小島屋」~安政2年(1855年)創業。銘菓「勘兵衛饅頭」の老舗(上)、購入した「勘兵衛饅頭」~こしあん、つぶあん、しろあん各110円。

 このあとは、ひたすら田園地帯の中の県道25号の歩きとなる。


 やがて、南和田地区から、2km弱の珍しい自然道の旧道に入る。
 山の中を抜けるが、掘れていて旧道然としているのがうれしい。


 内川に架かる金竜橋を渡る。常は橋渡しだったが、流失すると蓮台渡しとなった。
 ここを越えると、喜連川宿に入っていく。
 
91喜連川宿

・人口1198人、家数290軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒
・この地は古に狐川と称していたが足利氏藩主となり喜連川に改名した
・喜連川藩足利氏は家康により優遇措置を受けていた


 「旧萬屋」~現「ささや呉服店」創業以来250年の呉服店。


 「本陣跡」~現「街の駅本陣」上野太郎兵衛が勤め、問屋を兼ねていた。
 現在の建物は、大正15年築の旧喜連川警察署。

 
 「脇本陣跡」~現「割烹芳川」。永井家が勤めた。


 「旧旅籠」~現「かぶらぎ時計店」。「旅籠屋山田屋徳平」跡。


 今日のゴール、荒川に架かる「連城橋」。この手前から荒川の堤防の上を10分ほど歩いて16:50、宿に到着。


 今日の宿「民宿ゆもと」(左)と向かいの公営温泉「もとゆ」。宿でもらった札を持参して無料で温泉へ。

 
 2食付きで5500円とは思えないほどの料理に感激。
 どの料理も非常に美味しかった。探せばあるものだ。


奥州街道(奥州道中)歩き旅〈1日目〉84白河宿~88鍋掛宿(34.2km)8時間05分

2019年11月01日 | 登山・旅行
 いよいよ3回目の奥州街道歩き旅スタート。今回は、幕府直轄の奥州道中が舞台となる。宇都宮から江戸までは日光街道とダブルので、宇都宮宿を奥州街道の仮のゴールとして、日光街道へと繋げたい。

 郡山のカプセルホテルを出て、郡山駅発6:20に乗る。6:55白河駅到着。ここから、今回の歩き旅が始まる。
 白河宿から芦野宿手前までは国道294号歩きだが、所々に旧道と当時からの集落が残っている。
 芦野から今日のゴールの鍋掛宿までは県道72号がメインの歩きだった。
 
 ガイド地図があるお陰で、GPSは距離を計るだけ、スマホの地図も見る必要はなくなった。
 また、見落としも少なくなったが、説明が詳しいので、撮る写真がどうしても多くなる。100枚位にもなっていた。
 ブログには作業の関係で30枚位と決めているので、厳選するのが大変だったし、時間も多く要する。
 泣く泣く削り、宿場中心の写真ばかりとなってしまうのが残念だ。
 その後、ブログ用にリサイズする作業に取り掛かる。
 おまけに、ブログへの画像のアップロードが、なぜか一括でできなくなり、1枚ずつアップロードするために非常に時間が掛かるようになった。

84白河宿~85白坂宿

〈白河宿〉
・人口5959人、家数1285軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒
・徳川幕府の道中奉行の管轄下にあった奥州道中は白河が最終の宿駅であった
・鎌倉時代には結城氏が小峰城を築いて支配していたが秀吉の奥州遠征で滅ぼされる
・徳川幕府は関東の境にあたることから松平定信など各譜代大名を配置した


 7:00、前回見落とした「白河本陣芳賀家跡」。今は堀川印刷所になっている。駅からここまで戻って、改めてスタートした。

 
 皇徳寺の墓地にある「小原庄助の盃形墓石」。盃でなく徳利でない?


 城下町特有の枡形。敵の進攻に備えて鉤型の道にしてある。


 松井薬局~文久年間(1861~64年)創業。
 近代的な商店街に、このような、江戸時代から明治期に建てられた建物が点在している。


 天保元年(1830祢年)創業の味噌醤油醸造店「藤屋」
 

 宿場の出口の松並で左にカーブする。ここには街道の右と左に戊辰戦争の戦死者の碑や墓が立っている。
 白河は、1868年4月末から5月始めにかけて、会津・仙台・棚倉の東北連合軍が攻めてきた薩摩・長州・大垣(美濃国)の官軍を迎え撃った激戦地となった。
 東北連合軍が敗退、小峰城も落城した。
 手前が会津藩士の墓。奥の鎮魂碑には両軍の戦死者304名の名前が刻まれている。
 
 ここの手前にも古戦場跡があり、稲荷山公園となっている。
  
85白坂宿~86芦野宿
〈白坂宿〉
・人口289人、家数71軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒
・雨が降っても傘いらずといわれたほど昔は軒が並んでいた

 宿場町の歴史を大切にした町造りが進められ、案内板等も充実していた。 

 本陣跡の説明板


脇本陣跡の説明板


 宿場の両側に、このような当時の旅籠や店などの屋号が、ずっと連なっている。


 白坂宿の江戸側の入口から街並みを振り返る。


 ここに旅宿道の分岐があり、「白河の関へ7.5km」の案内板(左)と「おくのほそみち」の道標が立っていた。
 芭蕉は、ここから白河の関跡へ向かったそうだ。「白河の関」は奥州街道よりもっと古い東山道の関所。

 白坂宿を抜けて緩い上り坂の峠部分が、当時の陸奥国(白河藩)と下野国(黒羽藩)の境界になっていた。
 今の福島県と栃木県の境界でもあり、長かった東北の歩きから関東に入る。


 「白河二所之関趾」碑。ここに茶屋があった。


 峠を挟んで、「従是北白川領」領界石(左)、今の栃木県那須町の標識(右)


 峠を挟んで建つ「境の明神」。上が下野側の「玉津島明神」、下が陸奥側の「住吉明神」


 山中集落の「明治天皇山中御小休所碑」~鈴木家


 「泉田の一里塚」~西塚だけが残っている。江戸から44里目、下野国
最北端の一里塚。

 
 途中の間の宿・寄居の松本家の屋敷跡。問屋を勤め、寄居西組の名主も兼ねていた。

86芦野宿~87越堀宿

〈芦野宿〉
・人口350人、家数168軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
・神田明神下の旗本芦野氏の支配下の領地で宿の東側に桜ヶ城があった
・芦野氏は鎌倉時代からの地頭であり那須七騎の一家としてこの地を治めていた

 ここも、宿場の名残を残そうとする街並み造りの意気込みが感じられる。


 宿場の面影を残す芦野宿の街並み


 臼居本陣跡~今は「ストーンプラザ」


 この宿場も当時の旅籠や店などの屋号を設置している。

  
 現鰻料理店。「旅籠丁子屋」跡で八畳二間の「安達家蔵座敷」を残している。

 街道から外れたところにある国指定名勝「遊行柳」に寄るのを忘れてしまった。気づいた時には戻るのが大儀な距離だった。
 時宗開祖の遊行(一遍)上人の使い古した柳の杖が根付き芽吹いたという。西行、芭蕉、蕪村の句碑がある。

 芦野宿と越堀宿の間は、やけにアップダウンが多いと思ったら、当時は「二十三坂七曲り」と呼ばれる難所だったそうだ。

 「寺子の一里塚」~公園内に復元されている。江戸から41里目。

87越堀宿~88鍋掛宿

〈越堀宿〉
・人口569人、家数113軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒
・1646年、奥州道中の他の宿駅よりもかなり遅く解説された
・参勤交代で仙台藩の伊達候が那珂川の川留めに遭って小屋を建てたのが宿場の始まり


 越堀宿へ入っていく。


 越堀宿の北口に立つ「此の地奥州街道越堀宿枡形の碑」。枡形の痕跡を残している。


 本陣跡。現「町田屋商店」~「御本陣藤田平治次」跡。建坪は117坪だった。


 昭明橋の上から那珂川を眺める。この橋の下に渡し場があった。

88鍋掛宿

〈鍋掛宿〉
・人口346人、家数68軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠23軒
・1600年、上杉征討の徳川軍の先鋒、水谷勝俊らが鍋掛に陣したとの記録がある
・難所那珂川を控え、越堀宿と二宿で一宿の機能を果たした。川留めのときには大いに賑わった。

 越堀宿からわずか1.1kmしか離れていない。
 宿場の面影を残すものは何もない。今でも小さな集落である。


 鍋掛宿の入口


 八坂神社。境内に芭蕉の句碑がある。この辺りが宿場の中心だったようだ。


 15:05、今日のゴール、鍋掛十文字バス停。このあとバスに乗り、黒磯駅から西那須野駅まで移動。


 16:30、今日の宿、ホテル和島屋に到着。素泊まり5170円。大浴場があり、広い和室で気持ちが良い。
 
 今日の朝食はコンビニでコーヒーとカップラーメン、昼食は芦野宿の入口の食堂でチャーハン、夕食はこれから近くのコンビニへ。
 20:40、いろいろ手間取ってようやくブログアップ完了。