癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

甲州街道歩き旅〈3日目〉15与瀬宿~26大月宿(34.3km)8時間40分

2019年11月11日 | 登山・旅行
 昨日調子の良いことを書いて、宿を出たら雨だった。駅まで折り畳み傘で行って、電車の中でカッパを着た。
 ところが、相模湖駅へ下りたら、雨が止んでいた。晴れ男の面目躍如。
 しかし、最後の40分は小雨に見舞われた。傘だけで間に合ったが、その後どしゃ降りになったので、非常にラッキーだった。

 今日は、宿場間の距離が短く、10宿も抜けた。ところが、平野部はまったくなく、地形の関係か、くねくねとしたアップダウンの多い坂道ばかりだった。
 おまけに犬目宿は標高520mもの高地にある。昨日の小仏峠よりずっと高い。
 そこまでアップダウンを繰り返しながら登っていくので、今回の歩きで最もキツかった。平坦な道もなければ、まっすぐの道もない。
 しかし、そのせいか国道歩きが少なく、旧道歩きが非常多かった。地元の案内標識は、それを「甲州古道」や「旧甲州街道」と表している。

与瀬宿~関野宿
15与瀬宿
・JR相模湖駅付近が与瀬宿であった。相模湖駅も元々与瀬駅として開業している。
・鮎が評判の宿であったらしい。小原と合宿で江戸方向へのみ継ぐ。
・古い家はほとんど残っておらず、髙尾山、相模湖などの行楽の基地に変貌している。
・本陣1、旅籠6 小原宿より19町、約2km

 5:35の電車で相模湖駅まで移動。カッパを脱いで、6:00に与瀬宿の駅前通りをスタート。


 5分ほどで「坂本本陣跡」~敷地と築山を残していて、その築山に「明治天皇與瀬小休所址」の石碑が立っている。


 まもなく、国道20号と別れ、狭くて急なアップダウンを繰り返す道となる。


 吉野宿へ下りていく道を間違えたところから眺めた相模湖。昭和22年の相模ダムによる人造湖。

吉野宿~関野宿
16吉野宿
・国道20号線沿いの宿になっていて、交通量がかなりある。
・明治29年に12月に大火があり本陣も含めほとんど焼失してしまった。いくらか古い家も残るが大火後の建物になる。
・長谷川伸の「関の弥太っぺ」の舞台になった。
・与瀬より 34町28間(約3.7km)本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒


 通りすぎてから撮った右の「旅館ふじや跡」(現藤野町郷土資料館)と左の「吉野本陣跡」~(明治天皇聖蹟碑が立つ)往時は五層楼閣の偉容を誇ったらしい。


 このような旧道歩きもあった。分岐に「甲州古道○○」といった標柱が多い。○○はそこの地名。
 細い旧道を抜けると関野宿へと入っていく。

関野宿~上野原宿
17関野宿
・関野宿は往時、この近辺は奥三保とも桂里とも呼ばれ、諏訪番所を通り甲斐の国に通じる最後の宿ということもあり、重要視されていた。
・道幅は2間余り、民家が相対して軒を並べ、本陣、脇本陣を備えた宿場であった。明治21年とその後の2度の火災で焼失してしまった。
・吉野より26町(約2.8km)本陣1、脇本陣1、旅籠3


 「関野本陣跡」の説明板。代々中村家が勤めた。


 関野宿の中心部の家並み


 境沢に架かる「境沢橋」~相模国(神奈川県)と甲斐国(山梨県)の境界。

上野原宿~鶴川宿
18上野原宿
・甲斐の国最初の宿。八王子から分かれた裏街道・陣馬街道との分岐点で、文化年間(1804~18)には250軒もの商家が軒をを並べ、織物、野菜、干魚、酒などを商っていたという。
・本陣1脇本陣2 旅籠20   関野より34町 3.7km


 「諏訪関跡」~武田氏が設置した「甲斐二十四関」のひとつ。徳川の夜になると、「境川口留番所」と呼ばれた。


 唯一目についた土蔵造りの旧商家。本陣や脇本陣もあったが、その標識等はなかった。


 鶴川宿への旧道。

鶴川宿~野田尻宿
19鶴川宿
・鶴川宿は、正徳三年(1713)一村一宿にてつくられた。
・甲州街道唯一の「徒歩(かち)渡し」の鶴川の渡しがあり、川留めのために設けられた宿場。
・明治、大正の二度の大火で、殆どの建物が焼失したという。
・本陣1脇本陣2旅籠8  上野原から18町 約2km


 「鶴川宿碑」


 左は「問屋跡」の加藤家。向かい側に柏屋脇本陣があった。その先の本陣跡は分からなかった。


 「大椚の一里塚跡」碑~日本橋より19里目。

野田尻宿~犬目宿
20野田尻宿
・駅路峯の上に亘れり・・・というように中央高速の北側高台に存在する。
・宿は明治19年の大火でほとんど焼失し昔の面影は残っていない。
・本陣1 脇本陣1 旅籠9  鶴川より一里三町三十間(4.3km)


 旧家が多く目につく野田尻宿の中心部。


 「宮田本陣跡」は更地になっていて、「明治天皇御小休止所址」の碑が立っている。
 ずいぶんと登ってきた感じだが、この宿場で標高350mほど。


 ここから犬目宿に向かってどんどん登っていく。


 このような旧道が続く。やがて、犬目宿へと入って行く。

犬目宿~下鳥沢宿・上鳥沢宿
21犬目宿
・「犬目駅-此の地は狗目嶺とて一郡の内にて極めて高き所なり、房総の海まで見え・・・・」というように海抜500mを越える所に位置する。
・昭和45年に大火があり、宿の6割を焼失して、ほとんどの家が建て替わってしまったそうだ。
・野田尻より31町(約3.4km)本陣2 旅籠15


 「尾張家殿様定宿跡」~代々米山伊左衛門を名乗り、尾張家藩主の定宿を勤めた。


 「笹屋本陣跡」~上条家が勤めた。ここにも明治天皇の碑が立っている。


 「岡部本陣跡」~現在の建物は明治13年(1880年)の建築。この宿場は標高520mもある。
 この宿場を抜けて下るかと思ったが、さらに登っていき、最高550mにもなった。


 「恋塚の一里塚」~久しぶりに南塚だけだが、現存する一里塚。日本橋から21里目。この辺りも標高550m。この辺りからどんどん下っていく。ここにも


 下鳥沢宿へ下りていく途中に、一部だけだが石畳の道もあった。


 農家の前に、このような楽しい木工の案山子?が展示されていた。

下鳥沢宿・上鳥沢宿~猿橋宿
22.23鳥沢宿
・上鳥沢宿 と下鳥沢宿 の二宿に分かれる。
・いずれも国道20号に面していて、宿場制定時から道幅を広く仕切ってあり、そのため国道が突き抜けても、宿場の建物群がそのまま残った珍しい宿であったといわれる。
・下鳥沢宿と上鳥沢宿は隣接した合宿で、5町(約550m)程しか離れておらず、継立、問屋業などは半月ずつ交替で行われていた。
・下鳥沢宿は、本陣1、脇本陣2 、旅籠11。上鳥沢宿は、本陣1 脇本陣2軒、旅籠13。

 標高350mまで一気に下り、鳥沢宿へと入っていく。


 「旅籠叶屋跡」~明治20年の建築。「甲府商人定宿世話方」でもあった。


 「問屋場跡」の建物。


 「井上本陣跡」~どこも建物はないが、明治天皇の碑が立っている。

猿橋宿~駒橋宿
24猿橋宿
・江戸時代、岩国の錦帯橋、木曽のかけ橋と共に三大奇橋「猿橋」の見物人で賑った。
・宿場本陣1 脇本陣2 旅籠10 猿橋-殿上-駒橋発電所-駒橋宿 2.3km 


 この「猿橋」は、昨年も富士登山の帰りに見ている。
 現在の猿橋は、嘉永4年(1851年)の図面をもとに、昭和59年に復元されたもの。

 宿場の面影を残すものは何も見当たらない。本陣も脇本陣もあったのだが…。
 このあと雨が降ってきた。小雨なので折り畳み傘だけで間に合った。

駒橋宿~大月宿
25駒橋宿
・本陣も脇本陣も無く、旅籠数軒だけの小さな宿場であった。
・現在は国道から外れたおかげで、古い家並を残し、旧観を留めた静かな佇まいを見せている。
・旧道はJRや畑などで分断されており、歩くことができない。旅籠4


 「駒橋宿」碑。


 「旅籠橿屋跡」~門柱に屋号橿屋を掲げている。

 14:40、大月駅前交差点を今日のゴールとする。
 大月駅近くに安い宿がなかったので、1駅先の初狩駅前の宿を予約しておいた。
 大月駅でブログの下準備して、15:43の電車で初狩駅へ。


 まさに駅前にあった大和屋旅館(夕食のみ5700円)。快適な旅館だった。


 特に郷土色もなく、一般的な夕食。