癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

今や注目の懐かしい函館市大船町

2019年11月28日 | 日常生活・つぶやき




 函館市大船町・・・自分が2回7年間住んだ当時は南茅部町字大船だった。
 今や、世界文化遺産候補の構成要素でもある「大船遺跡」で有名なところである。
 自分が住んでいた当時は姿すらなかった遺跡である。子供たちが土器の欠片を拾ってくるということはあったが・・・。

 ここは、墓地を広げようとした1996年にたまたま確認された、縄文時代中期の大規模な集落跡である。
 自分が大船を出て3年後のことである。それ以来何度か足を運んでいるが、当時ここにこんな遺跡が眠っていたということは考える由もなかった。

 国指定の史跡で、大型竪穴住居を含む100軒近くの住居跡を確認。長期間にわたる集落跡で遺構が密集していること。
 住居の規模が大変大きなことが特徴で、深さ2m、直径10mを超えるものもある。地中には、さらに多くの住居跡があると推測されている。

 しかし、先日、地元の方と話したが、「周りが騒いでいるだけで、地元へのメリットは何も感じられず、関心はまったく高まっていない」とのこと。

 大船のもう一つの魅力は、「大船温泉」である。





 毎年今頃、お歳暮用の真昆布を分けてもらいに大船へ出かける。
 先日もその帰りに大船温泉のホテルひろめ荘に入ってきた。
 ここは、1995年に開業し、渡島半島唯一の硫黄泉を楽しめる温泉でもあり、2種類の源泉掛け流し温泉に入浴できる。
 2回目に住んだ翌年(1990年)に開業した南かやべ保養センター(日帰り入浴施設)も、現在はホテルひろめ荘と同一営業である。
 これらの施設は、昨年函館市が民営化の方針で売却先を募集していたが、黒字経営を続けている現在の指定管理会社が買い取ったらしい。

 <大船時代の思い出>
 昭和58年(1983年)、新卒以来17年間函館市内ばかりの勤務で、「一度郡部経験をしてきなさい」と言われた。
 そのときに、自分は農村(旧大野町)育ちだったので、まだ経験のない漁村を希望した。
 それが、この大船とのお付き合いの始まりだった。当時はどこにある地区かさえ知らずに地図で確かめたほどである。

 自分が子供時代田舎で育ったことこともあり、当時小学生と幼稚園児だった2人の子供も田舎で育てたいと思った。
 前浜を生活の生業とした漁村だが、裏山は自然がいっぱいで、非常に新鮮で楽しい3年間だった。
 地区の漁師中心の野球チームに入れてもらい、漁村特有の気質にも触れ、楽しい日々が続いた。

 3年後には函館市内へ戻ったが、さらに3年後に管理職として再び同じ職場に戻り、家族ともどもさらに4年間住み続けた。
 2度に渡るその7年間は、魚はもらいすぎて困ることは多々あったが、買うことは一度もなかった。
 家族も基幹産業である養殖昆布関連のアルバイトという貴重な経験もした。

 最初の時は、大船川の上流にあったのが、上の湯と下の湯である。しかし、上の湯は営業していなかった。
 そのときにもっぱらお世話になったのは「下の湯」である。
 

 
 大船温泉の始まりは、1839年頃にこの下の湯に温泉小屋が建てられたことによる。
 昔は、函館の赤川地区から山越えをしてやってくる湯治客で賑わったそうだ。
 浴室の向かいに建つ母屋は、昔からの湯治宿で築150年ほどだという。現在で4代目とか・・・。

 自分が住んでいたころも今も地元の人たちの専用といった感じの温泉である。
 しかし、鄙びた秘湯の雰囲気が好きで、こちらにやってくる秘湯愛好者も多い。
 皮膚病には良く効くようで、治療のために全国の温泉をあちこち回ったが、ここで治ったという人に出会ったことがある。

 最初のときは100円だったが、2回目のときは200円に値上がりしていた。今も200円のようだ。
 熱い源泉がかけ流しで引き込まれ、熱いときはホースで引かれている川の水で温度を下げるという方式である。
 カラン等もないので、体を洗うときは浴槽から直接お湯を汲んで洗うことになる。
 今は立ち入り禁止になっているが、この源泉地帯で子供たちと遊んだことも懐かしい。