癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

甲州街道歩き旅〈5日目〉36勝沼宿~40韮崎宿(35.1km)9時間00分

2019年11月13日 | 登山・旅行

 (昨日勝沼宿の手前で撮った南アルプスの山並み。見えるピークは全て踏破済み)
 
 寝心地が良かったのか、トイレに一度も起きずに8時間爆睡することができた。
 6:00、街道沿いの宿をスタート。
 今日は、南アルプスの山々を眺めながら歩けると期待したが、生憎曇りがちの天候で、それは叶わなかったのが残念。

勝沼宿~栗原宿
36勝沼宿
・戦国時代は武田信玄の父信虎の弟、勝沼次郎五郎信友が勝沼に館を構えており、甲斐の戦略上、重要な拠点であったと伝えられている。
・昔からぶどうの名産地で知られたところで、現在でも一帯はブドウ園が至る所に見られる。
・宿場としては、当時はかなり横長だったようで、広重もここで昼食をとっているようだ。
・本陣1 脇本陣2 旅籠23


 宿のすぐ先の角地が「勝沼宿脇本陣跡」だった。標柱があり、土蔵が残っている。


 そのすぐ先が「勝沼宿本陣跡」~「槍掛けの松」が残っている。
 大名や公家などが宿泊すると、その目印に槍を立て掛けた老松。屋号は「池田屋」。


 「勝沼氏家臣屋敷跡」~1500年代の茅葺き屋根の家屋が復元されている。勝沼氏館跡は更地になっていた。


 「仲松屋」~荻原家は質屋で財をなした豪商。江戸時代後期の母家を中心とした東屋敷と明治後期の西屋敷2軒分の商家建築を残している。


 珍しい3階造りの蔵~明治20年ころの大火のあと、自分の山林の木材で建てたという。地下1階もあるという。


 「旧田中銀行社屋」~国登録有形文化財。勝沼郵便電信局舎として建てられ、後に山梨田中銀行の社屋として利用された洋風建築。

 わずか、800mほどの宿場の中心部で、これだけのものがあり、その先にも、「ぶどう御殿」?と思われるような豪華な屋敷が非常に多い。

 「○○園」という名のぶどう園がずっと続く。やがて、栗原宿へと入っていく。
 
栗原宿~石和宿
37栗原宿
・江戸時代、宿場には毎月4と9の日に市が立ち、勝沼宿と共にこの一帯の農産物や織物などの集積地として栄えたといわれているが、現在では宿の跡らしきものは何も残されていない。
・本陣1 脇本陣1 旅籠20


栗原宿は、宿場の面影を残すものは、この標柱だけだった。ガイドブックにも本陣跡や脇本陣跡の場所も触れられていない。
 勝沼宿のような豪商な屋敷もほとんど見当たらない。


 唯一目についたのは、この新しい屋敷である。大戸屋グループの三森久実生誕の地の看板が上がっていた。

石和宿~甲府柳町宿 
38石和(いさわ)宿
・石和の地名は多くの川が流れる荒地で、藺(い)が一面生えていたので藺の沢からとか。
・陽成天皇の時代、見事な栗が献上され石禾(いさわ)の字を賜ったなどの由来がある。
・また武田武田信玄の父信虎が躑躅ケ崎(つつじがさき)に城を築くまでは、ここ石和が武田氏の本拠地であり甲斐国の政治の中心地でもあった。
・本陣1 脇本陣2 旅籠18

 笛吹市へ入っていくが、1kmほど旧道が続く。


 明治40年の大水害後に植樹された松並木。この道幅に旧道の面影を感じる。


 地名の由来となった「笛吹権三郎像」~昔笛の上手な権三郎は母親と二人で暮らしていたが、ある晩氾濫した濁流に二人とも流されてしまった。権三郎はく助かったが、母親は権三郎の名前を叫びながら濁流に呑まれて行方不明になった。権三郎は毎晩母親の好きな曲を笛で吹きながら川下まで探し回ったが、ある日足を踏み外して川に落ちて死んでしまった。その日から夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえるようになり、村人はいつしかこの川を笛吹川と呼ぶようになった。

 像の傍らには丸石道祖神が祀られている。このあと、多くの丸石道祖神を目にした。


 やがて、カエデの紅葉の並木がきれいな市街地へと入っていく。


「後藤本陣跡」~明治13年の大火で焼失し、土蔵を残すのみ。


 「石和宿の足湯」と現小林公園の「由学館跡」~石和代官の山本大善が作った漢学を中心とした学舎。


 多くの家の庭で目にする名前の分からない可愛い花。


 「山崎刑場跡」~ここには首斬り場2ヶ所、首洗い井戸4ヶ所、骨捨て井戸が1ヶ所あったいう。


 箱根駅伝でお馴染みの「山梨学院大学」
 

 「石川家住宅」~塗籠土蔵造りの旧屋号河内屋跡。糸繭の問屋だった。


 城東通りに入っていくと、宿場は近い。
 
甲府柳町宿~韮崎宿
39甲府栁町宿
・甲府の市街は武田信玄の父信虎が石和から移って甲府駅の北部、躑躅ヶ崎に居館を構えたことから始まる。
・武田滅亡後、家康は現在の「舞鶴城公園」の地に城を計画し、繁栄は南部に移った。
・江戸時代にはここを下府中といい、武田時代の駅北部を上府中、あるいは古府中と呼んだ。宿の正式名称は「甲府柳町宿」という。
・宿場の中程にある柳町に問屋場などがの機能が集約されていたことに由来する。
・本陣1、脇本陣1、旅籠21軒。

 甲府市は南アルプスの山に来たときに、少なくとも4回は寄っている。武田信玄の甲府城址も見ている。


 甲府市市街地中心部の交差点の陸橋から宿場の中心地だった通りを写す。
 宿場の面影を出たものはまったく見当たらない。ガイドブックにも本陣跡も脇本陣跡も触れられていない。


 市街地を抜けて、山梨県へ来たら必ず食べる大好きな「小作のほうとう」。帰りまでにもう1回は食べたい。

 多く目についた6種類の「道祖神」をまとめてみた。

 
 左上は丸石、中上は祠と丸石、右上は道祖大神。
 左下は男女双体、中下数個の丸石、右下は祠。


 「下今井の街並み」~なまこ壁の土蔵が随所に残っている。


 下志田の「旧庄屋宅」~ここに写っている建物全てが1軒の屋敷。びっくりするほど豪壮な建物を残している。


 塩川に架かる塩川橋を渡ると、韮崎市となる。後ろの山は?


 やがて、宿場の中心地へと入っていく。


 「井筒屋醤油店」


 15:00ちょうど、今日のゴール、韮崎宿の中心地にある清水屋旅館(素泊まり6250円)到着。
 弘化2年(1845年)創業の旅人御宿である。しかし、建物は昔のものではなくがっかり。素泊まり6000円代だが、昨日に比べたらだいぶ落ちる。
 着いて直ぐに洗濯をしたが、乾燥機がなく部屋干し。ブログも終わりこれから、近くのスーパーで夕食の買い出し。