癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

甲州街道歩き旅〈2日目〉9府中宿~15与瀬宿(37.8km)9時間05分

2019年11月10日 | 登山・旅行
 今日も見事なほどの快晴に恵まれた。連日の好天に驚いている。最後まで雨に降られそうにもない感じだ。
 昨夜ぐっすり眠れたせいか、難所の小仏峠越えも快調に歩くことができた。

 昨日は、現在の東京都中央区~新宿区~杉並区~調布市~府中市と通過し、今日は、府中市~国立市~日野市~八王子市~神奈川県相模原市まで歩いた。
 お陰で都内の区や市の位置関係が良く分かった。これも歩き旅ならではのことである。


 昨日のてくてく人からの差し入れ。数日分の行動食としてごちそうになった。その他の差し入れは朝食にいただいた。感謝、感謝である。

府中宿~日野宿
9府中宿
・府中はかつての武蔵国府、武蔵総社(大国魂神社)があった武蔵の国の中心。
・鎌倉街道が通り、甲州街道が整備されると宿場として栄えた。
・現在の宮町が昔の「新宿」、宮西町が「番場宿」で「本町」と合わせて3町、3宿で府中宿が成り立っていた。この3宿が一ヶ月を三分し交代で問屋場を勤めた。
・本陣は本町に1軒、脇本陣は新宿、番場に1軒ずつ、その他旅籠屋、木賃宿、飯盛旅籠がそろっていた。本陣1 脇本陣2 旅籠29

6:00、昨日ゴールの大国魂神社の前をスタート。

 昨日見落とした「和田屋脇本陣跡」にある「明治天皇御在所」の解説
を読む。


 少し進むと、交差点に向かい合って、高札場(左)と問屋場跡(右足)が建っている。
 高札場は当時のものが現存している。めずらしい。


 さらに進むと、内藤家冠木門がある。これは矢島本陣の表門を移築したもの。肝心の矢島本陣の場所は不明。

 府中宿を抜けて、しばらく進み、国立市の端で旧道に入る。

 その先には「日野の渡し場跡」がある。ここから下流に向かって斜めに渡しが行われたようだ。


 土手を少し進み、多摩川に架かる「立日橋」を渡る。国立市と日野市を結ぶことが分かる名前だ。


 橋の上から、山頂部を雪化粧した富士山が見えた。こらからどんどん近くなるはず。
 反対の日野側の渡船橋跡は見つけられなかった。
 渡し賃は人と馬とは別々に徴収され、武士と僧侶と宿の人々は無賃だったそうだ。

 やがて、日野宿へ入っていく。

日野宿~八王子宿
10日野宿
・宿場町として整備されたのは1605年(慶長10)のことで、八王子宿を整備した大久保長安手によって開かれている。
・宿場町は物流の拠点であるとともに軍事的な拠点でもあり、軍勢が一気呵成に攻め込めないよう宿の出入口を直角に曲げて作られていた。その名残りが現在も見られる。
・本陣跡には本陣としては東京都内で唯一遺された当時の建物が建っている。本陣1 脇本陣1 旅籠20


 「日野宿場本陣」の大きな看板が飛び込んで来る。


 それもそのはず「下佐藤家本陣」である。
 当時のものか、復元されたものかは、ガイドブックでは触れられていない。公開しているが時間的に早かった。


 その向かい側に、「問屋場跡・高札場跡」の碑と説明があった。


 宿場の中心部を抜けると、広大な敷地の「日野自動車」の横を進む。国道沿いだけで700mほどもありそうだ。


 その西外れに「日野台の一里塚跡」の説明があった。日本橋から10里目。
 やがて、八王子宿が近づいて来る。


 竹の鼻公園内に立つ「史蹟一里塚跡」碑と説明がある。塚木の大榎は明治30年の大火で焼失したそうだ。

 新町の桝形を抜けると八王子宿である。

八王子宿(横山宿)~駒木野宿
11八王子宿(横山宿)
 八王子宿を正式には「横山宿」といい、横山宿など15宿から成り立ち、現在の新町から八木町まで2.5km位の宿であった。横山宿が一番大きかったので「横山宿」という。又街道に沿った宿ばかりではなく、街道の左右にも宿が発達していた。宿内の家の数は1548軒もあった。天正18年(1590)八王子城の落城後、北条氏家臣長田作左衛門がこの地に宿を新設した。
本陣2 脇本陣3、旅籠34

 今夜の宿は八王子駅前なので、不要な荷物を駅のコインロッカーに預けて、空に近いリュックを背負って再スタート。

 八王子駅前は建物も人も非常に賑やかだった。
 駅前からすぐ先には、横山宿の本陣や脇本陣、問屋跡があり、八王子市宿の中心だったそうだが、その痕跡も説明もない。


 そこから300mしか離れてない所に、大きな「八日市宿跡」の碑が立っている。
 この八日市宿にも新野本陣や山上脇本陣があったそうだ。
 

 八王子宿で唯一目にした旧家。


 陣馬街道との追分にある「八王子千人同心屋敷跡記念碑」。家康は武田氏の旧臣を召し抱え、甲州口の押さえとした。
 碑の当たりに頭や幹部の屋敷や邸宅があり、平同心は半士半農の生活を送った。


 八王子市街地から高尾までは、見事なイチョウ並木が続く。この辺りは千人町といい、同心が住んでいたという。


 一部旧道に入るが、そこには黒塀を回した旧家が3軒ほどあった。


 やがて、高尾駅前を通過。ガードを潜ると駒木野宿へと入っていく。

駒木野宿~小仏宿
12駒木宿
・駒木野宿は、関所に付随する簡易宿場というような位置付けだった。
・本陣1、脇本陣1、旅籠12


 駒木野宿の中心部には、「小仏関所跡」碑が立っている。
 「出女に入り鉄砲」を厳しく取り締まった関所である。
 

 その隣に大きな「甲州街道駒木野宿」の碑が立っている。

 この辺りから、小仏峠に向かって上り坂が続く。上の方からたくさんの登山者が下りてくる。
 日本で最も登山者の多いと言われる高尾山には多くの登山道があり、そこから下りてきたようだ。

 駒木野宿を抜けて、小仏宿へと入っていく。

小仏宿~小原宿
13 小仏宿
・本格的な峠越えの手前に位置するが、本陣、脇本陣はなく、旅籠が11件あったのみである。
・地名の由来は頂上に小さな石地蔵があったためとか、この地の大日堂の本尊は土中出現の小像のためとかの説がある。


 道が狭くなり、傾斜もきつくなってくる。


 「名主宅跡」があった場所。擁壁上に頭だけちょこんと出している「明治天皇御小休止場」の碑がある。
 これを見つけられないで、一度戻って探した。


 家並みもなくなると、景信山や高尾山からの縦走路の登山口がある。日曜日でもあり、そこからはみ出た車がずらっと並んでいる。


 やがて、小仏峠への未舗装の山道となるが、「台風19号で崩壊しているため通行止」になっていた。
 行けるところまで行って無理だったら戻っても良いと思って、先へ進んだ。


 確かに下の方は酷い荒れようだ。しかし、上から下りてくる登山者もいて、踏み跡も付いている。


 上の方は、特に問題もなく峠まで上がることができた。


 小仏峠(580m)にある石碑や石仏。ここは昔の武蔵国と相模国の境界で、ここから神奈川県となる。
 小仏峠は、甲州街道踏破の後に縦走する予定の陣馬山~景信山~高尾山の縦走路にもなっていて多くの登山者が下りて来ていた。


 峠の道標。


 こちらの道はまったく荒れてなく、快適な当時の街道そのものだった。こちらに下りてくる登山者もいた。

 やがて、車道に出る。道なりに下っていくと、小原宿へと入っていく。

小原宿~与瀬宿
14小原宿
・小原と与瀬は片道継立の宿で、甲州へは小原から吉野へ継ぎ、江戸方面には与瀬から小原を通り越して小仏宿へ継ぐ。
・本陣1脇本陣1、旅籠7

 神奈川県下に26軒あった本陣で唯一現存する「清水本陣跡」。江戸時代後期の建築。
 明治28年の大火でも、この手前まで焼き尽くされたが、ここの手前で
鎮火したそうだ。


 無料で公開していたが、内部も見事な造りである。



 その先には、大火の後に建て直された旅籠等が数軒並んでいた。
 さらに下っていくと、与瀬宿に入っていく。

 15:05、相模湖駅前でゴールとする。駅には多くの登山者がいた。 

 15:59の電車で八王子駅まで戻り、コインロッカーから荷物を回収。


 今日の宿となる「八王子温泉やすらぎの湯」(3910円)に到着。