計画書の今日のコースの時間計算が1時間多く間違っていて、正しくは27.7kmだった。それでも、途中2度間違って3kmほど余計に歩いたのと、宿近くまで明日のコースを2km歩いたので、実測距離は32.5kmだった。
今日は、往時のまま整備保存されている山越えの道が2ヵ所合計で4kmほどあったり、ほかにも舗装道路だが山越えの道や田んぼの中の畦道歩きがあったりと、非常に野趣に富んだ1日だった。
さらに、函館ハリストス教会の流れを引く金成ハリストス教会とのうれしい出合いもあった。
昨日に引き続き、好天で気持ちの良い歩きを楽しむことができた。
一関宿~有壁宿
5時にホテルをスタート。1時間ほど県道歩きが続いたが、途中から山の方へ向かう道に入る。その入口の民家の方に聞いたら間違いなく昔の奥州街道だと言う。自信を持って進んだら、突然道が消える。あちこちきょろきょろしたが、ほかに続く道はない。
改めて前を見たら、2本の杭が立ち、その先に刈り払われたような自然道が続く。これが昔のままの街道で、整備保存されているのだろうと思って、進んでいく。
感心するのは、人が歩くための整備ではなく、昔のままの街道そのものを保存しているのである。車の轍もない。完全に江戸時代にタイムスリップできる道である。
橋が落ちたところに仮橋を掛けている。
40分歩いたので、2.5kmくらいであろうか?舗装された林道に出る。そこには、有壁宿の旗とここまでの街道整備のことが書かれた案内板が設置されていた。有壁宿助郷の会が整備しているらしい。感謝して林道を下る。
山越えをしているうちに、いつのまにか岩手県から宮城県に入っていたようだ。
山から下りたらすぐに有壁宿だった。こじんまりとした家並みだが、どの家も立派である。
すぐに佐藤本陣が現れる。有壁以北の松前氏、津軽氏、八戸南部氏、盛岡南部氏などが宿泊したところであり、関札などの資料が残っているという。白壁と櫺子格子の戸、黒板塀が貴賓を漂わせている。よくメンテナンスされているようでほころんでいる箇所はない。その横にはこの道が奥州街道であることを示す道標がある。
外れには、萩野酒造があり、その前に有壁宿の説明板が立っていた。の前にでる。この酒造は脇本陣を勤めてきた家である。
有壁宿~金成宿
舗装された林道になっている街道を下っていくと、「明治天皇東北御巡幸御野立休憩所」の標柱が現れる。階段になっているのでその先に登ってみると、野立所址の立派な石碑が立っていた。野立をするところは展望の良いところが多い。木が大きくなって見えなくなったのか、展望台もあったが、階段がぐらぐらするので昇らなかった。
また、農道を歩いていると、再び整備された街道が現れる。実はこの入口を見落として先へ進んでしまい、往復で1kmほど無駄足を踏んだ。
ここも実に丁寧な整備状況である。今まで多くの街道や古道を歩いてきたが、これほど往時の姿まで復元しているのは珍しい。途中で高速道路に寸断されていたが、迂回路も用意されていた。
やがて、金成宿へと入っていく。左手に公民館が現れる。ここは金成宿本陣跡であり、大肝入であった菅原家が勤めてきたもので、仙台藩主伊達綱村なども宿泊したとのことである。左手に立派な門構えの旧家もあった。
左手にけやき会館の看板が現れるので左折してけやき会館へ向かう。けやき会館の左手奥に案内板があり、けやき会館の地は仙台藩の金成代官所があった所で、三迫、磐井などの村から年貢の徴収をしていたと記してある。
けやき会館の裏には歴史民俗資料館がある。この建物は明治20年に建てられた木造素木造り、小羽葺き(現在は銅板葺き)の二階建ての旧金成小学校校舎を利用している。
庭の手入れをしていた管理人に、いろいろな話を聞く。前に並んでいる巨木はけやきで、前の金成町(現栗原市)の町木だそうだ。
資料館の隣に建つ金成ハリストス教会。函館のハリストス教会で、最初にニコライ神父から洗礼を受けた坂本龍馬の親戚筋の澤辺琢磨は有名な話だが、そのときにあと何人か一緒に洗礼を受けている。そのひとりにこの金成出身の川股篤礼がいた。
その甥の川股篤太郎が、函館のハリストス教会を模して建てたという。思いがけず、この地で函館との所縁を知り感動しながら、金成宿をあとにする。
金成宿~沢辺宿
このあと、金成宿から2kmしか離れていない沢辺宿を目指す。しかし、T字路を反対に進んでしまった。店の1軒もない宿場は珍しいと思いながら1km以上も歩いてから間違いに気づいて戻った。
結局2倍の時間を要して、沢辺宿に入っていくが、宿場の面影はおろか、なにも見るべきものもなく通りすぎてしまった。
沢辺宿~宮野宿
県道から国道へ合流して橋を渡るが、昔の街道の橋は少し上流にあったらしい。橋を渡ってから堤防の上を進む。その面影を残すガードレールが両側に残っている。
その橋から南へ続く道はない。ガイド地図によると、畦道を歩くらしい。今までの街道や古道歩きで畦道歩きは初体験である。多分、水田の区画整理で整理されてしまったのだろう。
その先に、舗装はされているが、笹で覆われて笹刈り整備がされている街道跡もあった。
農村地帯の街道を進み、やがて、宮野宿へ入っていく。
一番先に目を奪われたのが住宅の裏山に生えている見事なシダレザクラである。もう色づいている。
その手前の家の前に「中世大崎古文書」を所蔵している旨の白い標柱が立っている。及川家である。ここは検断屋敷でもあったとのことである。
その先に、立派な門構えの旧家があるが、その屋敷の中の建物の上に郵便マークが刻まれている。多分昔は郵便局だったのだろう。
奥まったところにおむすび保育所がある。ここは往時の宮野代官所跡であり、栗原群一迫、二迫郷を支配していたと案内板に記されている。
ここで宮野宿は終わりである。しかし、予約した宿はさらに明日のコースを2kmほど進んだところにある。そこまで国道4号を進んだ。宿のすぐそばにすき家があったので、そこを今日のゴールにした。
13:45、すき家に入る。今日のコースにはコンビニも食堂もなく、朝は非常食用の煎餅2枚のみで、腹ぺこだったので、牛丼の大盛りを食べた。
その後、宿に入るには早すぎる。たまたますぐそばに栗原市立図書館があったので、そこで、ブログの下準備をする。
16:00にすずはる旅館到着。素泊まり4500円。大きなお風呂がうれしかった。18時にコインランドリーで洗濯をしている間に、また、すき家でから揚げカレーを夕食に食べた。
ブログをようやくアップし終えて見たら、画像の縮小サイズが間違っていた。訂正する元気はない。
(翌日追記)宮野宿~築館宿
翌朝になって、築館宿までの残りのコースを確認したら、すでに築館
宿に着いていることが判明。しかも、泊まったすずまる旅館の辺りが宿場の中心地とのこと。しかし、当時の宿場の雰囲気を残すものは何もないらしい。見落としたものもあるかもしれないが、そのまま前進することにした。
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今日は、往時のまま整備保存されている山越えの道が2ヵ所合計で4kmほどあったり、ほかにも舗装道路だが山越えの道や田んぼの中の畦道歩きがあったりと、非常に野趣に富んだ1日だった。
さらに、函館ハリストス教会の流れを引く金成ハリストス教会とのうれしい出合いもあった。
昨日に引き続き、好天で気持ちの良い歩きを楽しむことができた。
一関宿~有壁宿
5時にホテルをスタート。1時間ほど県道歩きが続いたが、途中から山の方へ向かう道に入る。その入口の民家の方に聞いたら間違いなく昔の奥州街道だと言う。自信を持って進んだら、突然道が消える。あちこちきょろきょろしたが、ほかに続く道はない。
改めて前を見たら、2本の杭が立ち、その先に刈り払われたような自然道が続く。これが昔のままの街道で、整備保存されているのだろうと思って、進んでいく。
感心するのは、人が歩くための整備ではなく、昔のままの街道そのものを保存しているのである。車の轍もない。完全に江戸時代にタイムスリップできる道である。
橋が落ちたところに仮橋を掛けている。
40分歩いたので、2.5kmくらいであろうか?舗装された林道に出る。そこには、有壁宿の旗とここまでの街道整備のことが書かれた案内板が設置されていた。有壁宿助郷の会が整備しているらしい。感謝して林道を下る。
山越えをしているうちに、いつのまにか岩手県から宮城県に入っていたようだ。
山から下りたらすぐに有壁宿だった。こじんまりとした家並みだが、どの家も立派である。
すぐに佐藤本陣が現れる。有壁以北の松前氏、津軽氏、八戸南部氏、盛岡南部氏などが宿泊したところであり、関札などの資料が残っているという。白壁と櫺子格子の戸、黒板塀が貴賓を漂わせている。よくメンテナンスされているようでほころんでいる箇所はない。その横にはこの道が奥州街道であることを示す道標がある。
外れには、萩野酒造があり、その前に有壁宿の説明板が立っていた。の前にでる。この酒造は脇本陣を勤めてきた家である。
有壁宿~金成宿
舗装された林道になっている街道を下っていくと、「明治天皇東北御巡幸御野立休憩所」の標柱が現れる。階段になっているのでその先に登ってみると、野立所址の立派な石碑が立っていた。野立をするところは展望の良いところが多い。木が大きくなって見えなくなったのか、展望台もあったが、階段がぐらぐらするので昇らなかった。
また、農道を歩いていると、再び整備された街道が現れる。実はこの入口を見落として先へ進んでしまい、往復で1kmほど無駄足を踏んだ。
ここも実に丁寧な整備状況である。今まで多くの街道や古道を歩いてきたが、これほど往時の姿まで復元しているのは珍しい。途中で高速道路に寸断されていたが、迂回路も用意されていた。
やがて、金成宿へと入っていく。左手に公民館が現れる。ここは金成宿本陣跡であり、大肝入であった菅原家が勤めてきたもので、仙台藩主伊達綱村なども宿泊したとのことである。左手に立派な門構えの旧家もあった。
左手にけやき会館の看板が現れるので左折してけやき会館へ向かう。けやき会館の左手奥に案内板があり、けやき会館の地は仙台藩の金成代官所があった所で、三迫、磐井などの村から年貢の徴収をしていたと記してある。
けやき会館の裏には歴史民俗資料館がある。この建物は明治20年に建てられた木造素木造り、小羽葺き(現在は銅板葺き)の二階建ての旧金成小学校校舎を利用している。
庭の手入れをしていた管理人に、いろいろな話を聞く。前に並んでいる巨木はけやきで、前の金成町(現栗原市)の町木だそうだ。
資料館の隣に建つ金成ハリストス教会。函館のハリストス教会で、最初にニコライ神父から洗礼を受けた坂本龍馬の親戚筋の澤辺琢磨は有名な話だが、そのときにあと何人か一緒に洗礼を受けている。そのひとりにこの金成出身の川股篤礼がいた。
その甥の川股篤太郎が、函館のハリストス教会を模して建てたという。思いがけず、この地で函館との所縁を知り感動しながら、金成宿をあとにする。
金成宿~沢辺宿
このあと、金成宿から2kmしか離れていない沢辺宿を目指す。しかし、T字路を反対に進んでしまった。店の1軒もない宿場は珍しいと思いながら1km以上も歩いてから間違いに気づいて戻った。
結局2倍の時間を要して、沢辺宿に入っていくが、宿場の面影はおろか、なにも見るべきものもなく通りすぎてしまった。
沢辺宿~宮野宿
県道から国道へ合流して橋を渡るが、昔の街道の橋は少し上流にあったらしい。橋を渡ってから堤防の上を進む。その面影を残すガードレールが両側に残っている。
その橋から南へ続く道はない。ガイド地図によると、畦道を歩くらしい。今までの街道や古道歩きで畦道歩きは初体験である。多分、水田の区画整理で整理されてしまったのだろう。
その先に、舗装はされているが、笹で覆われて笹刈り整備がされている街道跡もあった。
農村地帯の街道を進み、やがて、宮野宿へ入っていく。
一番先に目を奪われたのが住宅の裏山に生えている見事なシダレザクラである。もう色づいている。
その手前の家の前に「中世大崎古文書」を所蔵している旨の白い標柱が立っている。及川家である。ここは検断屋敷でもあったとのことである。
その先に、立派な門構えの旧家があるが、その屋敷の中の建物の上に郵便マークが刻まれている。多分昔は郵便局だったのだろう。
奥まったところにおむすび保育所がある。ここは往時の宮野代官所跡であり、栗原群一迫、二迫郷を支配していたと案内板に記されている。
ここで宮野宿は終わりである。しかし、予約した宿はさらに明日のコースを2kmほど進んだところにある。そこまで国道4号を進んだ。宿のすぐそばにすき家があったので、そこを今日のゴールにした。
13:45、すき家に入る。今日のコースにはコンビニも食堂もなく、朝は非常食用の煎餅2枚のみで、腹ぺこだったので、牛丼の大盛りを食べた。
その後、宿に入るには早すぎる。たまたますぐそばに栗原市立図書館があったので、そこで、ブログの下準備をする。
16:00にすずはる旅館到着。素泊まり4500円。大きなお風呂がうれしかった。18時にコインランドリーで洗濯をしている間に、また、すき家でから揚げカレーを夕食に食べた。
ブログをようやくアップし終えて見たら、画像の縮小サイズが間違っていた。訂正する元気はない。
(翌日追記)宮野宿~築館宿
翌朝になって、築館宿までの残りのコースを確認したら、すでに築館
宿に着いていることが判明。しかも、泊まったすずまる旅館の辺りが宿場の中心地とのこと。しかし、当時の宿場の雰囲気を残すものは何もないらしい。見落としたものもあるかもしれないが、そのまま前進することにした。
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今日からサクラの迎えもいただき、楽しく歩けそうです。