気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

虻田から喜茂別など:その4旧跡のしるべ「南部団体開拓・庚申堂・旧国鉄駅」など

2016-12-08 21:51:03 | 旅行
訪問したのは2016年5月22日、資料を見ながら、喜茂別町内の歴史的史跡、あちこち巡った。
(1)「南部団体開拓の碑」

説明案内

「明治35年(1902)4月鷹羽喜太郎氏を団体長とする南部団体(岩手県岩手郡本宮村を通信とした)が、當時の上尻別に入植を果たしたのが喜茂別町への団体入植の最初であった。・・・(中略)・・・この碑は、昭和43年9月に原上尻別地区の住民が主となり建立されたが、昭和56年、現在地に移設された。
                   平成11年11月

(2)庚申堂

喜茂別郷土研究会発行の「ヌプリ」1号には「北海道には珍しい庚申碑」と記述されている。

建立の由来について
「しりべつのこの付近には四国の人が多かったので、弘法大師を信仰し、毎月20日にはだいし大師溝を「開いていた・・・。この尻別にもの農神として庚申を祀ろうと昭和2年(1927年)交流した。と説明。
 
(3)国鉄胆振線喜茂別駅跡地

旧跡・みちしるべの案内版

「喜茂別駅(旧西喜茂別駅)は私鉄胆振鉄道(京極~喜茂別間)開通した昭和3年(1928年)に開業。当時の役は「いびっこ広場」付近にあった。胆振縦貫鉄道「京極~伊達紋別)開通の折り、移転することになり、喜茂別中心街から北側へ移った。

(4)地神の碑・馬頭碑

説明版

「地神さん(ヂンシサン・ヂジンサン)は徳島県特有の農神で「小彦名命」(すくなひこのみこと)、「大巳貴命」(おおなむらのみこと)、「天照皇太御神」、「埴安魂命」(はこやすひめのみこと)、「稲倉魂命」(7いなくらだまのみこと)を祭り神として大正5年(1916年)9月に建立された。
作物の生育を祈り、主格に感謝し、日々の暮らしを守り幸せをもたらすとされ、心の支えとなった。
「馬頭碑」は、農家の財産、家族の一員である馬の生前の苦労を偲び、魂のやすらかなることを願い建立され、地神と合わせて信仰された。
              平成12年
この後、比羅夫神社や喜茂別町初の入植者である阿部嘉左ヱ門さんの祀られている所を訪ねた。
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虻田から喜茂別など:その3旧跡のしるべ「ソーケッシュオマベツ駅逓所

2016-11-28 23:08:54 | 旅行
5月22日の続き・・・
喜茂別町のホームページから「旧跡のみちしるべ」をコピーして町内の史跡を巡った。
参考に持参したマップの写真

「ソーケッシュオマベツ駅逓所跡」
場所は喜茂別町の双葉地区にあり、目印は簡易郵便局ということで、久保内から北湯沢を通過し、国道453号線から国道276号へと進んだ。
「上荘渓朱橋」を見つけたが、簡易郵便局が見当たらない。有りそうな林を探し、近くで作業をしていた方に「このあたりに駅逓所があったことを訪ねた。其の方は、「道路の向かい側に白い家があり、そこが駅逓所であった・・・と教えてくださった。
説明版は大きな木の元に有り、道路側からは見えにくかったが、おかげで辿り着くことが出来た。
説明版は番号が付けてあり、分かりやすかった。町の教育委員会の力の入れようかな・・・。

『明治40年喜茂別村と大滝村の中間地点に建てられた官設馬逓所で、国が設置したもの。明治42年から昭和9年まで使われていた。建物は「北海道「開拓の村」に復元されている。』
駅逓所のあった風景

説明版には
「①喜茂別町・旧跡のしるべ」

『ソーケッシュオマベツ駅逓所は明治42年11月10日(1909年)に喜茂別駅逓所として開設された。その時の管理人は水沼菊太郎という人で、後に大正2年(1913年)長家国太郎氏に引き継がれた。この駅逓所は喜茂別駅逓所と徳舜瞥村(現大滝村)の三界滝駅逓所を結ぶ中間にあり、駅逓の本来の事業は宿泊・荷物の積み立てと郵便の取扱いが主な仕事であったと言われている。隆盛期に官馬を8頭備えて旅行者の送迎にあたっていた。明治44年(1911年)に山梨団体が入植するときには、ここにいったん宿泊し、それから現地へ向かった。駅逓の廃止になったのは昭和9年(1936年)といわれますが、ソーケッシュオマベツ駅逓は旅館としてその後もしばらく続けられた。』
ということと、昭和52年(1977年)札幌市厚別区「北海道開拓の村」に移築展示されていると書かれていた。
                平成9年11月 喜茂別町教育委員会

双葉からは「双子の羊蹄」が見える写真スポットがある。
かつて登山した懐かしい尻別山(左)と羊蹄山(右側)

廃校の双葉小学校

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虻田から喜茂別・札幌など史跡めぐり:その2紋鼈駅逓所~共徳駅逓所

2016-11-27 22:12:32 | 旅行
2016年5月22日
虻田歴史公園から北稀府へ向かい、国道37号線から、目標の道道779号線にある「大きな松の木が目印・・・という情報を基に探した。
そもそも、「駅逓所」という説明版を見たのは、約20年前、登山の為に豊浦方向からニセコへの近道を探し、距離的に近いかなと思った道道32号線を選んだ。しかし、この道は当時はダートで、森林の中を通るという少し不安な道であった。森林を抜けると民家や田畑・牧場が見え、樹林の間に「上昆布駅逓所」という古ぼけた説明版があったのが「駅逓所」に出合う最初であった。
 その後、登山と松浦武四郎の足跡に興味を持ちその史跡巡りを目指すことになった。いろいろ調べていると大変詳しい方のホームページにも行きついた。「道北の釣りと旅」の方である。
 私たちの向かった「紋鼈駅逓所跡」は建物は残っていないが、あった場所に「説明版」が設立されている。
駅逓所について研究家でもないのでいろいろ調べたら、北海道独特の制度であったことも分かった。
ある文献によると
『北海道が蝦夷地と呼ばれていた時代に「通行屋」という制度があったが明治維新によって廃止された。北海道がまだあまり人が住んでいない時代、開拓のために来た人家旅人に宿泊所として提供したり、人や馬を貸し出して次の駅逓所につないだとも言われている。また、貨物の運搬や郵便業務も役割としてあり、開拓初期時代、各地にできたということです。運営は繫閑半民・請負制で運営している人は「取扱い人」と呼ばれ、運営にかかる所経費は開拓使から与えられていた。』
訪ねた「紋鼈駅逓所跡」の目印の大きな松の木

説明版のある風景


説明版には

『有珠に会所があった頃より、道南方面から道東方面へ通じるこの道は交通の要路として往来しきりであった。会所から会所へ逓送物を継送する人家旅人はここで休憩あるいは宿泊し、また馬の継立も行った。駅逓はぬかしの郵送業務の重要施設である。
 開基百年記念物指定  昭和44年8月23日 伊達市教育委員会」』と説明が書かれていた。

北稀府から長和というところを通って、久保内方面の「共徳駅逓所」を訪ねたいと思ったが、説明版等は全くない。
場所的には、かつて徳舜別岳登山でも来ているエリアである。
誰かに聞こうと思った。丁度道路の花壇を整備していた数人の方に「この辺に昔駅逓所があったようですが、御存じないですか」と聞いたら、一人が、「あ~すぐそばにある神社の隣にあったよ・・・そこだと思うよ」というので、すぐそばの神社付近を探した。というのは「赤茶っぽい建物」だけがヒントであった。実際には、建物への入り口は樹木で分かり難い。建物の色だけが赤く、駅逓の建物であることが分かった。玄関の前には花壇があり、どなかた管理している様子であった。その時はどなかもおられなかったが、民家なので家の写真は非公開。
駅逓所跡の道路側

設立当時は伊達方面や喜茂別、札幌方面への交通の要所であったのであろうと想像した。
神社の写真

次の目的地は「喜茂別町・旧跡のしるべ」双葉地区にある駅逓所跡
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虻田から喜茂別・札幌など史跡めぐり:その1虻田歴史公園

2016-09-07 22:02:20 | 旅行
2016年5月22日から、25日。3泊4日で、調べていた史跡を訪ねた。
早朝5時に自宅を出発し、大沼ICから高速を利用し虻田洞爺湖で降りた。目的地はあぶた道の駅付近にある歴史公園。
「あぶた道の駅」駐車場からの風景

「歴史公園」
(訪問時、5月22日、道南では桜は過ぎたが、アブタは満開)

この公園内には菅江真澄の歌碑がある。
菅江真澄は松前の沖の口に着いた彼は西蝦夷地へと行き、その後、戸井町や虻田町に来ている。彼の著書〔えぞのてぶり〕によると寛政三年(1791)アブタコタンに着き、東蝦夷地のアイヌの民族を観察。有珠山を6月10日に登ったとある。


菅江真澄の歌碑

〔 蝦夷見ても くもりも 波の 月きよく
           吹く口びわの声の涼しさ 
〕  (※ 口琵琶:アイヌの楽器であるムックリのこと)この歌の原風景は彼の著書「菅江真澄遊覧記 2」内田武志・宮本常一編訳(平凡社)「えぞのてぶり」に
『平穏に虻田のコタンに着いた。このコタンの運上屋のひろびろとして涼しそうな宿にはいった。蝦夷の住家は八十戸ばかりもあるというが、浜辺あるいは林の中にも見える。やや、日が暮れかかった空がくもりなく晴れて、はるかかなたまで波も静かでたいそう気持のよい夕べである。絃をひくような音が近く聞こえたのは何の音だろうかと耳をかたむけて聞いたが、いっそうに正体がわからない。これはどんなふうなものとかと問うと、主人は、シャモ(和人)は口琵琶というが、アヰノはこれをムクリンといって・・・竹で作ったものである。・・女(メノコ)たちが口にふくみ、左の手に端を持って、右の手で、その糸をひく、そして口の内ではなにごとかを云うそうである。外に出て、このさまを見ると子女たちは磯に立ち群れて、月にうかれながら吹き鳴らす・・・。』と記してある。

公園内にはその他の碑が幾つかある。

英国船「プロビデンス号」虻田に上陸の説明版(概略)

『寛政8年にイギリスの探検家ブロートンが率いるプロビデンス号が虻田沖(入江)に来航し碇泊。この急報に松前藩は藩士を派遣したが、言語が通ぜず、ロシア人に対応した経験のある藩士を派遣。船内を検分し、北日本の島々のあ傷の模写を許可して退去を求めた。此の語彼らはモロラン(室蘭)の湊を調査し、恵山岬にくけて出帆し、ブロートンは噴火湾の命名者として歴史に名をとどめた。また、英国船が来航したことは江戸幕府に大きな衝撃を与え、蝦夷地警備やアイヌ問題を松前藩に任せることはなく、幕府が直接対応。近藤重蔵や伊能忠敬などによる測量や巡視をすすめ、箱館へ蝦夷地奉行を置いた。
八王子千人同心を移住させ警備と開拓、有珠善光寺をはじめとする蝦夷三官寺の子雲流や虻田牧場の開設などの施策。その後も外国戦の接近、来航が頻繁となり、嘉永6(1853)年、アメリカの東インド艦隊のペリーが浦賀に来航、翌年「日米和親条約」が結ばれ、下田、箱館の2港が開港となり、長年の鎖国政策に終止符がうたれた。安政元年(1854)年のこと。』プロビデンス号の虻田来航は、日本の開国への大きなステップの一つであったといえよう・・・。
因みに室蘭に寄港したプロビデンス号帆船のモニュメント(所在場所:室蘭市絵鞆町)

室蘭にはプロビデンス号の探検家「ブロートン」と同名の喫茶・レストランがあり、「北寄貝」の入った母恋飯が有名。
JR「母恋駅」でも購入可能。美味しいので、また行きたい所。
蝦夷牧(有珠虻田牧場)跡

当時、戸川安諭という方が荷物の運搬や移動手段として馬の重要性から牧場開設を幕府に申し出、箱館奉行に着任。南部や先代から多くの牝馬を購入し牧場に放った。文化2(1805)年に開場式が行われ江戸幕府直轄の牧場として始まり、同時に福井政之助と村田卯五郎が願主となり馬の守護を祈って馬頭観世音碑を建立。しかし、文政5(1822)年、有珠山噴火によって牧士の村田父子や多くの人命・牝馬が犠牲になった。牧場はその後も運搬や軍馬用馬としての需要が高まったが、明治2(1869)年廃止となったという内容が記されている。

入江馬頭観世音碑(北海道指定有形文化財)

説明版には「蝦夷牧」と同様の記録があったが、やはり有珠山の大噴火による熱雲のために1430党の馬が焼死したり弘化2(1845)年3月の大雪で放牧中の馬900頭余りが死亡したと伝えられている。この牧場は北海道の官営牧場の創業期の事情やその後の牧場経営や馬の改良、繁殖など馬産史をうかがい知る学術的にも貴重なものいう。
文政噴火と和田屋茂平衛墓碑

文政5年(1822)1月19日の有珠山大噴火は寛政3年(1663)の噴火に次ぐ激しいものであり、火砕流により一瞬のうちにアブタコタンを焼き尽くした。死傷者は続々と善光寺に運ばれたが、手の施しようがなかったという。虻田場所請負人の和田茂平衛や婿の支配人松之介も絶命、墓碑が作られたが廃村(トコタン)になった跡に残っていたものを道路の拡幅改修時に歴史公園に移したということが説明版に記されている。
公園内にはイナウや「虻田先住アイヌ民族慰霊碑」と「アイヌ模様」と言っていいのか円柱のモニュメントがある。

この後、伊達方面に進み、道道779号、「紋鼈駅逓跡」を目指す。
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道南の中世ロマンを訪ねる:上ノ国にある伝説「大蔵鰊」

2016-09-02 19:40:41 | 旅行
上ノ国にある「旧笹浪家」の所にある「にしん街道」の木柱を訪ねた。その説明版にの中に「大蔵鰊」という伝説があり、旧笹浪家から「上ノ国八幡宮」への参道入り口にある民家の外壁に
旧笹浪家とにしん街道木柱


「大蔵鰊伝説の跡」という木版がある。


にしん街道の説明板を読むと「大蔵鰊」についてかいてある。また、菅江真澄遊覧記 2」(内田武志・宮本常一編編訳)を読むと当時、彼が見聞きしたことが記されている。

因みに菅江真澄は江戸時代 宝暦4年(1758)三河国に生れ、寛政元年~3年にかけて江戸地を旅した国学者。元年松前の沖の口に上陸した。

遊覧記の一部引用
『菅江真澄は松前から江良・小砂子、メノコ鷲居の浜辺の道を通ったり、時には漁師の船に乗せてもらったりして、汐吹きの浦にきている。上ノ国について、むかし勝山といって、此の島に領主の祖先が を定めたところで、漁師にさしずしている老人が語ったということ・・・華徳山上国寺のかたわらの大きな梅の木があり、梅が咲いている。松逕上人(むさしの国からきた)が言うには「この花が咲きはじめるともうニシンと云う魚は群れてこなくなると言って人々はみな嘆く。だから、この梅の花が早く咲かないことを被とはみな願い、咲いたころには浦の人たちはうらみののしっている。寺の門を出ると神社があり「何の神を祀るのか」とたずねると「にしん神です」と答えた。百年のむかし大蔵法師秀海という修験者が庵をむすんで修行しておられた。
ところがある年とくににしんの群れがまったく来ず、ひどい不漁に浦々の人すべてが嘆いているのを秀海法師が聞いて「お前たちがせちに願うのであれば、私は神に実情を訴え、祈ってにしんをとらせるようにしてやろう・・・』と云い法師は身を清め祈ると・・・海いっぱいにかもめが群がり、クジラは大波を起こしてしおを吹きあげ餌をあさった。これはみなにしんの群れがきた証拠である。
にしん街道の説明版にはその他「村人たちは大漁になったとたん、群来は自然のものと難癖をつけたので、山伏(秀海法師のこと)は怒りのあまり食べ物を断って死んでしまいました。・・・翌年江差には群来しましたが、上ノ国には群来せず、祟りもあったので、村人は恐れて山を神として祀ったそうです。以後、他の村にはにしんが来ても、上ノ国では神の効験があって大漁の年もあったそうで、これを人々は「大蔵鰊」と言って不思議そうにしていたという。
上ノ国に暮らす人たちはこれを「大蔵鰊」といって謙虚に学び地域の歴史や文化を掘り起こし未来への確かな手がかりとつけたいと考えています。・・・と記されている。

「史傳若宮社跡」

上ノ国八幡宮には秀海の御霊が若宮として祀られている。
また、上ノ国八幡宮は文明5年(1473)武田信廣が勝山館内に館神として創建した社で北海道神社史上貴重な存在であると・・・。
上ノ国八幡宮鳥居と社殿の彫刻

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