気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

松浦武四郎著「渡島日誌」にある福島町殿様街道を歩く

2017-05-20 21:27:43 | 旅行
2017年5月18日、安政の探検家、松浦武四郎著「渡島日誌」第壱之巻に記録のある古道、現在は福島町千軒地区にある通称「殿様街道」をウオーキングしてきた。
彼の書物には
『知内川、源千軒岳にして、岳の南西の川是に集まる。ハキチャリの東にて東西の川々と合わせて知内川に至る。・・・此の岳元和の頃開礦に成りし時は、麓に山丁(かなほり)千余軒も移住して住みしと。依て此名有なり。・・・越えて休息所茶屋一軒有。・・・しばし過ぎて茶屋峠、知内峠とも云。右の山方山脈千軒岳、左知内岳に距る。四時とも雪有て眺望よろし。此所を以て知内、福島の境とす。九折恰も蜀嶮の桟も如ㇾ此と思はる処をしばし下り従十八丁峠下人家一軒。・・・・是福島川の右股の源なり。福島川、源は此所より左峠の後ろに入り、千軒岳の麓に至る。水清冷にして魚類少し。・・・予三月頃(注釈:安政三年四月二日・・・陽暦5月5日)深雪の中通行せし時、辛夷(こぶし)処々に咲きたるを見、また山芍、福寿草、白根葵・・・雪間に萌出て咲きたりしが、いとおもしろかりし。』とこの古道のことを書いている。
私たちが歩いたのも5月、彼よりすこし後の時期にあたる。山道には彼の記録にある「シラネアオイ」も散りそうな状態であったが、昔から咲いていたのだ。
松浦武四郎の記録にある「茶屋」と「茶屋峠」はコースの途中にある。

「殿様街道」入り口の説明版。奥の方に残雪の千軒岳が遠くに見えている。

私がウオーキングの参考に持って行ったのは知人のsakagさん「一人歩きの北海道山紀行」hpの管理者)のコースマップです。

最初は、「熊出没中につき・・・」の看板がある「クリ林」の奥からブナの快適な山道をしばらく歩いて「砲台跡」の広場に着く

「砲台は明治元年10月末頃作られ、砲・300匁2門設置」とあり、調べると、松前藩が箱館戦争に備えて急遽設置したらしい。土方歳三率いる700人が松前城へと向かうということへの対処。
砲台写真

白根葵

途中にあった道しるべ「知内領・国鉄松前線跡」

しばらく歩いて「ブナの森100年観察林」の標識があった。森林は大満足・・・空気が爽やかで、美味しい。

国鉄松前線跡と茶屋跡への道しるべもある。

旧国鉄松前線跡(茶屋沢鉄橋)

鉄橋2・トンネルは閉鎖されている。

説明版には開通 昭和17年11月1日 48,56m(福島地区)
     廃止 昭和63年1月3日
鉄橋を渡り、急な坂に張られたロープを使いながら、下り、丸木橋の架かった川を何箇所か通り、茶屋跡に着いた。

茶屋跡

殿様街道と書かれた古い木柱

ブナの巨木・兵舞林道分岐の標識がある。兵舞林道は福島川に向かうようなので、茶屋峠方向へ行く。

ブナの巨木

説明版によると、樹齢約200年、幹周り335㎝、樹高24mで、地元の古老によると御神木として大切に保護してきたとのこと。
新緑の中、野鳥の鳴き声を聴きながら、アップダウンがあり、結構大変な街道と感じたので、昔の人はこの道を使うした交通手段がなかったのか・・・殿様は馬に乗ったのか、それにしても細い道急な道、楽な道ではないと感じた。
でも松浦武四郎の通過した時代に茶屋があったのだから、茶屋で働く人・松前から箱館方面への旅人も休憩所を必要としたということ・・・ですね。
この街道は約3時間位のコースとのこと。私たちは大自然を満喫しながらと言いたいが、年齢的にゆっくりペース。
勿論このエリアはクマのテリトリーであるので「入らせてください・・・」という思いと「出会わないように」鈴を鳴らしながらでした。
最後の目的地「茶屋峠」に着いた。

茶屋峠で休憩して、その後は緩やかな下り坂で、駐車した場所近くに到着。
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国縫:シャクシャイン古戦場跡碑と松浦武四郎の東蝦夷日誌

2017-05-09 16:10:39 | 旅行
2017年、5月3日、ゴールデンウイーク真っ最中。国道の混雑を考え、函館から大沼ICから高速利用。国縫で降りて目的地へ向かう。
 此の地については松浦武四郎の「東蝦夷日誌」の「山越内領」に八雲のサカヤ川~遊楽部川を遡行したり、その後山崎・黒岩のことを調査してモクンヌイ川に辿り着いている。
 『此の邊より平地にて砂濱。フイウシナイ過てホロナイ(川有、漁や、雑くら)夷家有、出稼多し。モクンヌイ(幅七八間、船有)モは小さき、クンヌイは暗き義、水濁れるが故、故號。又此方より行くも、彼方より來るも、此邊にて暗く成故ともいへり。・・・左本川、其源エナウシ岳より來る。
 シツナイ(静内)なるシャクシャイン此所迄押寄る來るや、蠣崎佐左衛門、爰に陣を取て、山中の金丁共を九百六十人程呼寄障けるに(ふせぎける)、日本方は鐡炮、夷等は毒矢にて、互いに射合えども、日本方の甲冑の鍛えよければ通らず。朝より午刻過迄に夷方五十餘人うたれ候得共、死骸を日本方の目に懸らざる様によく隠したり。・・・』・・・(中略)「夷共志通苅(静狩)山へ逃行しが・・・」
君縫・・・此邊シャクシャインの古戦場なりと云り。』と書かれている。

現在の国縫にあるシャクシャイン古戦場跡碑は2016年(平成28)9月建立されたものである。
場所は国道5号線の旧国縫小学校グランドにあり。
旧国縫小学校・中学校閉校石碑(ここに学ぶ)

シャクシャイン古戦場

石碑の説明には
『一六六九(寛文九)年和人との交易の不平等に怒りをつのらせたアイヌのあさシャクシャインがアイヌモシリ金城に呼びかけ、呼応したアイヌによって軍編成、松前藩に対する一大軍事蜂起となった。
 シャクシャイン軍は七月末にはクンヌイに到達し、クンヌイ川を挟んで松前藩と対峙する。
 アイヌの毒矢と和人の鉄砲の打ち合いが続いたが、やがてクンヌイに指揮官松前泰広が合流すると武力に劣るシャクシャイン軍は後退を続け、オシャマンベからさらに本拠地シベチャリ(現新ひだか町)まで後退させられた。
 シベチャリに退いたシャクシャインは松前藩との和睦をよそおった酒宴で殺され、戦いは終焉に向かった。』
古戦場のあった国縫川(シャクシャイン軍と松前郡が対峙・・・

新ひだか町真歌公園にあるシャクシャイン城址

シャクシャイン像

因みに松前城公園には「耳塚」という碑がある。
昨年、秋訪ね、松前城裏側に「耳塚」を見た。この説明碑には「シャクシャインの戦いで処刑されたアイヌの首謀者14名の首を持ち帰る代わりに耳をそぎ落とし、埋めたといわれるところです。
耳塚写真


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札幌市の創成川を掘った大友亀太郎と玉ねぎ

2017-04-06 19:54:46 | 旅行
2年前(2015年11月)、札幌に用事で行った時、時間があり大通りを歩いてテレビ塔の東側の創成川沿いを散策した。小公園になっている川沿いに銅像があるので、見たら大友亀太郎像と説明版があった。
何気なく見ている創成川も単なる札幌市を東と西の境目ではなく、150年も前の先人の苦労の上に大都会と発展した姿があると思った。創成川は「大友堀」とも言われているよう・・・。
創成川の大友亀太郎銅像

説明版

『札幌開拓の先駆者と大友亀太郎は天保五年(一八三四)に現在の神奈川県小田原で生まれ、二宮尊徳の門に学び「人の一生は金銀財宝に富あるにあらず。積善の道に如かず。を信念とした。安政五年(一八五六)には箱館奉行に蝦夷地開墾の計画書を提出するとともに、石狩地方開拓の命を受け、札幌市東区(旧元村)に土地を選んで開墾し、札幌の街づくりの発端となった・・・』と説明がある。

私たちは史跡めぐりで、昨年札幌に行った時、気になっていた「大友亀太郎の記念資料館」のある札幌村郷土記念館を訪ねた。記念館は休刊日で庭木の作業をしていた方がおり、函館からここを訪ねる為に来たが・・・残念・・・「札幌村の道路元標」がこの地にあると調べてきたという話をしたら、セキュリティーが厳重であり、その方へ連絡してくださった。
お手数をかけましたが、お陰様で、北海道開拓の貴重な資料を見せていただいたり、大友着任150年の資料までいただきました。

記念館前(大友亀太郎着任(平成28年で丁度150年目)


彼の銅像

記念館前庭にある「玉ねぎ栽培」の石碑

階段上段の「玉ねぎ作業の絵」

パンフレットには札幌村の玉ねぎ栽培はこの地に始まる。札幌村の繁栄は玉ねぎがもたらしたと言っても過言ではない。・・・「札幌黄」という種類のものに発展した・・・とも書かれている。

札幌村道路元標写真
『ルーツは明治6年、太政官の通達によって、東京の日本橋・京都では三条橋の中央をもって国内諸街道の起源の元標となった。』函館や各地にも残っている。道路元標の石碑サイズ・型はみな共通している。

丘珠獅子舞獅子頭

「明治25年丘珠神社が創建された後、富山県から移住した人々によって獅子舞が持ち込まれ、今日まで正しく伝承されている。昭和49年札幌市無形文化財に指定された・・・と記録されている。

今回の旅でもあきらめかけた内部見学も偶然にもお逢いした館長さんの計らいで見せていただき感謝でした。
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簾舞通行屋を訪ねて

2017-04-04 20:33:36 | 旅行
訪ねたのは2016年5月22日、中山峠を過ぎて、国道230号線の途中から左折して「旧黒岩家住宅」に着いた。
目印は、櫓と井戸。

黒岩家は「みすまい通行屋として明治5年~17年、黒岩家として明治18年~昭和57年まで使われていたようです。
道路を挟んで、「みすまい通行屋緑地公園」と彫られた大きな石が玄関の手前にある。

緑地公園の石と家屋写真

建物の西半分は、明治4年10月完成の本願寺街道の開削に伴い、開拓使や旅人の宿泊、休憩の便宜を図るため、札幌と定山渓間に宿泊所が必要と考え、翌5年1月みすまい通行屋(屋森:黒岩清五郎)として建てられ、17年に廃止されるまで利用された。その後、19年、新道(現旧道)が完成されるとともに、翌20年頃現在地に移築し、東半分を農家として増築し、黒岩家が農業の傍ら、大正7年定山渓鉄道が開通するまで宿舎として利用。それ以後は昭和57年に新宅に映るまで住宅として利用された。・・・当時、平岸以西、定山渓までは黒岩家一戸のみであった・・・と由来に説明されている。

由来版

井戸



通行屋内部は資料館にもなっており、玄関には当時のかまどなどがある。


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喜茂別から中山峠「東本願寺道路」北門開拓の碑へ

2017-02-14 23:16:12 | 旅行

2016年5月22日、喜茂別町の史跡「道しるべ」の碑を訪ねた後、次の目的地に向かい、喜茂別から国道230号線中山峠へ向かった。
峠の頂上には道の駅などがあるが、私たちは「本願寺道路」を開削したという僧侶の碑を目的としていた。北海道の開拓がまだ十分ではなかった時代、道路の必要性を説いた安政の探検家松浦武四郎であることも訪ねたいという理由の一つであった。
 峠の頂上に着いたら、まだ残雪が所々にあり、銅像には近寄れたが、台座の文字が雪に埋もれた状態であった。
「東本願寺道路」は明治初期石狩の国の札幌と胆振国尾去別(現在の伊達市長和と平岸の間に道路を開削しその労力には僧侶や士族と平民、アイヌが従事した。この経路は従来からアイヌが通行しており、江戸時代には松浦武四郎らもアイヌの案内で通っていた。
道路の起点である伊達市長和の碑は2015年10月13日に訪ねているので、その石碑

因みに、北海道函館水産高等学校(北斗市七重浜)の側にも「本願寺道路」の説明版がある。

説明版

中山峠の北門開拓「現如上人像」と雪に埋もれている「本願寺道路碑」


中山峠を札幌方面に進み、簾舞の目的地に行った。
札幌市簾舞の中学校附近に札幌ふるさと文化百選・本願寺街道」の説明版がある。

マップの拡大図

説明には・・・
『簾舞二星岱麓の南側および旧「山の上」(現みすまい団地)と称したところ、札幌の黎明期、僧侶たち一行が困苦欠乏に窮しながらも敢然と未開の大原始林に挑んで一条の道路を開削した「本願寺道路(別名:有珠新道)の跡がある。
安政年間、虻田から洞爺湖を経て札幌に入り、「川に従い虻田、有珠に道を開かば、その便利いかばかりならん」とその必要性を説いたのは幕末の探検家松浦武四郎だった。
 明治時代、新政府にとって北海道の開拓は急務で、特に太平洋側と札幌本府を結ぶ道路は必要不可欠であった。同2年、本願寺は「新道切開」移民を奨励」「教化普及」の目的に寄り、政府に北海道開拓の官許を得て、翌3年、若干19歳の法嗣現如上人が中心となり、新道の開削を始める。
 特に、札幌と函館を結ぶ重要道路として工事に最も力を入れたのは尾去別から平岸までの道路(約104㎞)の事業で山間渓谷難所続きも1年3ケ月の突貫工事により4年10月に完成させた。それは、現在の国道230号線の原型となったもので、当時の姿の一部を簾舞でしのぶことができる。
また、明治5年1月開拓使は、この道を利用する旅人へ宿泊休憩など便宜を図るために「通行屋」を開設、屋守の黒岩清五郎一家がこの地の最初の定住者となり、簾舞開拓の原点となった。
 この街道が後世、地域発展に大きく貢献したことは言うまでもない往時を知る貴重な「史跡である。』と書かれていた。(平成8年10月10日 簾舞通行屋保存会)
この説明版を見て、矢印にしたがって、「中学校」に行った。
校庭の少し広い場所に駐車させてもらい、石碑を訪ねた。
校舎の裏にある道しるべ
 
本願寺道路跡で(往時の街道に立つ

学校は日曜日なので誰もいないように思えたが、お帰りになる先生に出合い、校舎の裏にある「本願寺跡地」を訪ねたことを伝えると、「学校でも生徒に教えている。」ということでした。郷土の歴史にじかに触れることのできる場でもある。先生は校長先生でした。
この後、本願寺道路の終点碑がある平岸の天神山附近に向かった。
終点石碑と説明版


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