癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

箱館歴史散歩の会復活・第1回「函館ぶら探訪」ほか

2016年04月24日 | イベント鑑賞・参加

集合場所の啄木小公園に集まった人々

 昨年まで137回も続いていた「箱館歴史散歩の会」の主宰中尾仁彦氏が、1年間の充電期間を経て、復活となった。それも、名前が「函ぶら探訪」に変わったようだ。

 今日は記念すべき復活第1回ということや、探訪テーマが初の「啄木小公園~自衛隊通り付近巡り」ということもあり、120名ほどが参加していた。

 コースは、啄木小公園~国道278号線(漁火通り)(日本初の有料道路)~砂山跡~函館市営競輪場~旧湯の川村と函館市の境界線~乃木神社~陸上自衛隊函館駐屯地~御閲覧記念碑~陸軍用地境界柱~柏木電車車庫跡地だったが、午後から会議が入っていたので、乃木神社に着いたところで、残念ながら帰らなくてはならなかった。


○啄木小公園

 本郷新製作の啄木の銅像の下に歌碑「潮かをる 北の浜辺の 砂山の かの浜薔薇よ 今年も咲けるや」が刻まれているが、当時の砂山はこの辺りから東川町付近まで広がっていたので、ここで詠んだ歌ではないだろうとのこと。
 啄木は、大森浜と呼ばれていた当時の宝来町の海水浴場に良く行っていたようなので、そこで読んだ歌ではないかとのことだった。
 啄木は砂山の歌を5首詠んでいる。函館在住時の歌は60首と言われている。


西条八十の啄木に捧げた歌碑

 「眠れる君に捧ぐべき 矢車草の花もなく ひとり佇む五月寒 立待岬の波静か おもひでの砂ただひかる」
 西条八十は、啄木を非常に慕っていて、昭和26年に、啄木の墓を詣で、この歌を詠んだとされる。
 昭和34年に、函館市の惣菜ライオンズクラブが八十直筆の歌碑をここに建立。

○砂山跡
 明治16年の地図には「大森砂丘」と記されていて、東川町からこの辺りまで、東西1km、南北300m、高さ30m以上の砂山があった。
 大森町は、砂が大きく盛り上がっていたこと、高盛町は、砂が高く盛り上がっていたことが町名の由来とのこと。
 昭和30年代までは砂山が残っていたが、中野ダムの建設工事に使って、それ以降は面影がなくなった。それまでは、スキーも滑れたそうだ。

○わが国最初の有料道路と言われている国道278号線(漁火通り)
 大正7年に実業家・松岡陸三が松風町~湯の川温泉までの4.3kmを借り上げ、日本最初の有料道路を造り、6人乗りのフォード3台をバス代わりに走らせた。現在の啄木亭の庭園は松岡陸三の邸宅だったところで、庭園は当時のまま残されている。舗装は昭和31年。「漁火通り」の名称は平成3年で、それまでは海岸通りと呼ばれていた。

○函館市営競輪場

 昭和25年、全国で47番目の公営競輪場として開業。競馬場と2つあるのは全国でも珍しい。
 戦後復興のために造営され、ずっと黒字が続いていた。最近は赤字経営のようだ。
 現在は冬期間にスケート場としても利用されている。
 
○函館少年刑務所

 少年刑務所は、北海道ではここだけで、全国で6ヶ所。初犯の人が多く、職業訓練が中心。辻向いに展示販売所がある。約580名ほど入所しているが、少年は4~5人ほど。交通違反の犯罪者が60名ほど。

 少年刑務所になったのは、昭和18年で、その前は函館刑務所。
 函館刑務所は、幕末には宝来町の高田屋嘉平衛の銅像の右手付近、明治2年には今の元町公園、明治6年には今の消防本部のあるところ、明治8年には千代台公園の裏、昭和2年に現地に移転。平成17年に全面改築。

○旧函館市と湯の川村の境界線
 現在の通称競輪場通り。今の半分以下の広さだった。合併は昭和14年。

○乃木神社

 乃木将軍を慕う人々が大正5年に創建。1964年(昭和39年)に東京の乃木神社に寄進されて函館分社となった。

○陸上自衛隊函館駐屯地

 昭和25年に警察予備隊が創設され、同年10月に第2連隊第3大隊が道南防衛の要であるここ函館に移駐した。 
 その後、第106特科大隊、第101教育大隊の時代を経て、第28普通科連隊が、昭和37年に当地に移駐し、平成20年に旅団内連隊となり引き続き、函館駐屯地の基幹部隊として今日に至っている。


○退職組織渡島支部開設20周年記念式典・祝賀会

 午後からは、自分が函館支部長と北海道本部の副会長を仰せつかっている退職組織の渡島支部の定期総会・設立20周年記念式典・祝賀会に、来賓として招かれた。総会の挨拶と式典の祝辞をお願いされた。
 前身は「函館渡島檜山地区支部」として30年間の歴史がある。平成8年に3支部がそれぞれ分離独立して、20周年を迎えている。
 函館支部も、5/15に定期総会と設立20周年記念式典・祝賀会が予定されていて、現在その準備が総仕上げの段階になっている。