つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

美の法門

2018年03月15日 | 日記・エッセイ・コラム

先日、名古屋高島屋さんの柳宗悦と民芸運動についての展覧会に伺いました。


SALEでお買い物をさせていただいたら、チケットを頂けましたので、最終日に軽い気持ちで入場してみますと、これがなかなかの見応え。

柳宗悦の目、思想に改めて興味を持ち、こんな本を購入いたしました。

 



民芸運動は、復古的な意味を持って作家たちが新しい作品を作り出したと
頭のどこかで勝手な理解をしていました。

が、
もともとは、日本人の、名もなき人々が作り出した、とびきり美しい日常の道具を、見直し、大切にしようという運動だったことに気づきました。



そして、実際に宗悦などが集めた日本中の道具をこの展覧会で鑑賞してみますと、その美しさに溜め息がでました。
全国には、民芸資料館が沢山あるのだそうです。
これからは、旅行のついでなどに、是非立ち寄らせて頂こうと思っています。



美の法門は宗悦が60歳、還暦を記念して製作された本です。
美しさというものの解釈を、宗悦は力強く語っています。


展覧会で紹介してくださっていたものも含め、柳宗悦の言葉をいくつか抜粋させていただきますね。


「心はものを離れてはなく、また物も心を離れてはあるまい。」


「民芸は必然に手工芸である。神を除いて、手より驚くべき創造者があろうか?」


「美しい人形は人間よりもっと人間の美しさを示している。」

「美は哲学上「価値」と呼ばれるものの一つであるが、価値である限りは、内に無上性を持つものであって
単に醜に対する美に止まるがごときものではない。もし止まるなら相対値に過ぎぬではないか。
それが絶対値に触れる限りは、永遠なるものと結ばれていなければならない。

この永遠なるものをこそ「聖なる世界」と呼んでいるのである。

それ故美も亦宗教の本質に交ることなくしてはあり得ない。美の法則と信の法則と異なる

いわれがない

「私は美の国を建設したい。
かかる王土の具現には、衆生の済度が約束されていなければならない。
どんな人がどんな物を作るとも、本来はそのまま美しさの世界に摂取されるように仕組まれていなければならない。

とりわけ名もない工人たちが数多く作る民芸品が、必然に救われるその原理がつきとめられねばならない。

然るに、その可能を鼓舞する実例が山ほどある。誰が何を作ろうと皆美しくなってしまうことがあるのである。

それも各々のものが優れた芸術家になり得て、かかる結果を生むというのではない。凡てがあるのままの状態で救われるというのである。

この事実なくして何の希望があろうか。この世にはどんなに多くの下凡の性から離れ得ぬものがいるであろう。だが有難くも

それが誰であろうとそのままで素晴らしい仕事が果たせるのである。果たせる道があるのである。果たせないのが嘘なのである。

醜いものは只の迷いに過ぎない。この真理の見届けなくして、何の光明があろうか。」

 

 

囲碁クラブのお帰りに、立ち寄ってくださった80代になられるお客様が

しばらくこのテーブルでお話されたあと、ふと「これ李朝だね」とお尋ねくださったので

「はい、本当は筆立てなのですが、一応商品ですので筆をたてるわけにもいかず、今日はおとしを入れてお花を飾らせて頂きました」

と私がお答えすると、「それでいいんだ。それぞれの楽しみ方で綺麗に見えるからね」と言ってくださいました。

 

「醜いものは只の迷いにすぎない」柳の言葉をこれからもしっかりと受け止めてゆきたいと思っています















 

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