これを書かせていただきたいと思ってこの一、二週間を過ごしました。
最初に受けた印象をそのまま上手くお伝えできればいいのですが、、
「伝えたい美の記憶」は先日伺った東京の畠山美術館さんで求めさせていただいた冊子です。
畠山美術館の創始者、そして荏原製作所の創業者である 即翁 畠山一清を義父に持ち、鈍翁 三井物産の創業者 益田孝を祖父の兄に持たれる、現在の畠山美術館館長、畠山向子さんが所蔵作品の解説やそれにまつわる思い出をお話しされています。
その中にこんな記事を見つけました。
光悦の名碗「不二山」と「雪峯せっぽう」。
旧姫路藩当主・酒井忠正からこれらの名碗の譲渡を申し出られた即翁は、「不二山の酒井家か酒井家の不二山か」というほどの縁をおもんばかり、「雪峯」を選び譲り受けます。
以後「雪峯」は即翁愛蔵の名器として知られ、大切な茶会に使われるようになります。
入手して2年後、同世代の数寄者・森川如春庵の懇望により、即翁は茶碗披露の茶会を開きます。
が、
茶会が終わると「明晩、自分の光悦茶碗、乙御前おとごぜで一服差し上げたい」と如春庵の挨拶。
即翁はそれなら雪峯をみせるのでなかった。
後礼の手紙がくるわけでもなく、浅ましいことだと嘆きます。
10代で光悦茶碗二つを所持した道具好きの如春庵にしてみれば、即翁も自分の光悦茶碗を見たかろうという軽い思いだったのでしょう。
けれども、即翁には愛する「雪峯」が比較の対象、単なる道具と扱われるようで、とても割り切れなかったのでしょう。
光悦茶碗をめぐる二人の茶人のお話です。
と書かれています。
森川如春庵は、この愛知県一宮市の大地主の家に生まれ、10代の頃より、古筆、名器など美術品を次々と集めた日本を代表する明治20年生まれの茶人です。先程の益田鈍翁の晩年にその親交を深くしたことでも有名です。
その蒐集ぶりは、強運、または半ば強引という印象を受けますが、それ故に集められた作品は超一級のものばかり、またその美意識の高さに驚かされるばかりです。
ここに触れさせていただいた即翁と如春庵の光悦茶碗に関わるお話を皆様はどのように感じ、お読みくださったでしょうか?
即翁の気持ち、如春庵の気持ち、どちらもわかる、そうお思いだったでしょうか?
自分でもびっくりしたのですが、はじめ私は即翁の気持ちがよくわかりませんでした。「なぜ浅ましいと嘆く、怒る?」
この即翁と如春庵の「茶の心、おもてなしの心」の違いは勿論、個性の違いも大きいかと思うのですが、どうも地域性の問題も多く含んでいるのではないかと思ってしまうのです。
名古屋に嫁ぐ前の私なら真っ先に
「何とも無礼な如春庵。
結局自分の茶碗を自慢したかっただけか、、お行儀が悪い。」
そう思った事でしょう。
そして如春庵は実際その通りの人でもあるのでしょうけれど、
[今日は嬉しかった、では明日私の茶碗もお見せしますね。]
こうした自分の懐に入れてしまった人への無防備感。
この地域独特の人懐っこさも感じ、この頃の自分はこちらに近い様にも思います。
人と人の距離感は地域や文化によって随分違いますね。
どんなに事業で成功をおさめ、資産があり、茶の湯に精通していても、人同士の心、思いやり、おもてなしの心には隔たりを生みやすいのだということを学びます。ましてや海を越えて住む人々への思いやりを持つことはどんなに難しいのでしょう?
集める美術品を通し、何を得るかも人それぞれだろうと思いますが、私はやはり美術品に触れながら「流され、変化することを恐れない心」を養ってゆきたいと願います。
集めるという行為がもう、〝ここに止める〟〝仕舞っておく〟という強く、固い欲なのですから、余程懐の深い自分を保たなければならないと思います。
最後に、あの益田鈍翁が家中のトイレに貼っていたという「紙」に書かれた内容を畠山向子さんがこの冊子でご紹介くださっているのでここに書かせていただきますね。
「丸くなれ四角くなるな我が心
感謝で暮らせ今日の1日」
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