草庵雪夜作
回首七十有餘年
人間是非飽看
破 往来跡幽深
夜雪 一炷線香
古窓下
良寛
首を回らせば七十有餘年
人間の是非 看破に飽きたり
往来の跡は幽かなり 深夜の雪
一炷の線香 古窓の下
良寛
昨日未明から雪が降り、ふとこの良寛の文字のことを思い出しました。
良寛の文字を熊谷守一はその著書の中で「良寛のことは人からいろいろ聞いて、乞食坊主かと思っていましたが、そうではなく文化人で字が綺麗すぎると思います。鉄斎はみな上手だといいますが、私もそう思います。」と書いていました。
良寛の書には嘘がある。
守一はそう思ったのかもしれません。
今の私には守一の作品は強すぎて、案外嘘をつき続けたのは守一だった気がしてしまいます。
雪は溶けてなくなっていく。線香の煙は一瞬真っ直ぐに立って、そのまま消える。
草庵雪夜は良寛の亡くなる直前の詩です。
守一のお文字は画家の書く絵。
良寛のお文字は、書家の書。(味噌をおくれ!というメモ書きまで作品とは思っていません)
そう思えば、この線と線の交わりを徹底して避け続ける、また文字の間に沢山の余白を持たせる良寛の文字をやはり私はとても美しいと思うのです。やはり美は愛です。
雪の日の後の、今朝の朝明けは格別綺麗でした。
週末は暖かくなるそうですので、もう少しこの寒さに耐えようと思います。
面白い。
守一は特に晩年の風貌などから「仙人のような人」という印象を持たれることが多かったのでしょうが、特に彼の初期の作品などを見ると「さにあらず」という印象を受けます。
守一はフォルムを探求するようになってからカラーブロックを用いるようになりました。これらは確かな美意識やテクニックを要するもので、決して純真無垢な?子供のような?絵ではないのです。
個人的には、晩年の守一からは「枯淡」を感じることはありません。それは書でも同じことです。
良寛は、時間をかけて味わいたいものです。
大変嬉しく読ませていただきました。いただいたコメントをそのまま新しい記事にさせて頂こうかとも思いましたが、守一ファンも沢山いらっしゃると思うので結局こちらに書かせていただくことにしました。
嘘というのは、生きていれば誰もが理想と現実の間に持ち合わせてしまうものだと思います。長く生きていると、益々本当の自分がわからなくなるということもあります。守一は「卑怯で弱虫だから長生きができた」と自身でも言っています。
そう言った意味では良寛も卑怯で弱虫だったのだと思うのですね。
結局、卑怯で弱虫でないと、神様は芸術的感性を与えてくれないのかもしれません。
守一の嘘については、Kさんが書いてくださった事に「なるほど、そうだよなぁ」と思わせていただくほど納得してしまいましたが、同じ卑怯で弱虫でも守一と良寛では「ひとり」の時間が圧倒的に違っていただろうなぁと思えるのです。守一には家族がいたという事です。家族、特に奥様がいらしたことは守一の大きな力になっただろう、孤独の淵に追いやられることは良寛より少なかっただろうと思えました。
私は守一作品なら裸婦が1番守一らしく好きですが、あの色気、あの男性の目線はKさんのおっしゃる通り「枯淡」には程遠く、現在守一作品が香月康男とともに高嶺の花であるのは、案外その執拗さ、計算づくの強さに理由があるように感じます。
良寛の文字も計算といえばかなり計算し尽くされているようです。生活も清貧というより案外がめついイメージがあります。それでも、心は悲しく、清く、静かでいようとした。。。この作品を見るとその意思が感じられるのです。「今の私には」と勿論カギ括弧付きでです。
これからも、時間をかけて守一、良寛、あるいは多くの画家、書家の作品を見ていきたいと思います。
コメントをいただいて、今日もいろいろ考えることができました。感謝申し上げます。