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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



塚田ビル。中央区日本橋2-6。左:1986(昭和61)1月? 右:1984(昭和59)年1月

ビルの入り口左は「中央菜館」。右の看板が読み取れないと思ったら塗りつぶしたものらしい。右写真は塚田ビルの並び。奥は高島屋。

桜正宗ビル。日本橋2-1。1985(昭和60)年8月3日

ビルの前は永代通り。
『日本近代建築総覧』では「旧山邑酒造東京支社、S2、RC4、佐藤功一、竹中工務店」(2008.04.07追記)


はいばらビル
日本橋2-7
1985(昭和60)年9月8日

榛原は創業1806(文化3)年の和紙を売る老舗。
『帝都復興せり!』(松葉一清著、1988年、平凡社刊)では「昭和4年/中村直次郎」。近代建築ホームページでは設計者を矢部金太郎として「中村直次郎と共同、復興建築助成株式会社資金で建設」の注を付けている。ファサードは商売を考慮してか、和風の感じ。

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昭和61年の中央通り日本橋の街並み。中央区日本橋3-1。1985(昭和61)年6月22日

歩行者天国が行われている。写真中央の丸善ビルは取り壊されて現在建替え中。



日本信託銀行本店。1985(昭和60)年4月14日

設計:矢部又吉、施工:清水組、1927(昭和2)年。1985(昭和61)年解体。
竣工時は川崎銀行本店。本格的なルネッサンス様式(ネオ・ルネッサンス様式といっているサイトもある。ぼくはその違いを知らない)の建物で、明治の建築を見るような感じだ。起工は大正10年というから関東大震災が起きなければ大正年間に完成していただろう。やはり震災復興による建物とはなにかが違う。

建物の一部が明治村に残されたが、その博物館明治村>川崎銀行本店によると、川崎銀行は明治13年に川崎八右衛門によって設立され、昭和18年に三菱銀行と合併した。また日本信託銀行の前進は川崎財閥の川崎信託株式会社で、昭和11年からこの建物に同居している。現在は三菱UFJ信託銀行になるのだろうか。銀行の推移変遷は、ぼくなどには理解のほかである。ただの「銀行」と「信託銀行」の違いも知らない。



アナログ処理の合成写真(単なる切り張り)。1986(昭和61)年1月19日


日本信託銀行本店正面玄関
1985(昭和60)年4月14日

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中央区立京橋小学校・北側。中央区銀座1-25。1987(昭和62)年4月29日

現在は京橋プラザ(1999年7月開設)になり、学校は1992(H4)年、築地小と合併して京橋築地小になり、場所は旧築地小の方に移った。
京橋築地小学校>沿革によると、京橋小は『明治42.11.25―朝海小学校(明治34~同41年度の8年間)から児童・職員全員移籍し、京橋区金六町17番地に京橋尋常小学校として開校式を挙行する。』。一方、築地小は『明治34.4.1―朝海小学校と称し、築地2丁目18番地に開設する。』とある。同じ学校から分かれて82年後、再び一緒になったわけだ。

大震災前の金六町は京橋小・京橋公園の位置とだいたい一致するようだ。明治中期までは三十間堀川が北の京橋川と合流する手前にあたる。戦後埋め立てられた三十間堀川はまっすぐに京橋川に入っていたが、もっと前には京橋川と合流する少し南側で東に曲がり、また北にクランク状に曲がって合流していた。楓川とも合わさるので川の十字路を形成していた。その頃の金六町は、三十間堀川と京橋川が並行する間にあった。明治30年頃かと思うが、三十間堀川はつけなおされている。京橋小の北西の敷地などは川を埋め立てた場所になりそうである。



京橋小学校・北西側。1987(昭和62)年10月4日撮影

手前の塀の中はプール。京橋築地小学校>沿革に『昭和4.7.18新校舎完成』。『昭和16.4.1―京橋公園プール開場式、水泳指導が始まる。』とある。
建物としてはこれといって見所はないような……。



旧京橋小学校正面玄関。1994(平成6)年10月9日



京橋公園からみた旧京橋小学校。1994(平成6)年3月20日


京橋公園。左:1991(平成3)年9月22日、右:1994年(平成6)年10月9日

写真の滑り台は保存されたが元は公園の南側にあった。入り口の低い囲いも開園当時のものだろうか。

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青戸
 ●本田屋酒店/1(2024.07.10)

金町
 ●寿湯/6(2021.02.18)
 ●西村歯科医院/6(2021.02.21)
 ●太陽堂整骨院、他/6(2021.02.24)
 ●太陽堂書店、八幡苑/6(2021.02.26)
 ●かな萬、みちくさ/6(2021.03.01)
 ●金町栄通り商店街/5(2021.05.14)
 ●さかい文具店、クラブ家/5(2021.05.17)
 ●三軒長屋、すえひろ電器/5(2021.05.20)
 ●毎日新聞専売所、アサカ薬品/5(2021.05.23)
 ●金町湯、永山薬品/4、5(2021.05.26)

金町浄水場
 ●金町浄水場の取水塔(2022.02.10)

柴又
 ●サクラヤ婦人服点のアパート/1(2022.05.02)
 ●三軒長屋/1(2022.05.06)
 ●模型くらぶ/4(2022.05.10)
 ●丸枡染色/4(2022.05.14)

東金町
 ●金町アパート(2022.01.30)
 ●ETCダンススクール(2022.02.13)

東立石
 ●本田屋本店、鮮魚店/4(2019.05.19)
 ●勝メガネ店、キヨタ菓子店/4(2019.05.20)
 ●立石荘、安藤医院/4(2019.05.24)

立石
 ●美濃屋脇坂商店/8(2019.05.17)
 ●理容スズラン/1(2019.05.22)
 ●立石駅北口の飲み屋街/4(2019.07.09)
 ●呑んべ横丁/7(2019.07.13)
 ●理容スズキ/7(2019.07.15)
 ●正起屋、永井靴店/7(2019.07.17)
 ●雪風ガレージ/8(2024.07.28)

水元公園
 ●閘門橋(2022.02.03)

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木挽町西通りの一角。銀座1-21。1987(昭和62)年5月

当ブログ前回の中村畳店の向かいにあたる。この道路には「木挽町西通り」という愛称が付いていた。ビルが2棟建っているが残りは震災後に建った商店のようで、改装もあまりされていないようなのもある。写真左端の駐車場の空き地には、銅板貼りの看板建築が建っていた(ような気がする)。



玉屋文具店。1987(昭和62)年4月29日

玉屋文具店は『中央区沿革図集』の「昭和20年代火保図」に山田酒店、中村畳店、馬場薬局と共に名前が載っている。中野洋品店はこの地図の「中心堂洋服店」だろうか。
下の写真の銅板貼りの家は『下町残照』(村岡秀男著、1988年、朝日新聞社出版刊)に、元は海苔問屋だったとある。

左:銅板貼り民家、1991(平成3)年9月22日。右:中野洋品店、1987(昭和62)10月4日


牧野屋商事
1987(昭和62)年5月

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馬場薬局。中央区銀座1-20。1986(昭和61)年9月7日

昭和通りの北側なので「銀座」という感じはしない。撮影時では、戦前の木造家屋もけっこうあって隣町の新富町の雰囲気に近かった。もともとは木挽町である。馬場薬局の建物は西洋館の住居風で商店の構えではない。隣が中村畳店。




中村畳店
中央区銀座1-20
上:1985(昭和60)年6月9日
左:1991(平成3)年9月22日

旧町名「銀座東」の住所表示板は、この住所になった1951(昭和26)年から、郵便受けに取り付けられていたのだろうか。その郵便受けも相当古そうで、ひところはスタンダードの一つだったが、最近はまず見かけない。現在の銀座1~8丁目になったのは1969(昭和44)年から。

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小松川
 ●旧小松川閘門/1(2021.07.29)
 ●小名木川排水機場、小名木川水門/1(2021.07.31)

東小岩
 ●旅館敷島/5-民家(2018.04.12)
 ●花火屋酒店、洋館付き住宅/5(2021.09.28)

東篠崎
 ●江戸川水門(2021.09.28)
 ●江戸川閘門(2021.10.02)

南小岩
 ●竿辰、マルイ漬物店/7(2018.01.13)
 ●ミヤザキ花店、他/7―小岩ラジオ商会、オオタニ家庭金物店(2018.01.15)
 ●リシャール、他/7―ABCファミリー衣料店、マルキ屋寝具店(2018.01.17)
 ●篠田屋酒店、八百屋/8(2018.01.19)
 ●ビニタ、わたでん/8(2018.01.21)
 ●ダイチューデパート/8(2018.02.21)
 ●ふぁと防犯センター、森田屋/8(2018.01.23)
 ●理容セキモト、須永表具店、川宗園茶舗/8(2018.01.25)
 ●エチゴヤ質店/8(2018.01.27)
 ●青木質店、洋風の民家/8(2018.03.01)
 ●桶新氷室/3-平屋の看板建築(2018.04.10)

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上:東京証券
中央区日本橋兜町8
1985(昭和60)年4月14日
もしかすると戦後の建築かもしれない。前の道路はかつての海運橋の通りで、ビルが建つところは大震災前には「坂本町」といった。


下:1997(平成7)年7月27日
看板が「東京投信」に変わっている。右隣のビル「千代田證券」も上段の写真を撮った1985年には「岡三投資顧問・岡三證券・岡三ファイナンス」の看板だった。

追記(2008.03.29)
『日本近代建築総覧』の遠山証券KK(旧遠山商店)である。竣工:昭和10月5日、設計:北村淑人、施工:竹中工務店。

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山吉証券
中央区日本橋兜町1
上:1985(昭和60)年4月14日
下:1986(昭和61)年1月12日

1932-33(昭和7‐8)年頃、清水組の施工。
日証館ビルの並びにあった。外見はコリント式オーダーの古典様式をアレンジして、小さいながらけっこう風格を出している。柱頭のアカンサスの葉はアールデコだろうか。

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日証館ビル。中央区日本橋兜町1。1984(昭和59)年6月24日

横河工務所の設計、清水組施工で1928(昭和3)年の建設。
今は4・5階上の軒が直線になっているが、1950年代の写真を見るとヨーロッパの城のような細かいアーチの連続で(ロンバルディア帯というらしい)、4階の窓の中央部6箇所に半円形のバルコニーが突き出ている。
今は首都高と駐車場になってしまったが、かつて楓川(紅葉川もみじがわ)が日本橋川から分かれて京橋川に通じていた。その河口に近いところに兜橋が架かっていたが、写真はその兜橋の東の際からの眺めに当たる。左の木立は兜神社。渋沢栄一が1879(明治21)年、洋館の家を建てた場所だ。『中央区沿革図集』の「大正元年日本橋地籍地図」では、兜神社と日証館ビルを合わせた場所に「渋沢事務所」とあり、写真右の「山加証券」のところが兜神社だ。
テナントが出している看板の文字を書き出しておく。「大成証券」「茜証券」「日本橋公証役場」「山文証券」「公社債新聞」「五場証券」「中原証券」。



日証館ビル1階の玄関ロビー。奥の窓の外は日本橋川。1986(昭和61)年9月7日


日証館ビル
1985(昭和60)年4月14日

左に建替え前の東証が写っていて、日証館ビルを半分隠している。日証館ビルの裏は日本橋川で、江戸橋と鎧橋の間になる。この辺りでは川幅が広がりカーブしている。道路が折れ曲がっているのは日本橋川に沿った道だからだ。
日本橋川の曲流は埋め立て前の海岸線であった名残りであるらしい。だとすると、自然地形がほとんどない東京下町、それも都心部でこういう道路が現れることはきわめて珍しいことだと思う。
ここがビジネス街になったのは、渋沢栄一が目をつけたからだ。1975年あたりまでは、ビジネス街といえば、丸の内、大手町に兜町だけであった。

清水建設/シミズの歴史/清水建設二百年作品集で清水建設が建設した建築・土木の竣工時の写真を見ることができる。そこの日証館ビルの写真は川の対岸から見たもの。キャプションは「東京株式取引所貸ビルディング、東京府東京市日本橋区、1928年10月、発注:東京株式取引所、設計:横河工務所」で、家主は東京株式取引所(現・東京証券取引所)だったと判る。

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