
閘門橋。葛飾区水元公園。2003(平成15)年11月26日
閘門橋は水元(みずもと)公園の西北端にある、大場川に架かる古い水門。1909(明治42)年の竣工。大場川が中川に合流する地点に建設された。中川の水が大場川に逆流するのを防ぐ目的である。建設後、大正末期から昭和初期にかけて中川の改修がおこなわれ、蛇行していた箇所をショートカットする形で流路が変わったため、中川の旧流路が大場川に編入された。新たな合流点になったところに1980(昭和55)年に「新大場橋水門」が完成するが、それまでは閘門橋が水門としての機能を果たしていたのだろうか。
建設時の名称は「弐郷半領猿又閘門」(にごうはんりょうさるがまたこうもん)で、煉瓦の上部の壁にその銘板がはめ込まれている。『きまぐれ旅写真館>閘門橋』の解説によれば、「弐郷半(二郷半)」は地名、「領」は利水や水防を目的とした共同体。「猿又」は葛飾区側の地名。「用悪水路」とは用水路と排水路のこと。「閘門」は現在では、2基の水門の間に船を入れて水面の高さを調節して川と川の間を通航できるようにする設備を言うが、昔は厳格な区別などせずに使っていたらしい。
『東京再発見』(伊東孝著、岩波新書、1993年、563円+税)によると、閘門橋が渡している道は旧岩槻街道だという。交通の往来が激しくなり、荷馬車が通れるような橋としても使える立派なレンガ造アーチ橋が東京のはずれに出来たのではないか、という。

閘門橋。葛飾区水元公園。2003(平成15)年11月26日
現在の閘門橋は改修を受けた姿である。『きまぐれ旅写真館』も『東京再発見』でも、その改修が少しやり過ぎではないかと指摘している。ぼくは撮影時にはなにも知らず、明治の完成時のままなのだろうと思っていた。というよりなにも思っていなかった。2体の人形は変に思ったが。
橋の欄干は本来はなく、改修前はガードレールが付けられていたという。現在の欄干は左右でデザインが異なる。実はぼくはそれにも気がつかなかった。普通はありえないわけで、後の改修と分るようにしてあるのだろうか。島のバルコニーも改修時の増築。その島と三郷市の間の煉瓦アーチ橋は修復によるもので、以前はコンクリートの桁橋だった。これについては『東京再発見』は評価している。
これらの改修がいつ行われたのか分らない。『東京再発見』には筆者が見に行ったときは「きれいに整備されできあがってからまだ半年も経ていないピカピカの閘門橋であった」そうだ。当書は1989~91年に『東建月報』という機関誌に連載された記事が元になっている。昭和末から平成初頃、となりそうだ。
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