あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

38 二 ・二六事件 北 ・西田裁判記錄 (一) 3 『 北の起訴前の供述 警察官聽取書2 』

2016年09月26日 06時02分36秒 | 暗黑裁判・二・二六事件裁判の研究、記錄

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎
一  はじめに
二  二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審訊問調書   ( 以上本号 )
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獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎

五  西田の起訴前の供述
 1  はじめに
 2  警察官聴取書
 3  予審訊問調書
 4  西田の手記  ( 以上39号 )
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獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
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獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )

七  判決
八  むすび  ( 以上四一号 )

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四  北の起訴前の供述

・・・前頁 警察官聴取書 1の 続き
(四)  昭和一一年三月一九日付第三回聴取書  ( ・・・リンク→ 北一輝 (警調書3) 『 大御心が改造を必要なしと御認めになれば、 百年の年月を持っても理想を實現することが出來ません 』
北は、この聴取書で、彼の 「 社會ニ對スル認識及國内改造ニ關スル方針 」 を説明している。
これは、『 國家改造法案大綱 』 に盛られた彼の思想を敷衍するものである。
以下、主要な個所を抜き書きする

「 日本ノ對外的立場ヲ見マス時 又 欧洲ニ於ケル世界大二大戰ノ氣運ガ醸成サレテ居ルノヲ見マス時、
日本ハ
遠カラザル中ニ對外戰爭ヲ免レザルモノト覺悟シナケレバナリマセン。
此ノ時 戰爭中又ハ戰爭ノ末期ニ於テ、
前例ロシヤ帝國、獨逸帝國ノ如ク國内ノ内部崩壊ヲ
來ス様ナコトガアリマシテハ、
三千年ノ光榮アル獨立モ一空ニ歸スル事トナリマス。
此点ハ四、五年來漸ク世ノ先覺者ノ方々ガ認識シテ 深ク憂慮シテ居ル処デアリマス。
其処デ
私ハ、最近深ク考ヘマスルノハ、
日本ノ對外戰爭ヲ決行スル以前ニ於テ 先ズ合理的ニ國内ノ改造ヲ仕遂ゲテ置キ度イト云フ事デアリマス。
國内ノ改造方針トシテハ、金權政治ヲ一掃スル事、
即チ御三家始メ三百諸侯ノ所有シテ居ル冨ヲ國家ニ所有ヲ移シテ、國家ノ經營ト爲シ、
其ノ利益ヲ國家ニ歸属セシムル事ヲ第一ト致シマス。
( 中略 )
又私ハ 人性自然ノ自由ヲ要求スル根本点ニ立脚シテ、私有財産制度ノ欠クベカラザル必要ヲ主張シテ居リマス。
( 中略 )
故ニ 私ノ抱懐スル改造意見トシテハ 日本現在ニ存スル、
一、二百萬圓以上ノ私有財産を ( 随ッテ其ノ生産機関ヲ ) 國家ノ所有ニ移ス事丈ケデアリマシテ、
中産者以下ニハ一點ノ動揺モ与ヘナイノヲ眼目トシテ居リマス。
( 中略 )
日本皇室ハ言フ迄モナク國民ノ大神デアリ、國民ハ此ノ大神ノ氏子デアリマス。
大神ノ神徳ニ依リテ國民ガ其ノ生活ヲ享楽出來ルモノデアル以上、
當然皇室ノ御經費ハ國民ノ租税ノ奉納ヲ以テスベキモノデアリマシテ、
皇室ガ別ニ私有財産ヲ持タレテ別途ニ収入ヲ計ラルクリカエシ事ハ 國體ノ原理上甚ダ矛盾スル処ト信ジテ居リマス。
( 中略 )
私ハ 皇室費トシテ 数千萬又ハ一億圓ヲ毎年國民ノ租税ヨリ、
又ハ國庫ノ収入ヨリ奉納シテ御費用ニ充テ、皇室財産ハ國家ニ下附スベキモノト考ヘテ居リマス。
此ノ皇室財産ノ國家下附ト云フ事ガ 私ノ改造意見實行ノ基點ヲ爲スモノデアリマス。」

(五)  昭和一一年三月二〇日付第四回聴取書  ( ・・・リンク→ 北一輝 (警調書4) 『 柳川では遠い 』
一  この聴取書の前半では、「 今回ノ事件ニ關スル打合セ内容及役割ノ分担等 」 について、
  これまでの北の供述のまとめがなされている。
北は、次のように幇助の事実を自認する。
二十七日ニナリ、私ハ自發的ニ電話ヲ以テ、栗原又ハ村中ヲ呼出シ、眞崎説ニ一致シテ一任スル事ヲ極力勧告致シマシタ。
又 薩摩ニ頼ンデ、加藤寛治、小笠原長生氏等ノ盡力デ 海軍側カラ青年將校ノ眞崎説ニ意見一致シタ事ヲ基としテ
眞崎内閣ノ出現ヲ以テ當面ノ時局ヲ収拾
セラルル様 働イテ貰ツタノデアリマス。」

二  公判では、蹶起青年将校その他事件関係者たちとの交友関係について説明する。
  その中で、北は、青年将校たちと会談したときの話の内容について、次のように述べる。
「 私ノ性質トシテ 理論メイタ事ヤ議論ヲ上下スルト云フ様ナ事ハ非常ニ嫌ヒナノデ、愉快ニ多ク漫談ヲシテ別レル程度デ、
 若シ改造案ニ對シテ質問ナドノ出ル場合ハ、ソンナ面倒ナ話ハ西田君ヤ諸君デ研究シテ呉レト云フ位ニシテ、
多ク話題ヲ他ニ轉ジタノデアリマス。只 其ノ時ニ私ガ關心ヲ持ツテ居ル對外策ナドニ就テ話ノアツタ場合ハ、
私モ相當処見ヲ述ベタ事ハアリマス。」

主な事件関係者との交友関係についての北の供述の要旨は、次のとおりである。
 ( 番号は、筆者が付したものである )
①  西田について
  大正十一年頃が初めての面識であった。
同一五年に日本改造法案大綱を西田に与えてから深い関係となり、前後一〇年間は生活費の大部分を私が出している。
「 所謂五 ・一五事件デ西田ガ一命ヲ拾ヒマシテカラハ、両者ノ間全ク親子ノ様ナ心持チデ居ツタ 」 という。
②  村中について
  西田の入院中に面識を得た。一〇回くらい来訪している。
③  磯部について
  二、三年前に西田に連れられて來訪した。 四、五回位会つただけである。
④  澁川について
  士官学校退学後に西田が連れて来て会った。
最近は、相澤事件公判を傍聴したというので、村中と二人で一回來た。
⑤  山口大尉について
  五 ・一五事件のとき西田の病院で会った。
それ以来ときどき来遊していたが、
昨年十月私が中野に轉宅して遠くなったので、来ていない。
もっとも、年始に澁川と来て、酒を飲んで帰ったことがある。
⑥  
安藤について
  五 ・一五事件のとき西田の病院で会った。西田と二、三回來たくらいである。
⑦  栗原について
  五 ・一五事件のときに、病院か私宅で度々会った。
「 非常ニ急進無謀ノ事ヲ考ヘル男デスカラ、私カラ特ニ注意シタ事ガ記憶ニ殘ツテ居リマス。」
⑧  香田について

  二、三回来訪したくらいである。

(六)  昭和一一年三月二一日付第五回聴取書  ( ・・・リンク→ 北一輝 (警調書4) 『 柳川では遠い 』
一  この聴取書の前半では、高級将校との交友関係について供述する。
  その要旨は次のとおりである。
①  荒木大将について
  荒木が東京憲兵隊司令官のとき一度会っただけである。
②  本庄武官長について
  本庄が上海駐在武官 ( 少佐 ) 当時に親交があった。
武官長になったときにお祝いの手紙を出したが、会ったことはない。
③  眞崎大将について    一度も会っていない。
④  建川中将について    十月事件の最中に、直接会って苦言を呈したことがある。
⑤  石原、満井中佐について    一度も会っていない。
⑥  橋本中佐について    十月事件のときに一時間ほど会った。
⑦  小磯中将、柳川中将、山岡、小畑について    一度も会ったことはない。
二  この聴取書は、関口警部補の取調べを締めくくるものとして、
  次のような北の心境についての記述でおわっている。
一、終リニ
私ノ心境ハ
 私ハ如何ナル國内ノ改造計畫デモ國際間ヲ靜穏ノ状態ニ置ク事ヲ基本ト考ヘテ居リマスノデ、
陸軍ノ對露方針ガ昨年ノ前期ノ如ク 『 ロシヤ 』 ト結ンデ北支那ニ殺到スル如キ事ハ國策ヲ根本カラ覆スモノト考ヘ、
寧ロ支那ト手ヲ握ツテ 『 ロシヤ 』 ニ當ルベキモノト考ヘ、
即チ  陸軍ノ後半期ノ方針変更ニハ聊いささカ微力ヲ盡クシタ積リデアリマス。
昨年七月 『 對支投資ニ於ケル日米財団ノ提唱 』 ト云フ建白書ハ
自分トシテハ 日支ノ同盟的提携ニ米國ノ財力ヲ加ヘテ日支 及日米間ヲ絶對平和ニ置ク事ヲ目的トシタモノデ、
一面支那ニ於テハ私ノ二十年來ノ盟友張群氏ノ如キガ外交部長ノ地位ニ就イタノデ、
自分ハ此ノ三月ニハ久振リニ支那ニ渡ラウト準備ヲシテ居タノデアリマス。
實川時治郎、中野正剛氏等ガ支那ニ行キマシタ機會ニ
單ナル紹介以上ニツキ進ンダ話合ヲシテ來ル様取計ヒマシタノモ、其ノ爲メデアリマスシ、
昨年秋、重光外務次官ト私トモ長時間協議致シマシタシ、
又 廣田外相ト永井柳太郎君トノ間ニモ私ノ渡支ノ時機ニ就イテ相談モアリマシタ位デアリマス。
年末年始トナリ、次デ總選擧ナドガアリマシタノデ此三月ト云フ事ヲ豫定シテ居リマシタ。
私ハ戰敗カラ起ル革命ト云フ様ナ事ハ 『 ロシヤ 』 獨逸ノ如キ前例ヲ見テ居リマスノデ、
何ヨリモ前ニ、日米間、日支間ヲ調整シテ置ク事ガ最急務ト考ヘマシテ、
西田ヤ青年將校等ニ關係ナク、私獨自ノ行動ヲ執ツテ居ツタ次第デアリマス。
幸カ不幸カ二月二十日頃カラ青年將校ガ蹶起スル事ヲ西田カラ聞キマシテ、
私ノ内心ニ持ツテ居ル先ヅ國際間ノ調整ヨリ始ムベシト云フ方針トハ全然相違モシテ居リマスシ、
且ツ 何人ガ見テモ時機デナイ事ガ判リマスシ、
私一人心中デ以外ノ返事ニ遭遇シタト云フ様ナ感ジヲ持ツテ居リマシタ。
然シ 満洲派遣ト云フ特殊ノ事情カラ突發スルモノデアル以上、
私ノ微力ハ勿論、何人モ人力ヲ以テシテ押エ得ル勢ヒデナイト考ヘ、
西田の報告に對して承認を与へましたのは私の重大な責任と存じて居ります。
殊ニ五 ・一五事件以前カラ 其ノ以後モ何回トナク勃發シ様トスルヤウナ場合ノ時
常ニ私ガ中止勧告ヲシテ來タノニ拘ラズ、今回ニ至ツテ人力致シ方ナシトシテ承認ヲ与ヘマシタノハ、
愈々責任ノ重大ナル事ヲ感ズル次第デアリマス。
從ツテ 私ハ
此事ニ依リテ改造法案ノ實現ガ直チニ可能ノモノデアルト云フガ如キ安易ナ楽観ナドハ持ツテ居マセン事ハ勿論デシタ。
只 行動スル青年將校等ノ攻撃目標丈ケガ不成功ニ終ラナケレバ幸デアルト云フ點丈ケヲ考ヘテ居リマシタ。
之ハ理屈デハナク私ノ人情當然ノ事デアリマス。
即チ 二十七日ニナリマシテ、私ガ直接青年將校ニ電話シテ、眞崎ニ一任セヨト云フ事ヲ勧告シマシタノモ、
只時局ノ擴大ヲ防止シタイト云フ意味ノ外ニ、
青年將校ノ身ノ上ヲ心配スル事ガ主タル目的デ
眞崎内閣ナラバ青年將校ヲムザムザト犠牲ニスル様ナ事モアルマイト考ヘタカラデアリマス。
此ノ點ハ、山口、龜川、西田等ガ眞崎内閣説ヲ考ヘタト云フノト動機モ目的モ全然違ツテ居ルト存ジマス。
私ハ眞崎内閣デアラウト、柳川内閣デアラウト
其ノ内閣ニ依ツテ私ノ國家改造案ノ根本原則ガ實現サレルデアラウナドト夢想ヲシテハ居リマセン。
私ハ 其ノ人々等ノ軍人トシテノ価値ハ尊敬シテ居リマスガ、
改造意見ニ就テ 私同様又ハ夫レニ近イ經綸ヲ持ツテ居ルト云フ事ヲ聞イタ事モアリマセンシ、
又 一昨年秋ノ有名ナ 陸軍パンフレット ヲ見マシテモ、 ( ・・・「 国防の本義と其強化の提唱 」 )
私ノ 
改造意見ノ如キモノデアルカ何ウカハ一嚮察知出來マセンノデ、
私トシテハ其ノ様ナ架空ナ期待ヲ持ツ道理モアリマセン。
要スルニ行動隊ノ青年將校ノ一部ニ改造法案ノ信奉者ガアリマシタトシテモ、
此ノ事件ノ發生原因ハ相澤公判及満洲派遣ト云フ特殊ナ事情ガアリマシテ、
急激ニ國内改造 即チ昭和維新斷行ト云フ事にナツタノデアリマス。
今日私トシマシテハ事件ノ最初ガ突然ノ事デアリ、
又二月二十八日以後ハ憲兵隊ニ拘束サレテ居リマシタノデ、
只希望トシテ待ツ所ハ
コウ云フ大キナ騒ギノ原因ノ一部ヲ爲シテ居ルト云フ私ノ國家改造案ガ、
更ラニ眞面目ニ社會ノ各方面ニ再檢討サレテ、其實現ノ可能性及容易性ガ認識セラレマスナラバ、
不幸中ノ至幸デアルト存ジテ居リマス。
即チ 如何ナル建築ニモ人柱を要スルト聞キマスガ、
青年將校 及 無力ナル私共ガ人柱ニナル事ニ依テ
大帝國ノ建設ヲ見ルコトガ近キ將來ニ迫ツタノデハナイカ等ト 獨リ色々ト考ヘテ居りマス。
以上 何回カ申上ゲタ事ニ依ツテ 私ノ關係シタ事及心持チハ全部申述ベタト思ヒマス。」

( ・・・リンク→・ 北一輝 (憲調書) 『 西田は、同志と生死を共にしようと決心した 』 )


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