あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

38 二 ・二六事件 北 ・西田裁判記錄 (一) 1 『 二・二六事件と北・西田の檢擧、捜査の概要 』

2016年09月30日 09時06分45秒 | 暗黑裁判・二・二六事件裁判の研究、記錄

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎
一  はじめに
二  二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審訊問調書   ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎

五  西田の起訴前の供述
 1  はじめに
 2  警察官聴取書
 3  予審訊問調書
 4  西田の手記  ( 以上39号 )
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獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )

七  判決
八  むすび  ( 以上四一号 )

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一  はじめに ( ・・・目次頁に 記載 )
二  二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
二 ・二六事件とは、昭和一一年 ( 一九三六年 ) 二月二六日早暁陸軍の下級将校等二十数名が中心となって、
近衛歩兵第三聯隊、歩兵第一聯隊及び歩兵第三聯隊の一部兵力など約一、五〇〇名を出動させ、
大蔵大臣高橋是清、内大臣齊藤實、敎育總監渡邊錠太郎等を殺害し、侍従長鈴木貫太郎等に重傷を負わせた上、
同月二九日までの間 總理大臣官邸、陸軍省、警視庁など
霞が関一隊を占拠して陸軍大臣に政治改革を迫ったクーデター未遂事件をいう。
川島義之陸軍大臣等陸軍首脳部は、事件勃発直後は右往左往して収集能力を失った観さえあったが、
やがて反乱将校に対する天皇の激しい怒りを受けて武力鎮圧を決意し、
戦車二二台を含む約二万三、〇〇〇名の部隊で叛乱軍を包囲し、
一時は両軍一触即発の情態となった。
しかし、二九日に至って反乱軍兵士は次々と帰順して武装解除を受け、
また反乱将校は自決あるいは逮捕されて事件は解決を見た。

北一輝こと北輝次郎は、
明治三八年 ( 一九〇五年 ) 二三歳のとき
大著 『 国体論及び純正社会主義 』 を自費出版して天才とまで賞揚されたが、
やがて中国革命同盟会に入党し、辛亥革命前後の十数年間一身を中国革命の渦中に投じ、
死生の間を往来した。
大正八年 ( 一九一八年 ) 上海において 『 国家改造案原理大綱 』 ( 後に若干の修正を加えた上、
 『 日本改造法案大綱 』 と改めた ) を執筆した後、大川周明に乞われて帰国した。
爾来北は、後に袂を分かった大川と並んで国家社会主義運動の指導者として隠然たる勢力を保った。
もっとも、北が直接青年将校を指導した事実は見当たらないが、
『 日本改造法案大綱 』 は革新的青年将校のバイブルであった。
北は法華経に傾倒し、とくに晩年は読経三昧の日々を送っていた。

西田税は、病身のため陸軍騎兵少尉を退官した後右翼運動に没頭し、北に私淑するようになった。
軍人出身のため青年将校との交際が深く、北から版権を譲渡された 『 日本改造法案大綱 』 の出版 ・頒布などを通じて、
若い将校達に影響力を持っていた。
昭和六年の五 ・一五事件の際には、裏切り者扱いをされて右翼の一青年から拳銃で狙撃され、
五発が命中したが、奇跡的に一命を取り留めた。
入院中の北の親身も及ばぬ介抱ぶりは、西田をしていたく感激せしめ、
爾来両者は親子のような情愛で結ばれていたという。
西田は、二月二〇日頃安藤大尉、栗原中尉等から事件を起すことを告げられ、その頃これを北に伝えた。
両名とも事前に事件の発生を知っていたが、計画に積極的にかかわった事実は見当たらない。
しかし、事件が勃発してからは、両名は電話で栗原等に対して、激励したり、助言を与えるなどの行動をとる一方、
海軍上層部に対して、反乱将校等に有利な事態の収拾を働きかけるなどの工作を行っている。
東京憲兵隊は、北と西田を事件の背後関係者とにらみ、二月二八日午後三時頃北方を襲い、
北の日記などを押収した上、北を憲兵隊に連行した。
・・・(1)
この日記は、後に昭和一一年押第一二号の一として証拠とされている
西田は間一髪で検挙を免れ、逃避行を続けたが、三月四日早朝警視庁係官に検挙された。
この両名の身柄拘束は、刑事訴訟法あるいは陸軍軍法会議法に規定された強制処分によるものではない。
後にみるように、両名に対する勾引状 ・勾留状は四月になって発付されている。
西田は、それまでの青年將校との深い関係から、事件発生により官憲から身柄を拘束されることを恐れ、
二五日夜から自宅を出て北邸などに身を潜ませていたくらいであった。
しかし、北は、自らの身柄拘束は西田の身代わりとしての一時的なものと考えていた節があり、
当初は自己の運命について楽観的であったようである。
・・・(2)
後掲の北の昭和一一年七月三日付第二回予審訊問調書第四問答参照。

三  捜査の概要
1  捜査経過一覧
東京陸軍軍法会議の審判は、起訴に対応して、
第一公判廷が将校班、第二公判廷が下士官班 ( 甲 )、
第三公判廷が同じく下士官班 ( 乙 )、
第四公判廷が兵班、
そして第五公判廷が常人の五つの公判廷に分けて行われた。
また、湯河原の牧野内府襲撃隊の審判は、第四公判廷で、兵班とは別に審理 ・裁判されている。
特設軍法会議である東京陸軍軍法会議設置の経緯、その法的問題点、裁判の進行状況などについては、
拙稿 「 東京陸軍軍法会議についての法的考察 」 を参照されたい。
・・・(1)
『 獨協大学法学部総説二五周年記念論文集 』 ( 一九九二年、第一法規出版 ) 271頁以下
一件記録から窺える北 ・西田の検挙から公訴提起に至るまでの取調ベその他の経緯を年表的に整理してみると、
次のとおりである。
なお、参考のために、東京陸軍軍法会議の発足、反乱将校の裁判経過などかっこ書きで折り込んでみた。
二 ・二八  北、東京憲兵隊に連行 ・留置
( 二 ・二九  反乱将校ら逮捕さる ・事件鎮圧 )
三 ・二  北にたいする東京憲兵隊本部陸軍司法警察官 ( 以下憲兵と記載する ) 第一回聴取書 ( 鈴木磯治郎憲兵曹長 )
・・・(2)
北と西田の憲兵調書は、すでに林茂外編 『 二 ・二六事件秘録 』 第一巻 ( 一九七一年、小学館 ) に収録されている。
本調書は、同275頁にある。以下 「 秘録 」 と略記して引用する。
三 ・三  北に対する憲兵第二回聴取書 ( 福本亀治憲兵少佐 )
・・・(3) 「 秘録 」 第一巻277頁に収録
三 ・四  西田、警視庁に連行 ・留置
( 三 ・四  東京陸軍軍法会議設置に関する昭和一一年緊急勅令第二一号公布 。即日施行 )
三 ・六  北に対する憲兵第三回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(4) 「 秘録 」 第一巻280頁に収録
三 ・八  北に対する憲兵第四回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(5) 「 秘録 」 第一巻283頁に収録
三 ・八  西田に対する警視庁特別高等部特別高等係司法警察官 ( 以下警察官と記載する ) 第一回聴取書 ( 関口照里警部補 )
三 ・九  北に対する検察官第一回聴取書 (竹澤卯一陸軍法務官 )
三 ・九  西田に対する警察官第二回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・一〇  西田に対する警察官第三回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・一三  北に対する憲兵第五回聴取書 ( 福本亀治憲兵少佐 )
・・・(6) 「 秘録 」 第一巻284頁に収録 
三 ・一五  北に対する憲兵第六回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(7) 「 秘録 」 第一巻289頁に収録 
三 ・一五  北に対する検察官第二回聴取書 (竹澤陸軍法務官 )
三 ・一五  西田、東京憲兵隊に移送
三 ・一六  西田に対する憲兵第一回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(8) 「 秘録 」 第一巻345頁に収録 
三 ・一七  北に対する警察官第一回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・一七  西田に対する憲兵第二回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(9) 「 秘録 」 第一巻352頁に収録 
三 ・一八  北に対するの警察官第二回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・一八  西田に対する憲兵第三回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(10) 「 秘録 」 第一巻356頁に収録 
三 ・一九  北に対する警察官第三回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・二〇  北に対する警察官第四回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・二〇  西田に対する憲兵第四回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(11) 「 秘録 」 第一巻360頁に収録 
三 ・二一  北に対する警察官第五回聴取書 ( 関口警部補 )
三 ・二二  西田に対する憲兵第五回聴取書 ( 大谷敬二郎憲兵大尉 )
・・・(12) 「 秘録 」 第一巻362頁に収録 
四 ・一一  北、東京憲兵隊に移送
四 ・一一  西田に対する憲兵第六回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(13) 「 秘録 」 第一巻367頁に収録 
四 ・一四  西田、東京陸軍軍法会議検察官に送致
四 ・一四  西田につき、予審官に対して強制処分請求
四 ・一五  北、東京陸軍軍法会議検察官に送致
四 ・一六  西田につき、勾引状執行
四 ・一六  西田に対する予審官訊問調書 ( 新井朋重陸軍法務官 )
四 ・一六  西田につき、勾留状発付 ・執行 ( 勾留場所、東京衛戍刑務所 )
四 ・一七  北につき、予審官に対して強制処分請求
四 ・一七  北につき、勾引状執行
四 ・一七  北に対する予審官訊問調書 ( 津村幹三陸軍法務官 )
四 ・一七  西田につき、勾留状発付 ・執行 ( 勾留場所、東京衛戍刑務所 )
四 ・一七  北に対する憲兵第七回聴取書 ( 福本憲兵少佐 )
・・・(14) 「 秘録 」 第一巻294頁に収録 
( 四 ・二八  将校班、第一回公判 )
五 ・四  北 ・西田両名につき、予審請求命令 ( 陸軍大臣寺内壽一 )
五 ・五  北 ・西田両名につき、予審請求 ( 検察官匂坂春平陸軍法務官 )
五 ・二八  西田に対する予審官第一回訊問調書 ( 伊藤章信陸軍法務官 )
六 ・二  西田に対する予審官第二回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
( 六 ・四   将校班、論告 ・求刑 )
( 六 ・五  将校班、結審 )
六 ・六  西田に対する予審官第三回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
六 ・一二  西田に対する予審官第四回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
六 ・二〇  北に対する予審官第一回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
六 ・二六  西田に対する予審官第五回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
七 ・三  北に対する予審官第二回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
( 七 ・五  反乱実行者に対する判決宣告 )
七 ・七  西田に対する予審官第六回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
七 ・九  北に対する予審官第三回訊問調書 ( 伊藤法務官 )
七 ・九  新井予審官から検察官に対して、北 ・西田の予審終了通知
( 七 ・一二  村中孝次 ・磯部淺一を除く一五名について、死刑執行 )
七 ・二四  匂坂検察官から陸軍大臣に対して、北 ・西田の予審終了報告
・・・(15) 「 匂坂資料 」 Ⅲ ( 一九九〇年 ) 130頁、134頁に収録
七 ・二四  北 ・西田につき公訴提起命令 ( 寺内陸軍大臣 )・・・(16) 「 匂坂資料 」 Ⅲ 133頁、136頁に収録
七 ・二四  北 ・西田につき各別に公訴提起 ( 匂坂検察官 )

2  身柄拘束状況
以上のように、北は憲兵隊によって検挙 ・留置され、取調べを受けた後、
一旦警視庁に移されて特高の取調べを受けた上、再度憲兵隊に移送されている。
もっとも、記録上は警視庁への移送の日時が明らかではないが、取調べの状況から考えると、
三月一六日あるいは一七日のいずれかであろう。
なお、勾引状には、執行の場所を東京憲兵隊本部、執行の日時を昭和一一年四月一六日午後四時五〇分、
引致の日時を四月一七日午後六時三〇分と記載されているが、
検察官の予審官に対する強制処分の請求が四月一七日であり、勾引状発付日も四月一七日であるから、
右執行日の記載は四月一七日の誤記と認められる。

これに対して西田は、憲兵の手を間一髪で免れて北方を脱出し、
シナイに潜伏していたところを警視庁係官に検挙され、警視庁に留置されて特高の取調べを受けた後、
憲兵隊に移送されている。

北 ・西田に対する勾引状執行前の身柄拘束 ( 北五〇日間、西田四四日間 ) は、
刑事訴訟法あるいは陸軍軍法会議の規定に基づく強制処分ではない。
おそらく、行政執行法一条の 「 公安ヲ害スルノ虞アル者 」 に対する予防検束を利用してのことと思われる。
しかし、このような検束は、旧憲法下においても違法と解されていたはずであった。
すなわち、第一に、通説は、犯罪捜査のための行政検束は許されないとしていた。
第二に、名文上翌日の日没までの間許されるにすぎない行政検束を、
同一の理由によって反覆継続することは、当然違法であった。
そして第三に、憲兵は、行政警察の職務を行う権限を有しないと解されていたのである。
・・・(17)
第一、第二の点につき、美濃部達吉 『 日本行政法 』 下巻 ( 一九四〇年、有斐閣 ) 154頁、第三の点につき、同書55頁
それにもかかわらず、このような違法な行政検束が捜査のために多様され、
裁判官すらもそれを怪しまなかったのが当時の警察 ・裁判の実務であった。
ここでは、問題点を指摘するに止める。

3  憲兵の送致事実
(一)  北関係
北についての昭和一一年四月一五日付
陸軍司法警察官陸軍憲兵少佐福本亀治名義の
東京陸軍軍法会議検察官宛の送致書 ( 東憲警第二八八号 ) は、次のとおりである。
罪名としては叛乱罪となっているが、後述の公訴状記載の犯罪事実と比較すると、
記載内容のトーンは低く、北に対してむしろ好意的である。
事実、昭和一一年三月一五日付憲兵曹長鈴木磯治郎作成の仮領置品目録 ( 北所有の日記第四冊など五点を領置したもの )
には、「 右北輝次郎叛乱幇助被告事件ニ付証拠品トシテ仮ニ之ヲ領置ス 」 と記載されており ( 傍点筆者 )、
憲兵隊としては北は幇助罪とみていたことが窺える。
一  犯罪事実
  被告人北輝次郎ハ、
  明治四十年頃、支那革命党ニ加入シテ支那革命ニ參加シ
大正四年頃 「 革命ノ支那及日本ノ外交革命 」、
大正八年頃、 「 國家改造法案原理大綱 」 ヲ著述シテ國家改造的思想ノ普及ニ努メ來タレルモノナルガ、
其思想的指導下ニアル西田税ヲ通シ
叛亂被告人タル村中孝次、磯部淺一、栗原安秀等ト屢々會合意見ノ交換ヲナシ、
其思想的啓蒙ニ任ジタル事實アリ。
  被告人北輝次郎ハ、
  昭和十一年二月十五日頃西田税ヨリ、相澤公判ニ於テ弁護人側ヨリ申請スル證人ヲ裁判長ガ脚下スルガ如キ場合ニハ、
青年將校ハ或ハ蹶起スルヤモ計ラレザル事態急迫ノ情勢ヲ聞知シ、
二月二十日頃西田税ヨリ、愈々青年將校蹶起ニ決シタル旨及二月二十二、三日頃
襲撃目標等蹶起計畫ノ内容竝目的ヲ聞知シ、更ニ二十五日夜ニ至リテ愈々
翌二十六日朝決行スルコト
龜川哲也ヨリ資金トシテ千五百円丈ケ都合シテ貰ツタコト
ヲ聞知シタルガ、
二月二十六日西田税ノ來訪ニ依リテ詳細ナル蹶起部隊ノ行動内容ヲ知リ、
且西田税ノ依頼ニ依リ西田ヲ其自宅廷内ニ隠匿シ、且西田ト共ニ反亂部隊ノ首脳者タル栗原、安藤ニ電話司令セリ。
(  ・・・リンク→ 昭和 ・私の記憶 『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』 、・・・リンク→拵えられた憲兵調書  )
  被告人北輝次郎ハ、
  二月二十七日朝ニ至リ、蹶起軍ノ収拾ハ時日ノ遷延ト共ニ益々不利ナリト考ヘ、
時局ノ収拾ハ青年將校ヲ有利ニ保護スルモノヽ内閣ナラザルベカラス
トシ、在首相官邸ノ栗原安秀及陸相官邸ノ村中孝次ヲ電話ニ呼出シ、西田ト共ニ
人無シ、勇將眞崎アリ、國家正義軍ノ爲メ號令シ、正義軍速ニ一任セヨ。
軍事參議官全部ノ意見一致トシテ、眞崎ヲ推薦スル如クセヨ。
切腹ハ不可、遣リカケタ上ハ徹底的ニヤレ。
等ノ司令ヲ与ヘタル外、
西田税、亀川哲也、薩摩雄次等ト 叛亂部隊ノ目的達成上有利ナル軍政内閣ヲ樹立シテ事態ノ収拾スル如ク協議シ、
西田、薩摩等ヲシテ夫々加藤大將、小笠原中將、南郷少将、有馬大將等ニ運動セシメ、
以テ叛亂部隊ト内外相呼應シ、反亂罪ヲ敢行シタルモノナリ。
二  犯罪ノ原因動機
本人ハ、曾テ自己ノ著述セル日本改造法案ニ據ル國家改造的思想ノ影響下ニアリ、
且 日常ニ自己ガ全幅ノ信頼ヲナシアル同志青年將校ガ中心トナリ、
日本改造法案内容ノ建設ヲ目的トシテ蹶起シタルニ對シ、同情シタルニ據ル。
三  証拠  ( 省略 )
四  前科  ( 省略 )

(二)  西田関係
西田についての昭和一一年四月一四日付
東京憲兵隊本部陸軍司法警察官憲兵少佐福本亀治名義の
東京陸軍軍法会議検察官宛の送致書 ( 東憲警第二五五号 )は、次のとおりである。
北に対する送致書と比較するとき、憲兵の西田に対する敵意が感じられる。
一  犯罪事実
  被告人西田税ハ、
  大正八年陸軍中央幼年學校當時ヨリ國家革新意識ヲ抱持シ、
陸軍士官學校在學中既ニ浪人北輝次郎、満川亀太郎等ト交遊シ、
北著日本改造法案、支那革命外史ヲ耽讀シテ其ノ主張ニ共鳴シ、
愈々國家革新意識ヲ強持スルニ至リタルガ、
大正十四年陸軍騎兵少尉トシテ騎兵第五聯隊ニ在隊中、肋膜肺尖ニ依リテ現職ヲ退クヤ、
満川亀太郎、大川周明、安岡正篤等ノ要望ニ依リテ上京シ、
行地社同人トナリテ右翼運動ニ參加シ、主トシテ軍人方面ニ對シ日本改造法案ノ指導原理トシテ
國家革新啓蒙運動ニ進出スルニ至リタルガ、爾來
(1)  大正十五年ニハ、星光同盟ニ據ツテ在郷軍人ヲ中心トスル勞働運動ノ擴大強化ニ努メ、
  又所謂宮内省怪文書事件ヲ惹起シテ、時ノ牧野宮内大臣、關屋宮内次官ニ辭職ヲ強要シ、
(2)  昭和二年ニハ士林莊ナル看板ヲ掲ゲテ陸軍士官學校生徒ニ接近シ、
  當時ノ藤井齊海軍少尉ト共ニ天劔党規約ヲ陸軍士官學校卒業生徒ニ配布シテ所謂天劔党事件ヲ惹起シ、
(3)  昭和四年ニハ、愛國團體ト共ニ所謂不戰條約問題、金解禁問題ヲ翳シテ政府糾彈運動ノ急先鋒トナリ、
  自ラ日本國民党ノ統制委員長トナリテ中谷武世ノ愛國大衆党、津久井龍雄ノ急進愛國党ト共ニ革新的政治運動ニ進出シ、
(4)  昭和五年、六年ノハ、ロンドン條約問題ヲ中心トシテ其ノ輿論喚起ニ奔走スル外、
  満蒙問題ニ關心ヲ有シ、同問題ヲ中心トシテ陸軍青年將校ニ接近スルニ至レリ。

2  被告人西田税ハ、
(1)  昭和六年ニ於ケル所謂十月事件ニ對シテハ、
同年八月頃當時ノ橋本砲兵中佐ヨリ該事件ノ計畫内容ヲ打明ケラレテ海軍側ニ對スル工作ノ依頼ヲ受クルヤ、
陸海軍兩者ノ間ニ介在シテ同志ノ獲得斡旋ニ努力セリ。
昭和七年ニ於ケル所謂血盟團事件竝所謂五 ・一五事件ニ對シテハ、
陸海軍將校ト聯絡ヲ保持シ、且 其内容計畫ヲ知悉シ乍ラ 其行動參加ヲ逃避セル爲、
川崎長光ノ爲メ射撃セラレタリ。
爾來依然トシテ陸軍士官學校生徒 及 一部青年將校ニ對スル國家革命的啓蒙運動ヲ繼續シ、
是等青年將校 及 生徒ヲ自宅ニ會合セシメテ思想的教唆ニ努メ、
所謂十一月事件ノ惹起ヲ見ルニ至リタルガ、村中孝次、磯部淺一ガ同事件ニ關聯シテ定職處分ニ附セラレ、
次デ肅軍ニカンスル意見書出版ニ依リテ免官トナルヤ、
被告人ハ村中、磯部等ト共ニ益々青年將校等ノ國家革新意識ノ擴大強化ニ努メ、
眞崎敎育總監更迭問題、永田事件ノ勃發スルヤ、
之等問題ヲ巧ニ捕ヘテ青年將校等ノ國家革新運動ヲ使唆煽動シ、
相澤公判ヲ中心トシテ公判闘爭 竝 該公判ヲ契機トスル昭和維新ノ斷行ヲ煽動シ、
傍ラ 「 大眼目 」 ノ發行ヲ指導シテ國家革新運動ニ邁進シ居タルガ、
是等思想的使唆ニ依リ青年將校ノ動向ハ相澤公判ヲ中心トシテ益々尖鋭化スルニ至レリ。
   被告人西田税ハ、
(1)  相澤公判ノ進行ト第一師團渡満ノ決定ニ伴ヒ、一部青年將校ノ言動惡化シ、
或ハ其渡満前ニ於テ蹶起スルニ非ザルカヲ察知シ居タル際、
二月十一日頃磯部淺一 ( 元一等主計 ) ヨリ蹶起ノ暗示ヲ受ケ、
二月十六日頃村中孝次 ( 元歩兵大尉 ) ヨリ第一師団渡満前ニ於テ決行スルノ計畫アル旨聞知シ、
二月十七、八日頃栗原安秀 ( 元歩兵中尉 ) ヨリ愈々蹶起ニ決シタル旨 竝 決行内容 襲撃目標等ヲ聞知シ、
二月二十日頃安藤輝三 ( 元歩兵大尉 ) ヨリ二十二日ヨリ山口大尉ノ週番中ニ決行スル旨、
二月二十四日夜磯部淺一ヨリノ置手紙ニ據リテ愈々二月二十六日未明ニ於テ蹶起スル旨、承知シ、
二月二十五日夜亀川哲也宅ニ於テ、村中孝次、亀川哲也、被告人三人協議ヲ重ネ、
蹶起資金トシテ亀川哲也ヨリ村中孝次宛千五百円交付ヲ斡旋關与シ、
被告人ハ別ニ亀川哲也ヨリ百円ノ交附ヲ受ケタルガ、
村中孝次ノ辭去後亀川哲也ト共ニ蹶起部隊ノ蹶起後ニ於ケル外郭運動方法ヲ協議シ、
(2)  二月二十六日事件當日朝ハ、部隊出動ノ確否ヲ確メル爲 豫テ承知シアル部隊行動ノ經路ヲ巡回シ、
  其ノ決行ヲ確認スルヤ、在巣鴨木村病院ニ入院中ナル岩田富美夫ヲ訪レ、
首相官邸ニ在リタル栗原安秀ニ電話聯絡シ、同日午後北輝次郎宅を訪レテ同邸内ニ潜伏シ、
北輝次郎ト共ニ叛亂部隊内ニ在ル叛亂中心人物タル栗原安秀、安藤輝三、村中孝次等ニ對シ、
事態収拾ニ附 眞崎大將ニ一任セヨ
軍事參議官ノ力ヲ借リテ目的ノ貫徹ヲ期セヨ
ヤリカケタ事デアルカラ最後迄ヤレ
等叛亂部隊ニ對スル行動ヲ電話司令シ、又北宅ニ村中孝次ヲ招致シテ直接指令シタル外、
亀川哲也、薩摩雄次等ト共ニ加藤海軍大將、小笠原海軍中將、南郷海軍少將、有馬海軍大將、
山本海軍大將其他ニ對シ叛亂部隊ノ行動収拾ニ有利ナル軍政内閣ノ樹立 竝 昭和維新ノ斷行ヲ運動シ、
以テ叛亂將校ト共ニ内外相呼應シテ叛亂罪ヲ敢行シタルモノナリ。
二  犯罪ノ原因動機
被告人ハ、所謂事件ブローカーニシテ日本改造法案ノ著者タル北輝次郎に私淑シ、
兩人ハ思想的 竝 私生活的ニ恰モ親子ノ如キ關係ヲ有シ、常ニ北輝次郎ヨリノ補助ニ依リテ生活シアルモノナルガ、
北ノ命ニ依リテ日本改造法案ノ出版ヲ担任シ、其社會革命的建設内容ヲ以テ理想社會ナリト確信シ、
該法案ノ内容ヲ指導原理トシテ主トシテ青年將校ノ啓蒙運動ニ専念シ來リルガ、
從來被告人ニ依リテ指導啓蒙セラレタル青年將校等ガ非合法的革新運動ノ擧ニ出デントスルヤ、
被告人ハ常ニ事件ヨリ巧ニ逃避シテ法網ヲ脱シ居タルガ、
遂ニ今次ノ叛亂決行ニ際シ其ノ逃避不可能ナルコトヲ知ルニ至リテ
叛亂部隊ノ外郭ニ位置シ、内外相呼應シテ叛亂ノ目的ヲ達セントシタルニ因ル。
三  証拠    ( 省略 )
四  前科    ( 省略 )
五  捜査着手ノ年月日    昭和十一年三月八日

4  予審請求事実 ・公訴事実
(一)  予審請求事実
北 ・西田に対する予審請求は、
いずれも昭和一一年五月五日検察官匂坂春平名義で、各別になされている。
両名に対する予審請求書記載の犯罪事実はほとんど同文であるが、次のとおりである。
(1)  北關係
  被告人ハ夙ニ我國ノ政治經濟等諸般ノ制度ニ一大變革ヲ加フルノ必要ヲ痛感シ、
大正八年日本改造法案大綱ヲ著シ、爾來西田税等ト謀リ 國家革新思想ノ普及ニ努メ、
昭和七年頃ヨリ逐次菅波三郎、大蔵榮一、安藤輝三、村中孝次、栗原安秀、磯部淺一 等 一部青年將校ト其ノ意ヲ通ジ、
兵力ヲ使用シテ大官、重臣、財閥、政党等ヲ打倒シ、
帝都ヲ擾亂シテ之ヲ戒嚴令下ニ導キ、以テ國家革新ノ實ヲ擧ゲンコトヲ企圖シ、
昭和八年頃ヨリ右青年將校等ト互ニ相團結シ、爾來主トシテ西田税ヲ通ジ村中孝次、磯部淺一、澁川善助、香田清貞、
安藤輝三、栗原安秀等ヲ指導シ、之ガ實行計畫ヲ樹立セシムルト共ニ、
同志團結ノ強化擴大ヲ圖リ、以テ之ガ機運ノ促進ニ努メタル上、村中孝次、栗原安秀、安藤輝三、磯部淺一等ヲシテ
昭和十一年二月二十六日未明兵力ヲ使用シ、内閣總理大臣官邸其ノ他大官重臣ノ官私邸ヲ襲撃シ、
大蔵大臣高橋是清、内大臣齊藤實、敎育總監渡邊錠太郎等ヲ殺害シ、侍從長鈴木貫太郎等ニ重輕傷ヲ加ヘ、
以テ麹町區西南部一帯ノ地域ヲ占據シテ國權ニ反抗セシメ、更ニ其ノ目的貫徹ノ爲西田税ト謀リ、
自ラ村中孝次、栗原安秀等叛亂軍幹部ニ對シ、速ニ事態ノ収拾ヲ眞崎大將ニ一任スベキ旨等
所要ノ對上層部工作ニ附指令スルト共ニ、西田税、亀川哲也、薩摩雄次等ト提携シ、
海軍大將加藤寛治、同中將小笠原長生等ニ對シ其ノ政治的工作ノ援助ヲ求ムル等、
諸般ノ策動ヲ爲シタルモノナリ。
(2)  西田關係
被告人ハ夙ニ我國ノ政治經濟等諸般ノ制度ニ一大變革ヲ加フルノ必要ヲ痛感シ、
北輝次郎ト共ニ同人著日本改造法案大綱ニ則リ國家革新思想ノ普及ニ努メ、
昭和六年頃ヨリ逐次菅波三郎、大蔵榮一、村中孝次、栗原安秀、安藤輝三、磯部淺一 等 一部青年將校ト其ノ意ヲ通ジ、
兵力ヲ使用シテ大官、重臣、財閥、政党等ヲ打倒シ、帝都を擾亂シテ之ヲ戒嚴令下ニ導キ、
以テ國家革新ノ實ヲ擧ゲンコトヲ企圖シ、昭和八年頃ヨリ右青年將校等ト互ニ相團結シ、
爾來北ト謀リ村中孝次、磯部淺一、澁川善助、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀等ヲ指導シ、
之ガ實行計畫ヲ樹立セシムルト共ニ、同志團結ノ強化擴大ヲ圖リ、以テ之ガ機運ノ促進ニ努メタル上、
村中孝次、栗原安秀、安藤輝三、磯部淺一等ヲシテ同十一年二月二十六日未明兵力ヲ使用、
内閣總理大臣官邸其ノ他大官重臣ノ官私邸ヲ襲撃シ、
大蔵大臣高橋是清、内大臣齊藤實、敎育總監渡邊錠太郎等ヲ殺害シ、侍従長鈴木貫太郎等ニ重輕傷ヲ加ヘ、
以テ麹町區西南部一帯ノ地域ヲ占據シテ國權ニ反抗セシメ、更ニ其ノ目的貫徹ノ爲北輝次郎ト謀リ、
自ラ村中孝次、栗原安秀等叛亂軍幹部ニ對シ、眞崎大將ヲ内閣首班ニ推戴シ、
斷乎トシテ初志ニ邁進スベキ旨等ヲ指令スルト共ニ、薩摩雄次等ト提携シ、
海軍大將加藤寛治、同中將小笠原長生等ニ對シ其ノ政治的工作ノ援助ヲ求ムル等、
諸般ノ策動ヲ爲シタルモノナリ。

(二)  公訴事実
北 ・西田に対する起訴は、いずれも昭和一一年四月二四日匂坂検察官の名義で、各別になされた。
公訴状記載の犯罪事実は、陸軍大臣に対する予審終了報告書 ( 匂坂検察官名義 ) 記載の犯罪史実と同文である。
各公訴状には、昭和一一年四月二七日付の東京陸軍軍法会議裁判部の受付印が押捺されている。
予審終了報告と公訴事実は、すでに 「 匂坂資料 」 で紹介されているので、ここでの引用は省略する。
・・・(18)  北につき 「 匂坂資料 」 Ⅲ130頁、西田につき同書134頁


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