あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

38 二 ・二六事件 北 ・西田裁判記錄 (一) 2 『 北の起訴前の供述 檢察官、警察官聽取書1』

2016年09月28日 19時12分26秒 | 暗黑裁判・二・二六事件裁判の研究、記錄

獨協法学第38号 ( 1994年 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 (一)
松本一郎
一  はじめに
二  二 ・二六事件と北 ・西田の検挙
三  捜査の概要
1  捜査経過の一覧
2  身柄拘束状況
3  憲兵の送致事実
4  予審請求事実 ・公訴事実
四  北の起訴前の供述
1  はじめに
2  検察官聴取書
3  警察官聴取書
4  予審訊問調書   ( 以上本号 )
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獨協法学第39号 ( 1994 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 二 )
松本一郎

五  西田の起訴前の供述
 1  はじめに
 2  警察官聴取書
 3  予審訊問調書
 4  西田の手記  ( 以上39号 )
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獨協法学第40号 ( 1995年3月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 三 )

六  公判状況
 はじめに 
 第一回公判  ( 昭和11年10月1日 )
 第二回公判  ( 昭和11年10月2日 )
 第三回公判  ( 昭和11年10月3日 )
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獨協法学第41号 ( 1995年9月 )
研究ノート
二 ・二六事件北 ・西田裁判記録 ( 四 ・完 )

 第四回公判 
( 昭和11年10月5日 )
 第五回公判  ( 昭和11年10月6日 )
 第六回公判  ( 昭和11年10月7日 )
 第七回公判  ( 昭和11年10月8日 )
 第八回公判  ( 昭和11年10月9日 )
 第九回公判  ( 昭和11年10月15日 )
 第一〇回公判  ( 昭和11年10月19日 )
 第一一回公判  ( 昭和11年10月20日 )
 第一二回公判  ( 昭和11年10月22日 )
 第一三回公判  ( 昭和12年8月13日 )
 第一四回公判  ( 昭和12年8月14日 )

七  判決
八  むすび  ( 以上四一号 )

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四  北の起訴前の供述
1  はじめに
公訴提起前、すなわち捜査段階と予審
・・・(1)
予審は旧刑事訴訟法では起訴後の手続きであったが ( 旧刑訴二八八条、二九五条 )、
陸軍軍法会議法では起訴前の手続きとなっていた ( 三〇八条、三二一条 )

における北の供述を録取した書面としては、憲兵作成の聴取書七通、検察官作成の聴取書に通、
特高係警察官作成の聴取書五通、そして予審官作成の訊問調書四通 ( うち一通は勾留訊問調書 )がある。
ここに聴取書とは、捜査官が犯罪捜査に当たって関係者の任意の供述わ録取した書面をいい、
訊問調書とは、法令による強制処分としての訊問に対する供述を録取した書面をいう。
もっとも、陸軍軍法会議法 ( 海軍軍法会議法も同じ ) は、旧刑事訴訟法三四三条のように法令によって作成した
訊問調書以外の供述録取書の証拠能力を制限する規定を設けておらず、
したがって捜査官作成の聴取書も無条件で証拠として用いられることができたから、
証拠法上両者をとくに区別する実益はない。
北の憲兵聴取書は、前述のようにすでにその全部が公開されているので、
ここでは、その経過を記すに止める。
・・・(2) 「 秘録 」 第一巻 275頁以下
北は、第一回から第四回までの聴取書では、西田をかばい、事件についての質問をとぼけた調子でかわしている。
取調官福本憲兵少佐は、第三回聴取書で、
北が財閥解体を主張しながら三井財閥から年間二万円もの生活費を受けている点を追及するが、
これに対しても北は次のような人を食った答をしている。
「 ・・・・財閥ヲ否定シテ居ルト云ツテモ彼レト是レトハ別問題デ、恰モ明治維新當時ノ桂小五郎、西郷吉之助ガ
 藩侯ノ禄ヲ貰ツテ居タノト基本質ニ於テ大差ハ無イト思ヒマス 」
三月一三日付の第五回聴取書では、かなり核心に触れた供述を始めているが、
それでも二六日以前には事件が起こることを知らなかったというそれまでの態度を貫いている。
この調書の中で、取調官の、二七日午後安藤大尉を電話に呼び出して、
「 給与はよいか、〇はあるか 」 と尋ねたことがあるかという問いは、
匂坂資料で明らかにされた電話傍受を踏まえての質問であり、興味深い。
もっとも北は、現下にこれを否定しており、なぜか取調官もこの点をさらには追及しておらず、真相は不明である。
・・・(3) 「 匂坂資料 」Ⅱ( 一九八九年 ) 619頁
これによると、北は、こうらくにいた安藤大尉に憲兵隊司令部と称して電話し、
「 給養はあるか 」 「 金はあるか 」 「 大丈夫か 」 などと質問したことになっている。
ただし、盗聴の日時は不明である。
 (  ・・・リンク→ 昭和 ・私の記憶 『 謀略、交信ヲ傍受セヨ 』 、・・・リンク→拵えられた憲兵調書  )
北は、三月一五日付の第六回聴取書に至って、これまでの西田をかばうための偽りを述べていたことを認め、
申し訳ないと供述する。
こうして、本格的な取調べのバトンは警視庁の特高係に渡されることになる。
なお、憲兵の第七回調書は、北の国家改造思想と運動の経緯に関するものである。
 
2  検察官聴取書
(一)  昭和一一年三月九日付第一回聴取書
検察官として北を取調べたのは、竹沢卯一陸軍法務官であった。
竹沢検察官は、第一回聴取書において、北が 『 国家改造法案大綱 』 を書いた動機、
同書に記載された国家改造の具体的方策などについて釈明を求め、
事件発生前後の行動について糾し、また三井財閥その他の北の資金源を追及する。
この段階では、北は事件への関わりを全面的には認めていないが、
青年将校等の行動を肯定することを明言する。
以下、聴取書の内容部分を抄録する。
「 御敎示ニ依リマスト、其ノ方ノ國家改造法案ナルモノガ今回ノ事件ニ重大影響アリト云フコトデアリマスガ、
 ソレニ就イテ申上ゲマス。
私ガアノ國家改造法案ヲ大正八年ニ書キマシタノハ、其ノ年世界大戰ハ ベルサーユ會議デ平和ニナリマシテ、
唯一人此後世界ニ第二ノ大戰ガアルト云フコトヲ考ヘルモノモナク、
從ツテ各種ノ改造論、革命論ハ日本全體ヲ風靡シテ居ルノヲ見マシテ、
私ハコノ日本ノ將來、即チ世界大戰 ( 第二 ) ノ場合ニ日本ガ大戰爭ノ中途又ハ戰爭ノ勝利ノ刹那等ニ於テ、
露獨ノ如ク國内ヨリ抱懐スル様ナ結果ニナリマシテハ日本ノ滅亡ナリト考ヘ、
依ツテ第二世界大戰爭ノ來ラザル以前ニ於テ、日本ノ國家組織ガ共産党其ノ他ニ乗ゼラレザル様
最モ合理的ナル改造ヲ完成シ置ク必要アリト考ヘ、私ノ國家改造法案ノ根本目的ハソレデアリマス。
又其ノ事ハ全巻ニ渉ツテ明記シテアリマス。
從ツテ、此ノ三、四年來世界ノ形勢ガ第二世界大戰ノ免ルベカラザル形勢ニ進ミツツアルコトハ
何人モ認識スル様になり、國防ノ任ニ當ツテ居ル陸海軍ノ諸君ガ更ニ私ノ旧著ヲ持チ出シテ再檢討シマシテ、
世界ノ形勢ニ對シテ益々國内改造ノ急ヲ考ヘルモノガ少數カ多數カハ存ジマセヌガ有リマスコトハ、
サモアルベキコトト存ジマス。
( 中略 )
御敎示ニ依リマスト、其ノ方ノ指導デアル、其ノ方ニ對スル崇拝デアルト云フ御言葉ガアリマスガ、
私ノ改造法案ハ前項申上ゲタ點ヲ強調シテ覺醒ヲ日本ノ上下ニ求メタモノデアリマス。
私ハ夜明ノ鐘ヲ突イタ坊サンデアリマス。
坊サンガ鐘ヲ突イタカラ大キナ太陽ガ出タノデハアリマセヌ。
私トシマシテモ此ノ世ノ指導者ト云フ様ナ傲慢ナ、不遜ナ考ヘハ少シモ持ツテ居リマセヌ。
ソレハ、改造法案ヲ御覧ニナリマシテ御判カリデアリマス 」
「  ( 改造法案の戒嚴令について ) ・・・・若シ此ノ改造ヲ行フ爲ニ何等擾亂ガナイト云フ見通シアルトキハ、
 戒嚴令ハ必要デハアリマセヌ。
私ガ大正八年ノ昔ニアレヲ書イタ當時ハ、共産又ハ共産党ニ近キ勢力ガ日本ニ漲ツテ居リマシタカラ、
ソレニ對スル當然ノ用意トシテ書キマシタ。
併シ、ソレ以後日本ノ共産党ハ數回ニ亘リ 彈壓サレ居リマスカラ、
其ノ意味ノ警戒カラモ戒嚴令ハ今日ハ必要デナイカモ知レマセヌ。」
そして、この調書の最後は、次のような問答で締めくくられている。
問  其ノ方ハ、蹶起將校等ノ行動ハ正義ノ行動ト認ムルノカ。
答  左様デス。
問  其ノ方ハ、蹶起軍ノ行動ハ兵馬ノ大權ヲ干犯スルモノト思ハヌカ。
答  今ハ大權干犯ト認メラルルカ怎ウカハ存ジマセヌガ、後デ自然ニ解決セラレ、
  彼等ノ行動ハ大義名分ニ依ル行動デアツタト認メラルルニ至ルコトト思ヒマス。
問  後デ自然ニ解決セラルルトハ如何。
答  將來、蹶起軍ノ理想が達セラルルコトガアルト思ヒマスカラ、
ソノ時ハ前申シマシタ通リ大義名分ニ依ル行動デアツタト認メラルルニ至ルト云フ意味デス。

(ニ)  昭和一一年三月一五日付第二回聴取書
検察官は、この調書の中で、日記第四冊の 「 靈告 」 の意味について追及している。
・・・(4)
北の靈告については、宮本盛太郎編 『 北一輝の人間像 』 ( 一九七六年、有斐閣 )、
松本健一 『 北一輝 靈告日記 』 ( 一九八七年、第三文明社 ) 参照

「 靈告 」 とは、神がかりの情態になった北夫人に降りた神仏のお告げを、北が解釈し、文字にしたものである。
主要な靈告についての北の説明は次のとおりであり、検察官の追求を巧みにかわしている。
( 番号は、便宜上筆者において付した )
①  二月二一日の 「 山岡鉄太郎物申す/稜威尊し/兵馬大権干犯如何 」 等について
「 今日ニナツテ考へ見ルト、今日ノ事變ノ起キルコトト失敗スルコトヲ豫言セラレタモノト思ヒマス。」
②  二月二四日の 「 大内山光射ス/暗雲無シ 」 等について
「 今考ヘマスト、今回ノ事變ニ宮城ニ何事モ起ラナカツタ事ヲ示サレタト思ヒ□□シマス。」
③  二月二十六日夜半一時半の
「 革命軍正義軍ノ文字 竝ビ現ハレ革命軍ノ上ニ二本棒ヲ引キ消シ正義軍ト示サル 」 について
「 自分デソノ當時考ヘマシタノハ、
 今回起サレタ行動軍ハ、
昭和維新ナドト云フ様ナ社會組織ノ根本的改革ヲ意味スル革命軍トイフ様ナ性質ノモノデハナク、
單ニ正義ヲ現ハス爲ニ立ツタモノデアルト云フ様ニ私ハ解釋シテオリマス。」
④  二月二七日朝の
「 人無シ勇將眞崎在リ 國家正義軍ノ爲メ號令シ 正義軍速ニ一任セヨ 」 について
「 二十六日ニ軍事參議官ノ人々カ青年將校ノ居ル總理官邸ニ來ラレマシタ時、
 青年將校ハ臺灣ノ柳川ヲ以テ次ノ内閣ノ首班ニシテ貰ヒタイト云フコトヲ申上ゲテ
双方モノ別レトナリタルコトヲ知リマシタノデ、私ハ、二七日ノ朝一心ニナツテ神佛ニ祈リマシタ。
ソノ危險ナル時間ヲ一日モ早ク収拾スルコトヲ祈願シマシタ。
ソノ時ニ如斯文字ヲ以テ示サレ・・・・」
⑤  二月二八日の 「 神佛集ヒ賞讃賞讃 オオイ嬉シサノ餘リ涙込ミ上ゲカ 義軍勝テ兜ノ緒ヲ締メヨ/義軍先發、
八万大菩薩、飯綱大権現道光ス 大海ノ波打ツ如シ 」 について
「 右ニ書イテアルコトハ、將來判カルコトガアルカモ知レマセンガ、現在ハ判カリマセヌ。」

3  警察官聴取書
(一)  はじめに
警視庁における北の聴取書は全部で五通あるが、
取調官はすべて特別高等部と特別高等係に勤務していた関口照里警部補である。
北は、関口警部補の取調ベに対して、初めて事件とのかかわり合いを詳細に語っている。
後述の第一回聴取書で、北は告白の動機を明かにしているが、取調べる者と取調ベられる者との間に心が通いあったことも、
あずかって力があったように思われる。
・・・(5)
安部源基 『 昭和動乱の真相 』 ( 一九七七年、原書房 ) 202頁以下
同書によると、北は取調べが終わってから、関口警部補ら取調官に色紙を贈つている。
北・西田の警察官聴取書は、これまでも断片的に紹介されたことがあったが、その全文が明るみに出たことはなかった。
・・・(6)
例えば、田中惣五郎 『 北一輝 』 ( 一九五九年 ・未来社、後に増補版一九七一年 ・三一書房 ) は、
北と西田の警察官聴取書を引用している。未来社版480頁 ・三一書房版343頁等参照
事件との関係を初めて詳細に述べるこれら聴取書は、後述の予審調書の基礎を作っており、重要である。
(ニ) 昭和一一年三月一七日付第一回聴取書  ( ・・・リンク→ 北一輝 (警調書1) 『 是はもう大勢である 押へることも何うする事も出來ない 』 )
北は、この聴取書の中で、型どおりの経歴 ・家庭状況 ・生活状況等について述べた後、
二月二十六日以前に事件の発生を知っていたことを初めて認めて、次のように述べる。
「 一、今回ノ事件ニ關シマシテハ 私ハ最初憲兵隊ノ取調ベ又陸軍法務官ノ取調ベニ對シテ、
此ノ事件ハ事前ニ承知シテ居ラナイト云フ事ヲ申立テテ來マシタガ、
其理由ハ、私トシテ無責任ナ法ノ制裁ヲ免レタイト云フ事の爲ニ隠蔽シタノデハアリマセン。
私ニ對シ事件ヲ話シマシタノハ西田デアリマシテ西田ハ度々私ニ對シ、
「 貴方ハ此事ヲ事前ニ私カラ聞キ知ラナイ事ニシテ置イテ下サイ。 貴方ニ迷惑ガ及ブトイケマセンカラ。」
ト云フ事ヲ堅ク申シテ居リマシタノデ、
西田ガ如何ナル事ヲ申立テマシタカ判ラナイ以前ニ於テ西田ヨリ先立ツテ、
私ノ方カラ申立テル事ハ、西田ノ情誼ニ對スル途デモアリマセント考ヘマシテ、
或ル時機迄西田カラ聞カサレタ點丈ケヲ隠蔽致シマシテ、
事前ニ西田カラ聞知シテ居ラナカツタト申シタ次第デアリマス。
然ルニ コチラニ參リマシテ
西田ガ多クノ青年將校ガ斯ク犠牲ニナリマシタ上ハ自分ノ責任トシテ法ノ制裁ヲ受ケルベキモノト考ヘ
逐一事情ヲ陳述シマシタ事ヲ聞キマシテ 誠ニ當然ノ事ト存ジ、
私モ西田ヨリ事前ニ關知シテ居ツタ事ヲ申上ゲ包ミナク私ノ西田ヨリ聞カサレタ部分等ヲモ申上ゲ、
其他一切私ノ關与シタル點等ニ就キテモ事實有リノ儘ニ申上ゲタイト存ジマス。

一、先ズ事件前ノ事ト致シマシテハ、私ハ西田一人ノミカラ聞知シタ事デアリマス。
最初第一ニ私ガ西田カラ聞キマシタノハ 本年二月十五日前後ト思ヒマスガ、
西田ハ當時相澤公判ニ全力ヲ傾注シテ居リマシテ 多ク相澤公判ニ關スル話ヲシテ居リマシタガ、
此ノ時 西田ガ申シマスニハ 公判廷ニ於テ弁護人側ヨリ申請スル證人ヲ裁判長ガ却下スル場合ニハ
 青年將校ハ或ハ蹶起スルカモ知レヌ様ナ風ニ見エル
ト 一言申シマシタ。
其後 二月二十日頃ト思ヒマスガ西田ガ參リマシテ
愈々青年將校ハ蹶起スル ト 申シマシテ、其ノ急ニ蹶起スル理由トシテ、
一師團ガ愈々満洲ニ派遣サレル事ニナッタノデ二年間モ東京ニ居ナクナル、
自分等 ( 青年將校達 ) ガ居ナクナルト 重臣ブロック其他ノ惡イ勢力ガ再ビ勢ヲ盛リ返シテ來ル、
自分等 ( 青年將校達 ) モ満洲ニ行ッテ一命ヲ捨テルノダカラ、
セメテ君側ノ奸臣等ヲ一掃シテ 昭和維新ノ捨石ニナリ度イト云フ氣持チデアル ト云フ事ヲ話マシタ。
ソシテ西田ガ云フニハ 
之ハモウ大勢デアル 今迄ノ様ニ吾々ノ一人二人ノ力デ押ヘルコトモ 何ウスル事モ出來ルモノデハナイ
ト云フ意味ノ事ヲ私ニ申シ聞かセマシタ。
其時私ハ 尤モノ事デアルカラ或ハ蹶起スルデアラウカトモ思ヒ、
又ハ サウナラナイノデハナイカトモ考ヘ、半信半疑ノ様ナ心持デ聞イテ居リマシタ。

次ニ 二月二十二、三日頃ト思ヒマス、西田ガ參リマシテ
愈々決行スルコトニナッタ、
襲撃目標ハ 岡田總理 齋藤内府 高橋蔵相 渡邊敎育總監 鈴木侍從長
牧野伸顕 西園寺公 ヲ殺ルト青年將校ノ方デ決定シマシタ。
西園寺公ハ豊橋ノ聯隊デ殺ル事ニナッテ居リマス ト 云フ事ヲ話シマシタ。
尚 話ガ續キマシテ 皆ハ池田成彬ヲ殺ルト云ッテ居リマスガ自分 ( 西田 ) トシテノ考ヘハ
 三井ノ主人公、三菱ノ主人公ヲ殺ル方ガ至當ト思ッテ居ルガ、
主人公等ハ今邸内ニ居ルカ何カ 又邸内ノ様子モサグッテイナイノデ今色々考ヘテ居ルト 申シマシタ。
伊澤多喜男、後藤文夫等モ色々ト考ヘテ居ル ( 考ヘテ居ルト云フノハ、未ダ決定ハシナイガ、
 人選中ト云フ様ナ意味ニ私ハ解釋シマシタ )
トノ話シデシタ。
其処デ私ハ申シマシタ。
青年將校デ既ニ決定シタ事ハ自分ハ何モ言ハナイガ、
井澤多喜男ノ如キハ齋藤、牧野 等ト云フ大木ニヨッテ生キテ居ル寄生木ニ過ギナイト思フ
夫レ等 大木ノ重臣ヲ倒シテ仕舞ヘバ 寄生木ノアレ等ハ モウ惡イ事ヲスル力モ無クナルノデアラウ
殊ニ後藤文夫ノ様な二、三流ノ者迄モ殺スニハ及バンデハナイカト 申シ、ワタシハ
已ムヲ得ザル者以外ハ成ルベク多クノ人ヲ殺サナイト云フ方針ヲ以テシナイトイケマセンヨ ト 申シマシタ。
西田ハ返事ヲシマセンデシタガ 非常ニ考ヘ深イ顔ヲシテ私ノ申ス事ヲ聞イテ居リマシタ。
確カ其ノ翌日ト記憶シテヲリマス、西田ガ參リマシテ決行スル事ニ就テ話ガアリマシタガ 多ク雑談的ニ話ヲシマシタ。
其ノ中ニ記憶シテ居リマスコトハ、山口大尉 ( 山口一太郎 「 本庄侍従武官長ノ女婿 」 ) ガ週番ニナッテイルノデ、
聯隊長代理ヲヤルノデ、出動部隊ノ行動ハ妨害サレナイデアラウト 云フ様ナ話モアリマシタシ、
又 栗原中尉 安藤大尉 香田大尉等 私ノ知ッテ居ルヒトノ出動スル事モ話シマシタシ、
又 村中君、磯部君等ノ參加出動スル事も話シマシタ。
又 牧野ガ湯河原温泉ニ居ル事ガカニナツタ事ヲ話シ、夫レニハ東京ノ部隊カラ出動シテ行ク事もヲモ話シマシタ。
又 何中隊、何中隊ガ出ルト云フ様ナ事モ話シマシタガ、
私ハ軍事上ノ知識ガアリマセンノデ 私ハ只 大部隊ノ出動スルト云フ事ト、
前記ノ將校等ガ出動スルト云フ事丈ケヲ記憶シテヲリマス。
其ノ時西田ハ 眞崎内閣、柳川陸相 ト云フ様ナ処が
皆モ希望シテイルシ、
自分 ( 西田 ) モ夫レガ良イト思って居ルト私ニ申シマシタ。
私ハ 荒木 眞崎ハ矢張一體ニナラントイケナインデハナイカ 
ト 問フテ見マシタ。
西田ハ 荒木ハ前ノ時 ( 陸相ノ時 ) ニ 軍内ノ肅正モ出來ズ、
只言論許リデ最早試驗濟ミト云フ様ニ皆ハ考ヘテ居ル様デス
荒木ハ関東軍司令官ニナルノガ、荒木ノ 「 ロシア 」 知識 其他人物カラ見テ
一番荒木ノ爲ニモ、國家ノ爲ニモ良カロウト考ヘテ居ル ト 申シマシタ。
又 事件勃發ト同時ニ山口大尉カラ本庄武官長ニ知ラセル事ニナッテ居ル ト云フ事モ私ハ聞カサレマシタ。
又此ノ時カ前日カ判リマセンガ、
今度ノ事ハ軍人以外ノ民間人ハ一切參加シナイ事ニナツテ居マスト云フ話モアリマシタシ、
二月ノ二十日以後二、三日ノ間デ日ハ記憶ハアリマセンガ、
西田カラ小笠原長生子ニ會ひマシテ 相澤公判ノ事ナドヲ詳シク御話シテ
或ハ青年將校ガ蹶起スル事ガアルカモ知レマセント話シテ來タト私ニ申シマシタ。

其後二月ノ二十五日夜八、九時頃ト思ヒマスガ、西田ガ參リマシテ、
千坂海軍中將邸ニオ通夜ニ行カウト思フト申シマシテ

貴方ノ香奠ガ未ダヤツテナケレバ 私が ( 西田 ) 持ツテ行コウト思フガ何ウデストノ話デシタ
私ハ 葬儀ガ終ツテ靜カニナツテカラ私ガ改メテオ悔ミニ行カウト思ツテ居ルカラ、今日ハ宜シイト話シマシタ
其ノ時西田ハ、明朝決行スル事ヲ私ニ話シ 
又 豊橋部隊ノ都合上西園寺ハ止メニシマシタ  ト 申シ
又 龜川カラ千五百圓丈ケ都合シテ貰ッタ  ト 申シ、
如何ニ金ガイラント云ッテモヤハリ少シハイルノダカラ  ト申シマシタ。
其ノ時モ前日來ノ事ヲ繰返シテ
貴方ハ私カラ何モ聞カナイ事ニナツテ居ルノデスカラ 其ノ積リデ居テ下サイ ト 固ク申シテ行キマシタ。
西田カラ私ニ話サレタ事ハ此レ丈ケデアリマス。
尚 村中カラ 二月ノ二十二、三日頃ト思ヒマスガ、村中ガヤッテ來マシテ 吾々ハ愈々決行シマスト 只一言申シマシタ
私ハ西田カラ聞イテ居リマシタノデ 何モ村中ニ質問モ致シマセズ、
村中モ西田ヲ押シ除ケテ私ニ色々云フ様ナ事ガアリマセンノデ 外ノ話ヲシテスグ歸リマシタ。
以上ガ事件前ノ全部デアリマス。」


(三)  昭和一一年三月一八日付第二回聴取書   ( ・・・リンク→北一輝 (警調書2) 『 仕舞った 』 )
北は、この聴取書の中で、事件発生後の北の行動と事件に対する自らの心情を詳しく語っている。
とくに、青年将校の蹶起が事前に十分な根回しもなく、
いわば暴発的に起こったものであったことを知ったときの 心の動揺を述べる部分は、印象的である。

「 一、西田カラ愈々青年將校ガ決行スルト聞カサレタ當時ノ心境ハ、
 私ハ一師團ガ満洲ニ派遣サレルト云フ特殊ノ事情カラ暴發スルモノデアルト観マシテ、
之ハ他人ガ如何トモスル事ガ出來ナイ、
就テハ 青年將校ノ目的トスル君側ノ奸臣ヲ一掃スル事丈ケハ成功サセ度イト考ヘ、
心カラ目的ノ成就ヲ祈ッテ居リマシタ。
尚 コレヲキツカケトシテ陸軍ノ肅正ヲ考ヘテ居ルト聞キマス眞崎等ガ出テ陸軍ノ肅正ヲ圖リ、
次イデ各方面ニ亘ッテ昭和維新ノ第一歩ヲ踏ミ出スノデハナイカト云フ期待ヲモ持チマシタ。
又 私ハ 萬事西田ノスル事デアリマスカラ、
中堅將校又ハ其上層ノ將軍等ニ聯絡モ執ッテアルモノト思ヒマシタノデ、
上層部トノ關係ニ就イテハ自分カラ何ナッテ居ルカハ聞カズ、
只當時西田ニ青年將校ノ態度ハドンナカト私カラ問ヒマシタ。
西田ハ  皆極メテ冷靜デス  ト 答ヘマシタ。
私ハ  夫レデハ宜シイ  ト 申シマシタ。
之ハ 私ガ青年將校達ノ成功ヲ祈ッテ居ル關係上 アセッタリナドシテ居テハ困ルト考ヘ 尋ネテ見タノデアリマス。
一、事件發生後ノ事ト致シマシテ
( 中略 )
午後四時頃カト思ヒマス、西田ガ參リマシタ。
此時赤澤モ一緒ニ來タカモ知レマセンガ、私ノ部屋ニハ這入リマセンノデ
西田一人デ來タノダト思ッテ居リマシタ
話シタ事ハ 大體襲撃目的ヲ達シタ事ヲ話シマシテ、尚私ハ ( 西田 ) 此処ニ居リタイト申シマシタノデ、
私モ西田ノ事ハ心配デモアリマスシ 即時ニ承知シマシタ。
間モナク薩摩モ參リマシテ 三人同部屋ニ居リマシタ。
ソシテ薩摩ハ午後七時カ八時頃ノ間ニ歸ッタノデスガ、
此ノ間ノ話シトシマシテハ 西田ト色々話シテ居リマシタ様デ 此ノ日ハ世間モ大騒ギノ話デ持チ切ツテ居ルモノデスカラ、
話題ハ夫レヲ中心トシタ事デアッタト記憶シテ居リマス。
薩摩ガ歸リマシテカラ西田ト私二人ニナリマシテ  今迄私ガ聞イテ居ル話ニ依リマスト、
今度ノ蹶起ニ際シテ豫メ具體的ニ陸軍ノ中堅層及上層ニ何等カノ了解聯絡ガ無カッタ様ニ聞エマシタノデ
私ハ西田ニ向ッテ、
眞崎、荒木、其他 満井中佐、石原大佐、小畑、鈴木貞等ト 事前ニ十分ノ話合ヲシテ無カッタノカ
ト 問ヒ質シマシタ。西田ハ
一人ニモ話シテ有リマセン ト答ヘマシタ。
一方 同日首相官邸ノ青年將校等ニ軍事參議官全部ガ參リマシテ、
參議官ノ方ヨリ非常ノ感激ヲ以テ青年將校ニ對シ、
「 吾々軍事參議官一同ハ諸君ト共ニ死ヲ賭シテ昭和維新ニ前進仕様 」 ト
申シタノニ對シ、青年將校側ハ
「 臺灣ノ柳川ヲ以テ次ノ總理トセラルル事ヲ希望スル 」
ト 申シタト云フ事ヲ西田カラ聞キマシタノデ
之デハ全然具體的ノ了解連聯絡ノ無カッタト云フ事ヲ知リ確メタノデ、
私ハ心ノ中ニ 「 仕舞ッタ 」 ト云フ心配ヲ生ジテ 多ク沈黙ニナリ、
此ノ善後處置ヲ如何ニスベキカニ、只一人心ヲ砕イテ居リマシタ。
( 中略 )
二月二十七日ハ
私ハ昨日軍事參議官ガ青年將校ニ對シテ、諸君ト一致シテ昭和維新ニ前進仕様ト云フ申シ
出ニ對シテ
青年將校側ガ柳川ヲ持チ出シタト云フ事ハ、
考ヘ方ニ依レバ列座ノ軍事參議官全部ニ對スル不信任ノ意志ヲ明白ニ表示シタモノトナリマスノデ、
之ハ年少若気ノ重大ナル過失ト考ヘ、
事變前 眞崎説ト云フ事ヲ西田カラ聞カサレテアツタノトモ相違シマスノデ、
其ノ点許リヲ苦慮致シマシテ、
朝床ノ中デ眼ヲ醒マシマシテモ此ノ善後處置ヲ如何ニスベキカヲ考ヘテ許リ居リマシタ。
此ノ朝 自分(北)ハ愈々決心ヲ致シマシテ 此ノ儘ニシテ置ケバ行動隊ヲ見殺シニスル丈ケデアル、
時局ヲ収拾スル事ガ何ヨリモ急務デアル、
随ッテ時局収拾ハ青年將校ヲ有利ニ保護スルモノノ内閣デナケレバナラヌト考ヘマシタ。
氣ノ起ッテ居ル人々ニカウイフ事ハ申セマセンカラ
西田ニ電話ヲ掛ケサセテ青年將校ノ誰カヲ電話口ニ出テ貰フ事ニシマシタ。
確カ栗原中尉ト思ヒマス、
電話口ニ出マシタノデ私ハ次ノ様ニ話シマシタ。
「 ヤア暫ク、愈々ヤリマシタネ、
就テハ 君等ハ昨日臺灣ノ柳川ヲ總理ニ希望シテ居ルト云フ事ヲ軍事參議官ノ方々ニ申シタサウダガ、
東京ト臺灣デハ餘リ話シガ遠スギルデハナイカ、
何事モ第一善ヲ求メルト云フ事ハ カウイフ場合ニ考フ可キデハアリマセン、
眞崎デモ良イデハナイカ、眞崎ニ時局ヲ収拾シテ貰フ事ニ 先ヅ君等青年將校全部ノ意見ヲ一致サセナサイ。
サウシテ君等ノ意見一致トシテ軍事參議官ニ申出デ
軍事参議官ノ方モ亦軍事參議官全部ノ意見一致トシテ眞崎ヲ推薦スル事ニスレバ、即チ陸軍上下一致ト云フ事ニナル。
君等ハ軍事參議官ノ意見一致ト同時ニ眞崎ニ一任シテ一切ノ要求ハ致サナイ事ニシナサイ。
ソシテ 呉レ呉レモ大權私議ニナラナイ様ニ軍事參議官ニオ願ヒスル様ニシナサイ 」
更ニ私ハ念ヲ押シテ、
「 良ク私ノ云フ意味ガ判リマシタカ、
意味ヲ間違ヘナイ様ニ 他ノ諸君ト速カニ相談ヲシテ 意見ヲ一致サセナサイ 」
電話ノ要旨ハ以上ノ通リデ、午前十時過ギト思ヒマス。
尚ホ 西田ト村中トノ電話デ話シテ居ルノヲ機會ニ 私ガ電話ニ出マシテ
村中ニ向ッテモ、栗原ニ申シタト同一ノ言葉ヲ以テ青年將校ノ意見一致ヲ急速ニスル様ニ説キ勧メマシタ。
此時、栗原モ、村中モ
皆ト相談シテ直チニ其様ニ致シマス
ト云フ返事デアリマシタ。
後チ午後四時カ五時頃ト思ヒマス、西田ト村中ト電話デ話シテ居リマシテ、
其ノ電話ガ午前私ガ掛ケマシタ返事デアリマシタノデ、
西田ガ私ニ、尚直接電話ニ掛ッテ聞ク様ニ申シマシタノデ、
私ガ村中カラ聞キマシタノハ、次ギノ通リデアリマス。
「 先程軍事參議官ハ全部ハ見エマセンデシタガ、西、眞崎、阿部 ノ三大將ガ見エマシタノデ、
吾々一同ノ一致セル意見トシテ、此ノ際眞崎閣下ノ出馬ヲ煩ハシテ 眞崎閣下ニ總テヲ一任シタイト思ヒマス。
何ウゾ軍事參議官閣下等モ御意見一致ヲ以テ 眞崎閣下ニ時局収拾ヲ御一任セラルル様御願致シマス。
何ウゾ御決定ノ上ハ 直チニ陛下ニ奏上シテ、其ノ實現ヲ期スル様ニオ願ヒ申シマス
ト申シタ処、西大將、阿部大將、ハ 即時ニ
夫レハ結構ナ事ダ、君等ガサウ話ガ判ッテ自分等ニ一任シテ呉レルナラバ 誠ニ結構ナ事デアル
早速歸ッテ皆トモ相談シテ返事ヲ仕様、ト 云フ事デアリマシタ。
ソシテ 少シ不平ノ様ナ語気ヲ以ツテ眞崎閣下ハ、兎ニ角君等ハ兵ヲ引く事ガ先ダト云ヒマシタ 」
之ガ村中ノ電話デアリマス。
其時私ハ、
其ノ返事ヲ一刻モ早ク聞キ度イカラ、返事次第知ラセテ呉レ
ト 申シテ電話ヲ切リマシタ。
( 中略 )
夜十時頃ト思ヒマスガ 薩摩君ガ參リマシタ
私、西田、薩摩の三人一座シテ、其時私ガ薩摩ニ申シマシタ、
「 青年將校ハ眞崎ヲ立テテ一任スルト云フ事ニ漸ク意見ガ纏ッタ。
未ダ軍事參議官カラノ返事が無イサウデアルガ、要スルニ今回ノ事ハ陸軍カラ出シタ火事デアルカラ、
陸軍ノ參議官丈ケデハ少シ苦シイ処デアルダラウト思フ
( 夫レハ 只私ノ想像トシテ 返事ノ遅レテ居ルノガサウイフ關係デハナイカト思ヒ巡ラシテイタノデス )
就テハ第三者ノ立場ニアル海軍側カラ、時局収拾ヲ眞崎ニ一任仕様ト申シ出テ呉レレバ、
陸軍ノ意見ヲ一致セシムルノニ好都合デアラフト思フ。
デ 直グニ 加藤大將ニ 青年將校ノ意見ノ一致シタ事ヲ知ラセテ、海軍側カラノ御骨折ヲ願ツテ呉レ 」
ト 私ハ薩摩ニ申シマシタ。
薩摩ハ直チニ卓上ノ電話ヲ取ッテ右ノ意味ヲ加藤大將ニ申シマシタ。
( 中略 )
二十八日中ハ
私ハ唯軍事參議官カラ青年將校ニ對シテ返事ガアルノ許リヲ待ッテ居リマシタ。
西田ニ對シテ午前、午後三回ニ亘ッテ返事ノ來タカ否カヲ問ヒ合ワセテ貰ヒマシタガ、
返事ガアリマセン ト云フ事デアリマシタ。
私ハ 他ノ勢力ノ動キ始メタカ、何ウカト云フ事モ知ラズ、
唯陸軍ガ上下一致シテ眞崎ヲ奏請スル様ニナルデアラウ事ヲ信ジ、
青年將校ノ身ノ上モ夫レニ依ッテ有利ニ庇護サレル事ヲ期待シテ居リマシタ。
従ッテ色々ノ風評ノ如ク陸軍同士ガ相撃ツ様ナ不祥事モ起ラナイ事ヲ信ジテ
比較的心痛ナク、午後迄只返事ヲ待ツテ居リマシタ。
( 中略 )
要スルニ 二十八日中ハ 眞崎内閣説ニ軍事參議官モ意見一致スルモノト信ジ、
海軍側ノ助言モ亦有効ニ結果スルモノト信ジ、
随ッテ一任スルト云ッタ以上ハ 出動部隊モ兵ヲ引イテ
時局ガ危險狀態ヨリ免ルルモノト許リ確信致シテ時間ヲ經過シテ居リマシタ。

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( ・・・リンク→・ 北一輝 (警調書4) 『 柳川では遠い 』 ) 3/20  3/21
( ・・・リンク→・ 北一輝 (憲調書) 『 西田は、同志と生死を共にしようと決心した 』 )


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