三月事件から十月事件へ
先般勧すすめられて映画 「 叛乱 」を見、非常に感動した。
大変良くできており、かつ、大体公平に扱われていると思われたのが嬉しかつた。
叛乱将校達にたいして、殊更に善意を持たず、さりとて悪意も持たず、
有りのままの事実を示そうとしたところが、無理にねらいをつけて、
その方へ引っぱっていくやり方などに比して、どんなにか好感が持てたのである。
なお私は、その後立野信之氏の小説 「 叛乱 」 をも読んで見た。
そうしてこれは小説とはいいながら、大体の事実をよくとらえ、
事件の真相を伝えているのに感服をした。
相澤中佐を演じる、俳優・辰巳柳太郎
ところでこの事件は、まだ未解決のままである。
簡単にいえば、誤つた処置のしつぱなしである、と思う。
私がそう思う次第を述べて、世の批判に訴え、また後日のためにも、
書き残ししておきたいのである。
事件の内容を知らぬ人々のために、
まず事件以前の軍部内の事情、並びに事件の略記から始めていく。
・
わが陸軍部内に派閥が生じ、統制が紊みだれるに至つたのは、一朝一夕のことではあるまいが、
それが表面化するにいちつたのは、昭和六年三月 ( 浜口内閣の末期に )
宇垣大将が軍事参議官の当時、クーデターによつて、自ら政権をとろうとした時にはじまる。
当時の宇垣氏にどれだけ救世済民の誠意と、具体案とがあつたかは不明であるが、
これに参画した者には、当時の参謀次長二宮治重 ( 中将 )、軍務局長小磯少将 ( 後の首相 )、
同軍事課長永田大佐 ( 後の軍務局長 )、参謀本部作戦部長建川少将らがあり、
これに同調せる者には、橋本欣五郎中佐 ( 後の大佐 ) 外幾多の青年将校達があつた。
特に、その時の計画を立案した者は、後に相澤中佐に斬殺された永田軍務局長であり、
その筆になる計画案は、今も某氏の手元に保存せられている。 ( 第三部特別資料篇参照 )
しかしその後、肝心な宇垣大将が、
「 クーデターによらずとも、政権が取れそうであるから、クーデターはやめだ 」
といつて動かなくなつたためにこの三月事件は未遂に終わつたが、
これが軍部による叛乱計画の最初のものであつた。
( 当時の宇垣氏は、浜口首相が東京駅で撃たれたので、政権は自分にくると考えたらしい )
その後宇垣大将らの態度にあきたらず、
飽くまで革命を断行しようとした者に建川少将および橋本欣五郎大佐、長勇少佐らの一味があつた。
この人達は民間の大川周明氏らとも通謀し、革命の成就を確信し、
盛んにカフェー、待合等において気焔きえんを上げたものであつたらしい。
そのような不謹慎な態度のために、この事件は同年十月に発覚して、これまた未然に終わったが、
これは十月事件 ( 第三部特別資料篇参照 ) とよばれるものである。
満州事変から五・一五事件へ
これよりさき、昭和六年九月十八日に起った満州事変は、
当時の関東軍参謀板垣大佐(後の陸相)、石原中佐 (後の参謀本部作戦部長、京都師団長)、
片倉大尉および特務機関の花谷少佐らが、本庄軍司令官の十分の同意をえず、
したがつてまた、もちろん軍首脳部の諒解をえずして、勝手に起したものであつたが、
当時の朝鮮軍司令官は事態重大のため、
( 捨ててけば在満日本軍が全滅となり、その対外影響のきわめて悪いことが想像されるので)
その間の理非を問うの暇なく、とりあえず救援の兵を送った。
ついで軍の上層部も事情余儀なく、各方面の諒解を求めて、
この事変を正しい事変へと認めるにいたつた。
その結果満洲事変は、日本軍の勝利のうちに完了したけれども、
この満州事変における将校達の専壇は、その後におけるきわめて悪例となつた。
つまり青年将校達が結束して事を起せば、軍の上層部は引きずれるという自信を、
強気の青年将校達に与えたのである。
・
昭和七年五月十五日に起つた いわゆる五・一五事件は、
海軍の青年将校および陸軍士官候補生らによつて企てられ、
当時の犬養首相を暗殺したのであつたが、
これは一派の海軍将校達が、
昭和四年の浜口内閣以来、打ち続く内外の重大事件にたいする、
政党政治家の優柔不断を憤つたものであつた。 なおこの裁判については、
この将校達の一挙を非常に憤る一派と、
その心事に極端に同情する一派とに分れて抗争したが、
結局この事件は、
犬養首相を暗殺した責任者が、懲役十五年の刑に処せられ、
以下はそれよりも軽罪に終つた。
・
既述の満州事変は南陸相時代に起つたのであるが、
南氏がその収拾をなさずして、陸相の地位を去つた後をうけたのが荒木陸相であり、
その頃から荒木陸相、真崎大将(当時の中将)、小畑少将、柳川軍次官、
山岡軍務局長らを中心とする皇道派の勢いがはなはだ盛んになるにつけ、
これと対立する 東条、杉山、寺内、梅津、永田、
後宮各将官を中心とする統制派も次第に結束を固めて、
互いにその勢力を争うようになつた。
[ 註 〕 皇道派に属する将校には、隊付きの正直一途な青年将校が多く、
統制派に属する将校には、陸大出秀才の利巧な幕僚将校が多かつた。
そうして前者の多くは、二・二六事件で死罪、その他の刑を受けたが、
後者の多くは、その後独伊派将校と呼ばれた主戦派の幕僚達で、
上層部をロボットにして、実際上過般の戦争を指導した人達である。
ある人は、皇道派の青年将校達の視野の狭いのに比すると、
統制派の将校達の方が視野が広かつた、と評したそうであるが、
その統制派の将校達も後段に詳説するごとく、
日独伊三国が同盟さえすれば、英米その他はその威力の前に慴伏しゅうふくして、
ヨーロッパは独伊の意のままになり、アジアは日本の自由になると考え、
あの無謀な戦争に遮二無二 日本を突入せしめて、日本を敗戦降伏に導いたのであるから、
視野の広かつたという彼らの眼が、余程見当違いなものであつたことは間違いあるまい。
なお、終戦の際にも講話の提議をあのソ連に持込んで、逆手をとられたのであるから、
その乱視も余程ヒドイものであつたといえよう。 ・ 満州事変が収まつて満洲国の建国がなり、
荒木陸相が退いて林(銑十郎)大将が陸相となるや、
荒木陸相時代に雌伏しふくを余儀なくされていた統制派は、永田軍務局長を中心として、
俄然その勢力を盛り返し、
当時皇道派にはなはだ不快を感じていた、斎藤内大臣以下宮中方面の人々および、
岡田内閣の諸公とも提携して、皇道派の排撃にかかつた。
しかしこれを当時の皇道派からみれば、統制派の中心である永田軍務局長こそ、
三月事件のクーデターに参画した人物であつて、彼こそ軍の統制を紊した発頭人ではないか。
そんな一派が堕落せる政治家どもと結託して、軍の統制を云々するのは、
要するに自分達の権勢を張るための方便に過ぎぬとして、
統制派の策動が盛んであればあるほど、皇道派の反感が募つていつた。
仕官学校事件と相澤事件
昭和九年十一月、その頃士官学校中隊長であつた辻政信大尉は、
かねて不穏の噂のある皇道派青年将校達の動静をさぐるがために、
士官学校生徒をスパイとして使用し、その生徒らに青年将校を歴訪せしめて、
過激な言動をなさしめ、青年将校達の反応をさぐらしめた。
皇道派青年将校中の磯部一等主計と、村中大尉の二人はその手にのせられ、
彼の考えている国家改造の実行計画について語つたと伝えられているが、
そのいよゆる実行計画案の大部分は、
皇道派をおとしいれるために造つた統制派の偽作であるというのが、真相のようである。
統制派の永田軍務局長は辻大尉を通じて、そのスパイの報告を受けるや、
直ちに磯部、村中氏らの一派を検挙し、ついで両氏を予備にしたので、
両氏が非常に統制派の卑劣を怒つたのはもちろん、皇道派と統制派の相剋は、
これを契機として ますますはなはだしくなつていつた。
これがいわゆる十一月事件である。
・
その後昭和十年七月十一日附にて、
磯部、村中両氏の名で発表せられた 「 粛軍に関する意見書 」 ( 第三部特別資料篇参照) には、
前記の宇垣大将らの三月事件および、橋本大佐らの十月事件の処罰を曖昧にしたことを難じ、
それが軍の統制の紊れる所以となつているのであるから、
信賞必罰、懲罪の適正を期する外に、粛軍の途がないという趣旨を論じている。
・
昭和十年七月六日に皇道派の真崎教育総監が、
時の政府と通謀せる永田軍務局長の筋書によつて、遂に教育総監の職を罷免せられるや、
皇道派憤激はますます抑え難きものとなつた。
同八月十二日に、真崎大将罷免の不当を確信せる相澤中佐は、
陸軍部内の奸賊を除くという考えから、永田軍務局長を陸軍省において斬殺した。
これを世にいう相澤事件である。
皇道派と統制派とは、この事件の公判を機会として、相互に自派を有利に導こうと努め、 怪文書が乱れ飛んだ。
叛乱将校蹶起の動機
ついで起つた二・二六事件、すなわち小説および映画の「 叛乱 」事件は、
昭和十一年二月二十六日に起つたものであるが、
私の見るところでは、この人達の蹶起の動機はおよそ四つある。
第一は、
連年の国政宜しきを得ざるがため、資本家の間に疑獄事件が起つて世人を憤激せしめるのみか、
下層階級の者の生活き窮迫し、子女を苦界に売る者さえ少なくない有様であるから、
下層階級の子弟を兵士として教育している青年将校達の苦悩は一通りでないのに、
それには何ら適切な処置を講ぜずして、
一部資本家の利益のみを計つて、平気でいる岡田内閣および、
その背後にあつてこれを支持する斎藤内大臣らは、許すべからざる人々である。
〔 註 〕
当時の農村の疲弊が如何にはなはだしかつたかは、
満洲で多くの武勲をおさめた多門師団(仙台第二師団)が、郷里より兵士への来書の多くが
家庭の窮状を訴えるため、兵士の士気が全く揚らなくなり、
悄然として急に内地へ引揚げた事實によつても、知られるのである。
・
第二は、
当時の元老、重臣、政界の上層部の人達は、天皇機関説の信奉者であるため、
この頃世論が喧しくなつていた国体明徴問題 ( 日本の国柄を明白にする問題 ) に関して、
明快なる断定を下さざるのみならず、建軍の生命である統帥権問題についても、
これを蹂躙してかえりみない現在の軍首脳部と、策謀している。
第三は、
統制派で占めている当時の軍首脳部は、元来のわが立国の本義を解せず、
軍人精神にかけるところのある人達であるが、それが当時の堕落せる政治家どもと結託して、
軍部内の皇道派を排撃し、その上にてドイツのナチスを真似ようとしつつあるのは怪しからぬ。
ここに粛軍の必要がある。
第四に、
国際連盟脱退以後におけるわが国の地位は孤立し、対外事情は切迫して、
いわゆる一触即発の状態にあるが、軍の統制派はむしろ戦争誘発の方向に進んでいる。
しかし、現状のごとき政界と国民生活の実情とをもつて、大戦争を開始するなどとは危険この上もない。
いずれにしても、速やかに日本国の陣容を革新整備する必要がある。
大体、以上のごときものであつたと思われるのである。
もとより、政治の実情に通ぜざる青年達の時局観であるから、そこには認識の不足もあり、
誤解もあろうが、彼らは一途に右のごとくに考えていたようである。
〔 註 〕
このごろ青年諸君----ことに国体といえば、国民体育大会の略称だとばかり思う人々には、
当時の国体明徴問題とか、統帥権問題とかいつても、何んのことか理解がいかぬであろうが、
それがその当時の純真なる青年将校達の、血を沸き立たせるに足りるものであつた次第は、
後段において述べる通りである。
あえなくも意図挫折す
皇道派青年将校達のこうした憂国の至情は、
----当時の情勢上----部下の兵士をも感激せしめるに十分であつたから、
上官である彼らが兵士を引率して、この事件に参加せしめるのに苦労はなかつた。
かくして彼らは、総勢二千名近くの軍隊をひきいて出動し、降り積む雪をけ立てて実力を行使し、
斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監らを仆たおし、鈴木侍従長に瀕死の重傷を負わせた。
なお彼らは、岡田首相および西園寺元老、牧野重臣らもねらつたが、
手違いのためにその目的を達しえなかつた。
目指す人々を仆した後の彼らは、永田町の首相官邸を中心に警備をととのえる一方、
陸軍上層部や各軍事参議官に折衝して、彼らの信ずる国家改造計画を遂行し得る内閣の出現を望んだ。
彼らの希望は、当時台湾にいた台湾軍司令官柳川中将による時局の収拾であつたが、
その上京までの時日の遷延を恐れて、真崎大将首班の内閣出現を主張した。
それはもちろん、到底不可能なことであつたが、彼らはその実現を信ずるほどに単純であつた。
しかし叛乱後の時局の推移は、---当然のこととはいいながら
---まつたく叛乱将校達の期待を裏切って進展していつた。
はじめ二・二六事件の勃発に色を失つた陸軍首脳部、ことに、いわゆる統制派の人々も、
叛乱将校達にたいする宮中方面の反感がはなはだしいのを知ると、次第に強気を取返し、
遂に叛乱将校達を奉勅命令違反の叛逆者として逮捕し、裁判に附することとなつた。
一方叛乱将校達は、宮中方面および世論の反感により、当初の志の行われざることを知り、
兵士達を原隊に復帰せしめて、自分達は縛についた。
もつとも叛乱将校中の野中大尉は、上官の忠言によつて自決し、
熱海の陸軍病院に療養中の河野大尉 ( 湯河原で牧野伸顕氏を襲撃して果さず、逆に重傷を負った人 )
も自決し、安藤大尉もまた自決しようとしたが、部下に支ささえられて果さなかつた。
そうして安藤大尉以下は皆公判廷において、大いに自分達の心事を述べ、
全国民に訴えるつもりで縛についたのであつたが、
裁判は弁護士もつけない非公開の暗黒裁判で進められたがために、
その意思は果されなかつた。
そうしてその裁判の結果 叛乱将校十三名および、これに同調した民間人四名は、
叛逆者として死刑の判決を受け、同年七月十二日におけるその人々の銃殺と、
その他の人々のそれぞれの処罰とによつて、二・二六事件は落着したのであつた。
〔 註 〕
磯部、村中、北、西田ら四氏の銃殺は他の人より一年余り遅れ 昭和十二年八月十九日に執行せられた。
東京麻布一本松、賢崇寺の墓地に合祀されている二十二士は、
昭和十一年七月五日死刑の判決を受けた十七士の外に、北、西田両氏を加え、
外に叛乱将校中先に自決した野中大尉、河野大尉および相沢事件の相沢中佐を加えたものである。