あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

軍部獨裁の陣容整う

2017年01月15日 20時09分56秒 | 『 天皇と叛亂將校 』橋本徹馬


軍部独裁の陣容整う

かくして、皇道派が徹底的に一掃せられ、統制派一色になつた後の軍部はどうなつたか。
まず 二・二六事件後三カ月を経た昭和十一年五月二十八日に、広田内閣のもとにおいて、
陸海軍大臣の任用制度が改正せられ、
「 陸海軍大臣は現役の大将又は中将に限る 」 こととなつた。
これでその時々の四、五の有力なる現役大・中将らが結託すれば、
如何なる軍独裁も行い得ることとなつたのである。
その後における杉山、寺内、畑、東條、梅津、板垣ら各将官の間における、
軍要職のたらい廻し的人事は、その源をここに発している。
ついで昭和十二年一月に 広田内閣が辞職して、宇垣大将に内閣組織の大命が降つた時、
寺内陸軍大臣は大磯の別邸において、
「 宇垣内閣で結構 」
との 意志表示をしたが、
それを聞いた統制派の時めく幕僚将校は、さつそく寺内陸相の上京を促し、
陸相官邸に毛布を持つて座り込み、宇垣内閣を流産せしめるまでこの場を去らぬと頑張つた。
( これがその後における労働運動者の座り込み戦術の先駆をなすものである )
その結果、宇垣大将は折角内閣組織の大命を拝しながら、苦闘四日の後、
遂に陸軍大臣が得られないために、大命拝辞の余儀なきにいたつたのである。
宇垣内閣流産の後に、内閣組織の大命を拝したのは林銑十郎大将であるが、
その内閣の陸軍大臣に就任した杉山元中将は、議会の質問に答えて、左の通りにいつた。
「 当時の陸軍は決して宇垣内閣の出現を妨害したのではなく、
ただ陸軍の三長官会議において銓衡したる数名の候補者が、
いずれも陸相たることを肯がえんぜなかつたのである・・・・
それには特殊の事情があるが、それはいわぬ方がよいと思う 」
しかし、一体白昼公然、内閣組織の大命を拝した宇垣大将の内閣組織にさいし、
陛下の陸軍が大臣を出さなかつた事情が、秘密にされて済ますべきことであろうか。
私は宇垣大将が、三月事件を企てた人であることをしつており、
また宇垣氏の性格がきわめて大つかみな人であることもしるが故に、
宇垣氏が首相になれなかつたことについては、何も惜しむところがなかつた。
けれども内閣組織の大命を拝した宇垣大将に、大元帥陛下の陸軍が大臣を出さぬということは、
これこそ先きの叛乱将校達の奉勅命令違反以上の大命反抗であると思つたし、
ことに柳川将軍は、これが悪例となつては大変であると、頻しきりに嘆かれるので、
私は遂に意を決して、
「 奉勅第一主義の徹底 」
という一文を書き、まずそれを民間法律界の権威者である松本烝治博士に聞いてもらつて、
私の所論が法律上誤りなき正論であることを確め、
つぎに当時の枢密院議長である平沼喜一郎氏にも同様に確め、
さらに時の総理大臣林銑十郎大将の同感を得、
また、その紹介にて当時の大村警保局長に会い、
その紹介にて赤羽図書課長に文章の事前検閲を受け、
これなら絶対に法律違反にならぬという言明を聞いた後、
それを読売新聞紙上に約半頁大の広告として公表した。
流石の軍部も、私のその一文に大狼狽し、
陸軍省新聞班の菊池大尉と、東京憲兵隊の林少佐とが早速内務省図書課に赤羽課長を訪い、
私の文章の載つた読売新聞を至急発売禁止にしてもらいたいと申込んだ。
しかし赤羽課長は、
「 あの文章のどこに法律違反に問われるべき点があるか 」
と 反問すると、二人の将校は、
「 実は陸軍の法務局で研究したのだが、文章が実に巧妙にできていて、
どこにも違反の字句がないけれども、もしあの文章を紫雲荘が例の通り、
つぎつぎと各大新聞紙上にけいさいすることになれば、
その影響は恐るべきものであるから、是非発売禁止をしてもらいたい 」
といつた。
赤羽氏は答えて、
「 文章に違反の字句がなくて、恐るべき影響があるというのなら、
それは筆者がエライということなのだから、
致し方がないではないか、こちらは発売禁止にするわけにいかぬ 」
といつて、突っぱねた。
二人はスゴスゴと辞去したが、今度は憲兵隊の和田准尉を各大新聞社に派遣し、
紫雲荘の文章不掲載を懇願せしめた上にて、
さらに午後にはさきの二将校が再び赤羽図書課長を訪ね、
「 どうしても、あの文章を差止めてくれぬと、軍が崩壊の恐れがある 」
といつて泣きついた。
その結果赤羽課長より、私にたいし、
「 こちらは決して掲載差止めはせぬが、最早効果十分と思うから、
他新聞への掲載は見合わせてもらえぬか 」
という話があつたので、私はその後の新聞広告を見合わせることにしたのである。
( 和田准尉が各新聞社を廻つた以上は、
他新聞への掲載は企てても無駄であつたに相違ないのである )
なおその数日後、憲兵隊の林特高課長より呼出しがあつたので、出かけていくと、
実は憲兵司令官中島今朝吾中将より林特高課長にたいし、
「 橋本を拘引せよ 」
という命令があつたが、林課長は、
「 橋本の文章の掲載紙さえ発売禁止になつていません。
法律違反のない者を拘引はできません 」
と 答えると、
「 面倒臭いことをいう奴だ 」
と 怒鳴られた由であり、
そのような空気のために こちらからお伺いするはずのところ、
お出でを願うことになつたという意味の話があつた。

左に掲げる文章は、当時( 昭和十二年三月 ) の読売新聞紙上に掲載せられた
「 奉勅第一主義の徹底 」 の 全文である。
天皇が国家の象徴となつた昨今では、すでに古典的文章に属するけれども、
然し、この文章を読む者は、当時の宇垣内閣を流産せしめた統制派の軍部は、
すでに軍全体を挙げて
先きの叛乱将校達が夢にも持たなかつた逆心を、持つていたことを知るであろう。
足利尊氏は建武の昔にばかりいたのではない。
建武中興のさいには、その論功行賞を誤つたのが、足利尊氏叛逆の原因のごとくいわれているが、
昭和の足利尊氏の一統をつくり上げたのは、二・二六事件を何んの反省の材料ともせずして、
ただ憎しみだけで処刑した誤りに、帰すべきではあるまいか。
「 叛乱将校達を叛逆者として処刑した時、大元帥陛下の率い給う皇軍は亡んだのである 」
と、いつた私の言葉に誤りがなかつたことが知られるであろう。
あの事件で銃殺された中の一人である渋川善助君も、銃丸眉間を貫く寸前に、
「 国民よ、軍部を信頼するな 」
と叫んだ由であるが、この渋川君の国民にたいする悲痛なる遺言も、
国民の耳に達しなかつたのが惜しまれるのである。
それにしてもあの二・二六事件のさいに、叛乱将校達の奉勅命令違反をあんなに憤つた
元老、重臣、宮中方面、学者、新聞人らが、宇垣内閣流産のさいの軍の叛逆について、
何んの憤りも示さなかつたのが不思議である。
その前後の態度の相違は何に原因をしているのであろうか。
彼らもまた、昔足利尊氏を助けて、楠正成を討死せしめた者の子孫だからであるか。